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男社会の音楽ジャーナリズムを解体せよ 差別と闘い続ける女性たちの提言

Rolling Stone Japan / 2023年11月21日 19時0分

1975年、ローリングストーン誌を読むパーカッショニストのオリー・ブラウン(Photo by CHRISTOPHER SIMON SYKES/HULTON ARCHIVE/GETTY IMAGES)

音楽ジャーナリズムの世界で活躍する5人の女性が、問題だらけの過去を振り返りながら、より良い未来への展望を語った。

筆者(ローリングストーン誌のシニアニュースエディター、アレサ・レガスピ)はアジア系アメリカ人の音楽ジャーナリストとして、次のことをはっきり言わせてもらいたい。昔からロックンロールというものは、言語道断な人種差別や女性蔑視と切っても切れない関係にあった。黒人アーティストの楽曲を盗用した音楽業界関係者から、フィーチャーするアーティストの選択を一身に担ってきたメディア業界の上層部にいたるまで、常にロックの世界を牛耳ってきたのは、男たち——それも白人の男たちだった。

ローリングストーン誌(以下、RS誌)は、もっとも影響力のある老舗音楽雑誌のひとつだ。それを1967年から2018年にかけて(共同創刊者として)率いたのがヤン・ウェナーである。バリー・クレイマーが1969年に創刊した『クリーム』は、クレイマーが亡くなる1981年まで続いた。成人誌『ペントハウス』の創刊者として知られるボブ・グッチョーネの長男ボブ・グッチョーネ・ジュニアが立ち上げた『スピン』は、1985年から1997年まで発行された。ウェナー、クレイマー、グッチョーネ・ジュニア……歴史ある音楽雑誌の創刊者は、揃いも揃って白人男性である。そのせいだろうか、ウェナーが自著『The Masters』に女性と有色人種のアーティストを取り上げなかった理由を「取り上げられた白人の男性アーティストほど、哲学的に雄弁ではないから」と答えたとき、業界関係者の多くは、いまさら驚きもしなかった。


アレサ・レガスピ(Photo by ANDY ARGYRAKIS)

無意識のバイアスというものは、いまだに存在する。音楽ジャーナリズムにおいても差別・偏見といった問題は根が深く、多様性の実現からはまだまだ遠い。オンラインメディアのDIGIDAYが今年公表したレポートによれば、アメリカの一部の大手出版社は、いまだに白人男性を積極的に採用している。グローバルレベルで見ても、240のメディアブランドで働く180名のトップエディターのうち、女性が占める割合は22%に過ぎないことがロイタージャーナリズム研究所によって明らかになった。

音楽雑誌は、何十年も前から白人男性の偏狭な視野にとらわれ続けてきた。だが、その背後で女性やBIPOC(黒人、先住民、有色人種の略称)がこの世界を人知れず支えてきたことも忘れてはいけない。

それどころか、女性たちはパラダイムを変えようと1960年代後半から奮闘していた。作家/ロック評論家のジェシカ・ホッパーがヴァニティ・フェア誌の中で指摘したように、1967年からの10年にかけて、RS誌では数多くの女性ジャーナリストが活躍していた。1972年のデトロイトでは、ジャーナリストのヤーン・ユヘルスキをはじめとする女性ジャーナリストのおかげで、クリーム誌は不動の地位を獲得した。さらにユヘルスキは、2022年に創刊者バリー・クレイマーの息子J・J・クレイマーとともに同誌を復刊させた。

90年代の東海岸では、ジャーナリストのカンディア・クレイジー・ホースがフェミニストならではの繊細な感受性を発揮し、サザン・ロック(ブルースやカントリーなどをベースとした米南部のロック)とそのルーツであるアフリカン・アメリカン音楽に関する記事を執筆していた。2004年には、『Rip It Up: The Black Experience in Rock n Roll』と題したアンソロジーを上梓している。カントリーミュージシャンとしても活躍するクレイジー・ホースは、「ネイティブ・アメリカーナ」と自ら命名したジャンルの音楽の創り手でもある。

90年代後半の西海岸では、作家でイェール大学教授のダフネ・ブルックスが、後に音楽評論家と音楽ジャーナリストにとって欠かすことができない毎年恒例イベントとなる「ポップ・コン(Pop Conference)」を友人と立ち上げた。2021年には、『Liner Notes for the Revolution: The Intellectual Life of Black Feminist Sound』を上梓している。

フリーのジャーナリストとして2014年にRS誌に初寄稿したブリタニー・スパノスは、2019年にシニアライターに昇格した。2017年のカーディ・B特集をはじめ、斬新なカバーストーリーを世に送り出してきたスパノスのおかげでRS誌は、新進気鋭の若いアーティストを積極的に起用するようになった。

フィリピン系移民の第一世代である筆者にとって、音楽は家族とコミュニケーションを取るための言語のようなものだった。思春期を迎えてからは、音楽は保守的な両親に反抗するための手段となった。それだけでなく、音楽は自由と居場所を与えてくれた。両親に内緒で訪れるレコードショップやライブ会場で出会う人々が私のコミュニティになった。雑誌の表紙や記事の中で、私のようなアジア系アメリカ人のアーティストにお目にかかることはなかった。それどころか、執筆者にもそんな人はいない。それでも私は、音楽ジャーナリストになりたいと思った。夢を叶えるチャンスが訪れたのは、『イリノイ・エンターテイナー』という地元紙の史上初の女性編集長に就任したときだった。2005年には、シカゴ・トリビューン紙の音楽評論チームのメンバーに抜擢された。当時のメンバーのうち、女性は私を含む2名だけで(先輩にあたる故クリッシー・ディキンスンは、主にカントリーミュージックを担当していた)、有色人種は私だけだった。そのかたわら、いまは亡き『URシカゴ』というZINEの「ウーマン・ロック」というコラムの責任者も務めた。取材対象者や同僚から受けた性差別から、女性社員には特定の仕事しかまわってこないという状況——なぜなら、仕事の決定権は男性社員が握っていたから——との闘いにいたるまで、ここまでの道のりは、決して楽なものではなかった(それどころか、いまだに思い出すのも辛いくらいだ)。だが、私には仲間やメンターと呼べる人々がいた。そこにはもちろん、男性も含まれる。こうした人々の支えがなければ、いまの私は存在しない。

男社会と言われる音楽ジャーナリズムの世界においても、自分の力で道を切り拓き、多様性に寄与してきた女性は、ほかにもたくさんいる。優秀な若い女性やBIPOCの新規参入も後を絶たない。本当は全員の名前を挙げたいところだが、ひとまずここでは、ダフネ・ブルックス、ヤーン・ユヘルスキ、カンディア・クレイジー・ホース、ブリタニー・スパノスのストーリーと洞察をお届けしよう。

音楽ジャーナリストを志した背景

ダフネ・ブルックス(以下、ブルックス):私の両親は、公民権を教えていました。ジム・クロウ法(訳注:1870年代から1964年の公民権法制定まで続いた、米南部における人種隔離政策)が施行された南部を1950年に逃れ、サンフランシスコ・ベイエリアに移住したのです。家では、両親の好きなビッグバンドやビバップ、兄がハマっていたテンプテーションズの楽曲、姉が観ていた『アメリカン・バンドスタンド』や『ソウル・トレイン』といった音楽番組を通じて、こうした音楽に触れていました。でも、人種差別のない学校に通いはじめると、パンク・ロックやニュー・ウェーヴといった音楽を聴くようになりました。私は、ポリスやクラッシュに夢中でしたが、家では誰もそれについて触れたがりませんでした。

タワーレコードに通うようになると、RS誌やヒット・パレード、クリームといった音楽雑誌が気になりはじめました。そのなかでも、RS誌が大好きでした。何よりもまず、取り扱われる題材に惹かれました。RS誌は、アーティストが自分の音楽を通じて何を伝えたいのかを解明しようとしていましたから。私は、ポリスのサウンドには、ボブ・マーリーに通じるものがあると感じていました。曲と曲とのつながりに気づき、その曲のすべてを理解したいと思いました。その結果、ロック音楽ジャーナリズムに興味を持つようになりました。やがてそれは、アフリカ系アメリカ文学に対する愛情と一体になっていったのです。この業界で働きたいと思うようになりました。業界の動向を必死に追いながらも、有色人種の女性が活躍していないことが残念でなりませんでした。

カンディア・クレイジー・ホース(以下、クレイジー・ホース):昔からロックを扱う音楽評論家になりたいと思っていたわけではありません。1970年代、私がまだ子どもだった頃は、レコードのプロデューサーに憧れていました。ライナーノーツがきっかけで、レコードづくりに魅了されたのです。レコードショップに行っては、店員たち——もちろん、男性です——と話をしました。それに、私のように音楽にのめり込んでいる女性は、周りにいませんでした。音楽は、私ひとりの空間だったのです。

90年代には、アートスクールに通うため、アフリカのガーナからニューヨーク・シティに移住しました。その後、国連で仕事を見つけました。90年代後半には、ヴィレッジ・ヴォイスというニュース/カルチャー紙のインターンシップに応募し、無事採用されました。これを機に、キャリアの道が開けていきました。


カンディア・クレイジー・ホース(Photo by CAMARA DIA HOLLOWAY)

ヤーン・ユヘルスキ(以下、ユヘルスキ):私は、音楽を聴いて、その意味を理解することができます。ミュージシャンたちが何を伝えようとしているのかも理解できますし、私たちが知らない何かを知っていることにも気づいていました。でも、ロックをやったり、曲を書きたいと思ったことはありませんでした。

ブリタニー・スパノス(以下、スパノス):12歳の頃から、私の夢はただひとつ——音楽ジャーナリストになることでした。そんな私にとっての初めてのフルタイムの仕事がヴィレッジ・ヴォイス紙でした。最初はインターンでしたが、音楽欄のアシスタントエディターに昇格しました。それと並行して、ジェシカ・ホッパーの紹介で『ルーキー』という雑誌にもフリーのジャーナリストとして寄稿しはじめました。ジェシカはスピン誌やヴァルチャー誌ともつないでくれました。2014年の夏から、フリーでRS誌にも寄稿するようになりました。

ブルックス:英文学の博士号を取得するためにUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に通っていた当時」、私は同じ大学院に通っていた親友と数えきれないほどイベントめぐりをしていました。90年代半ばといえば、ライオット・ガールはもちろん、オルタナティブ・ヒップホップの全盛期でもありました。親友と私は、文芸批評と文化批判を勉強していました。そこで、助成金に応募して、会議を開こうと考えたのです。ひとりのファンとして、私たちは「ポピュラー音楽カルチャーとポピュラー音楽ライティングに関する会議を開催しよう」と期待を膨らませていました。こうして誕生したのが、ポップ・コンです。

クレイジー・ホース:確かに、『Rip It Up: The Black Experience in Rock n Roll』はターニングポイントでした。それまで、黒人のロックを掘り下げた書籍は存在しませんでしたから。それに、ヴィヴィアン・ゴールドマンやエイミー・リンデンといったジャーナリストと仕事ができて、とても光栄でした。

ユヘルスキ:デトロイトのグランデ・ボールルーム(訳注:同地の歴史的なライブ会場)でコカ・コーラ・ガールの仕事をしていたとき、クリーム誌を売っていた人たちに「記事を書かせてくれたら、コーラとポテトチップスとタバコをおごってあげる」と言ってまとわりついていました。クリーム誌で働けるなら、なんでもする覚悟でした。編集者に手紙も書きました。頼まれもしないのに記事を書いては、編集部に送りつけていました。私は、このために生まれてきた。これが私の天職だとわかっていましたから。ティーンエイジャーのコラムニストとして、デトロイト・フリー・プレス紙に寄稿していたロレーヌ・アルターマンという女の子がいたんです。私は、その娘に憧れていました。


ブリタニー・スパノス(Photo by GRIFFIN LOTZ FOR ROLLING STONE)

スパノス:RS誌のジャーナリストとして初めてインタビューをしたアーティストの多くはその後ブレイクし、数年後に特集が組まれました。2016年にデュア・リパのRS誌初インタビューを担当したのも私でした。デビューアルバムがリリースされる1年前のことです。BLACKPINK、リゾ、ショーン・メンデス、ホールジーも、初インタビュー後にブレイクしましたね。

2017年に、初めてカバーストーリーを任されました。アーティストはカーディ・Bです。私は25歳で、ちょっとしたアクシデントがきっかけでした。私は、カーディ・Bがアトランティック・レコードと契約を結ぶ前に、彼女の記事を書いたことがありました。カーディ・BのInstagram投稿がとても面白い、と評判だったので。小さな記事でしたが、公開されたのと同じタイミングで、彼女のメジャーデビューシングル「Bodak Yellow」が音楽チャートで1位を獲得したんです。表紙のアーティストはすでに決まっていたのですが、その人を押しのけて、カーディ・Bが抜擢されました。別の担当者に仕事を取られてしまうのでは、と不安でしたが、ありがたいことに、担当させてもらえました。

それぞれが味わった屈辱、より良い未来への展望

クレイジー・ホース:まだ駆け出しのジャーナリストだった頃は、サザン・ロックやジャム・バンド、黒人のロック、ブラックミュージックをルーツとするバンドに関する記事を書いていました。ヴィレッジ・ヴォイス紙の他の黒人ジャーナリストたちは、ジャズやいわゆる「アーバン」というジャンルの音楽を担当していました。サザン・ロックバンドの取材で南部を訪れると、決まって広報担当に驚かれました。その当時、私のように黒人と先住民の血を併せ持つジャーナリストなんていませんでしたから。

ブルックス:2005年に自著『Jeff Buckleys Grace (33 1/3)』が刊行されると、ジェフ・バックリィのファンから散々非難されました。この本は、多くの人からとても高く評価されていたのですが、黒人女性がバックリィに関する本を書くなんて、その人たちには想像できなかったのです。私のような人物がバックリィに関する情報や物語を発信できるはずがない、という気持ちが怒りとなって噴出したのだと思います。

ユヘルスキ:ヤン・ウェナーは、1960年代後半から70年代にかけてRS誌に女性アーティストを起用しなかったと言っていました。それは、当時の女性たちが美しくあることだけを期待されていたからだと思います。女性が意見を述べるなんて、誰も思っていなかったのです。グルーピーであれ、アーティストであれ、世間の関心は、女性アーティストの”パトロン”に向けられていました。一人前のアーティストとして見てくれる人なんていません。私は、70年代にジャーナリストとしての活動をはじめたのですが、誰にも気づいてもらえませんでした。インタビューの場でも、ツアー中でも、ジャーナリストとして認識してもらえないのです。それどころか、自分がジャーナリストだとわかったとき、誰もが不満そうな表情を浮かべました。結局のところ、「女にロックンロールの何がわかるんだ?」というのが世間の一般的な見方でしたから。

初めてツアーに同行したアーティストは、スティーヴ・ミラーでした。そのときは、なんだか口説かれてるような気がしたのですが、ミラーはこう言いました。「いまのは君を試していたんだ。記事のネタと寝て、次の日にそいつの顔にマイクを押し付けるなんて、いったいどういう神経をしてたら、そんなことができるんだ?」と。その言葉を聞いて、はっとしました。私は、取材対象者とぜったいに関係は持たないと誓ったのです。でも、行く先々で口説かれました。リック・ウェイクマン(イエス)なんかは、取材に行くとバスタオル一丁で玄関のドアを開けたんです。取材中も、着替えてくれませんでしたね。

友人は、厄介なことが起きても「黙って堪えろ」と自分に言い聞かせていましたが、私は、記事のネタとして利用しました。どんなにささいなことでも、ゴシップ欄を賑わせるには十分でした。レッド・ツェッペリンのツアーに同行したときのエピソードのように。そのときジミー・ペイジは、直接私と話すのではなく、広報担当を間に入れたのです。1977年だったと思います。「質問は、私の広報担当にするように。彼女に答えを伝えるから」と言われました。まるで逐次通訳です。全員が英語を話しているというのに。そのことも、記事にしました(編集部注:ミラーに問い合わせたところ、代理人からコメントできないという答えが返ってきた。ウェイクマンとペイジの代理人もノーコメント)。


ヤーン・ユヘルスキ(Photo by COURTESY OF JAAN UHELSZKI)

スパノス:RS誌に入社した当時、私はヤン(・ウェナー)の下で働いていましたが、直属の部下というわけではありませんでした。それでも、彼が組織全体における重要な役割を担っていることに変わりありません。そのせいで、私たちの記事が掲載されず、女性や有色人種のアーティストにスポットライトが当たらないこともありました。私に声をかけてくれたのは、カリン・ガンツというジャーナリストでした。カリンは、RS誌のウェブサイトの立ち上げをサポートしていました。ウェブ版のプレゼンスを高めようとしていたのです。ヤンは、ウェブ版には無関心でしたから。

苦しかったのは、多くの意味で自分が独りぼっちだったことです。私は長年、RS誌唯一の黒人女性ジャーナリストとして働いてきました。フルタイムのジャーナリストとして、雑誌とウェブサイトの両方の記事を執筆している唯一の黒人女性としての社歴は、それよりも長いです。これに関しては、多くの苦労があります。より多彩なアーティストが起用されるのを見たい、という期待は、ひとりで背負うには重すぎますから。時折、自分ひとりでそれを任されているような気がします。さらに言えば、視野と心の狭いボスの前でひざまずいたところで、何かが変わるわけではありませんでした。幸運にも、私の活躍に期待してくれる素晴らしい編集者たちと出会うことができました。私たちはみんな、これまでの狭い視野をどうにかして広げようと奮闘しているのです。

ブルックス:人間というものは、知らず知らずのうちに面の皮が厚くなっていくものです。私の場合、それは文体という形でもたらされました。闘争心を剥き出しにしたときもあれば、守りに入ったときもあります。私は、いろんなステージを経験してきました。自分のことを見ようともしない、支配の中核にいる人々に訴えかけるのではなく、文体を通じて彼らに思いを伝えられると思いました。同時にそれは、彼らの狭い視野の外にある世界の偉大さを伝えられるような文章を書き続けることでもありました。私の執筆活動は、主にこうしたことを目標としてきました。私自身、学生たちの模範にならなければいけません。それは、私自身が闘っている相手に敬意を払うだけでなく、シスジェンダーの白人男性の音楽評論家であることを彼らに自覚させ、その意味をよく理解してもらうことでもあります。そうすることで、限られた視点でしか見てこなかった黒人らしさやジェンダーを通じて、音楽を理解し、より寛大で多様な意思決定を行なってほしいと願っています。


ダフネ・ブルックス(Photo by MATTHEW JACOBSON)

クレイジー・ホース:ロックを扱う黒人女性ジャーナリストには、スタミナと情熱、そして忍耐が求められます。なぜなら、そこには孤独と文化的な孤立があるからです。それでも私は、自分のやりたいことを突き詰めました。黒人ジャーナリストはブラック・ミュージックについて書くべきだという見方があります。それは、一部の人にとっては真実なのかもしれません。でも、私はそう思ったことはありません。

ユヘルスキ:皆さんが「昔よりマシだ」と思いたがる気持ちもよくわかります。当時の私たちも、ロックジャーナリズムの世界が女性にとってのいばらの道であることを承知していました。だからこそ、クリエイティビティを駆使しなければいけなかったのです。文句を言っても無駄です。記事を却下されてしまったら、それでおしまいですから。「なんだ、泣くのか?」と言われるたびに、強くなりました。あるいは、女性アーティストに専念する、という道もあります。でも、私はすべてのアーティストについて書きたかったのです。

ブルックス:私が担当している(黒人芸術批評)講座の受講生たちには、世代を超えた批評の力、価値、重要性というものが、知識生産と特定の文化的要素の価値判断の形になり得ることを理解してほしいと思っています。また、植民地時代に史上初の黒人の女流詩人として詩集を出版したフィリス・ホイートリーにまでさかのぼる、黒人の評論家たちの存在も知ってほしいです。こうした人々は、自分たちの文化形態に欠かせない価値を表明できる力を自らの手中に収めようとしたのです。アフリカ系アメリカ人を下等な人種と決めつけただけでなく、人間として見ようとしなかった白人至上主義というシステムに直面しながらも、自らの文化形態に価値を見出そうとしました。文化批判は、自由を求める黒人の闘争の中心的要素でもあるのです。

ユヘルスキ:復刊されたクリーム誌では、あらゆるジェンダーや人種を公正に描くようにしています。過去のクリーム誌の目的は、攻撃することでした。当時の私たちは、親切とは程遠かっただけでなく、いささか差別的でもありました。でも、いまは違います。なぜなら、この雑誌に携わっている人は、1970年代の人たちとはまったく違う考え方を持っているのですから。そう言えることに、私は心から誇りを感じます。

クレイジー・ホース:カクタス・ローズ(クレイジー・ホースの音楽ユニット)では、私が作詞作曲とボーカルを担当しています。男性のギタリストは、女性アーティストを積極的に支援してくれるだけでなく、アメリカーナに対する私の独特な視点が好きだと言ってくれます。曲を書くときは、先住民の女性たちの経験に光を当てることを心がけています。女性のジャーナリスト——特に有色人種の女性アーティスト——から意見が聞けたらいいな、とも思っています。音楽を語る有色人種の女性アーティストとして、十分に雄弁で知的だと思ってもらいたいです。

スパノス:ずっと前から、同僚のための温かい空間を創りたいと思っています。RS誌の歴史と共同創刊者であるヤンの見解がはっきりわかったいま、それはとても大切なことです。私たちにとって何よりも重要なのは、キャリアとレガシーを創出することです。こうしたレガシーをシスジェンダーの白人男性に独占させないことも、私たちの仕事なのです。

From Rolling Stone US.

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