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アメリカのジャズ激動期に日本人女性として奮闘、秋吉敏子はなぜいま再評価されるのか?

Rolling Stone Japan / 2024年7月4日 17時30分

秋吉敏子

日本人でただ一人、ジャズ界最高の栄誉とされる「ジャズマスター賞」を受賞した世界的ジャズピアニスト/作編曲家/ビッグバンドリーダー、秋吉敏子のアルバム12作品の配信が先日スタート。彼女が海外で大きく再評価されている理由とは? ジャズ評論家・柳樂光隆に解説してもらった。

近年、福井良や稲垣次郎、鈴木弘、森山威男などが海外でもその名を知られるようになった。レコードマニアが再発見したり、ストリーミングで発掘されたりしたことで、過去の日本のジャズがちょっとしたブームになっている。日本のフュージョンも人気で、高中正義や菊地ひみこなどが、これまでとは異なる文脈で聴かれているという話をたびたび見かける。シティポップやニューエイジと同様、日本のジャズはレコード市場でずっと人気を集め続けている。

とはいえ、再評価の文脈はレコード経由だけではない。現行世代のアーティストや歴史研究家などからじわじわ再評価されている日本のジャズミュージシャンもいる。そこで今、名前をあげるなら秋吉敏子は外せない、ということになるだろう。

ジャズ作曲家のマリア・シュナイダーがリスペクトを公言し、挾間美帆は2021年の「NEO-SYMPHONIC JAZZ at 芸劇」で秋吉の「Long Yellow Road」を取り上げている。同曲はテリ・リン・キャリントンが2022年に編纂した女性作曲家による新たなジャズスタンダード集『New Standards: 101 Lead Sheets by Women Composers』に収められていたのも印象深い。このように、海外で再び注目されだしている一方で、日本人が意外と知らないジャズ・ジャイアンツの偉業について解説していこうと思う。




天才ピアニストとして10代で台頭

秋吉敏子は1929年12月12日、旧満州に生まれ、日本に引き揚げたあとの1947年、つまり10代の頃から九州の駐留軍クラブでジャズを演奏し始めるという、紛れもない天才児だった。1949年に上京すると、すぐに当時のトッププレイヤーたちと共演しながら頭角を現し、1951年に渡辺貞夫らと自身のグループ、コージー・カルテットを結成。1953年には来日したオスカー・ピーターソンの目に留まったことがきっかけでアルバム『Toshikos Piano』を録音し、アメリカでデビューしている。


1956年、ニューポート・ジャズ・フェスティバルにて(Photo by Ben Martin/Getty Images)

秋吉のキャリアで重要な記録のひとつに『幻のモカンボ・セッション54』がある。1954年7月27日に伊勢佐木町のナイトクラブ、モカンボで行われたたジャム・セッションの録音で、渡辺貞夫、宮沢昭、高柳昌行らとともに秋吉も参加。この時期すでに日本のミュージシャンもビバップを完全にものにしていたことがわかる貴重な記録だが、ここでも秋吉の演奏は光っている。

そんな秋吉の転機は1956年、日本人初の留学生としてバークリー音楽院に入学したこと。すでに日本でのキャリアもあった秋吉は瞬く間に注目を集め、同年にアルバム『The Toshiko Trio』をストーリーヴィルから、1958年には『Toshiko & Leon Sash at Newport』『The Many Sides of Toshiko』をヴァ―ヴからリリース。名門からのリリースが物語るように、秋吉はアメリカでもその実力を認められ、チャールス・ミンガスのグループなどで活動。1956年〜1957年にはニューポート・ジャズ・フェス出演も果たしている。

この時期に秋吉が発表した作品は、ピアニストとしての彼女が全面に出ている。バド・パウエル系譜のイメージが強いが、改めて聴くと、アート・テイタムやオスカー・ピーターソンなども含めた当時の偉大なピアニストたちのスタイルを取り入れながら、自身の表現を模索しているピアノの素晴らしさにグッとくる。






「日本人」であることに向き合う姿勢

そこから1960年代に入ると、ピアニストとしての側面以外に関しても、彼女ならではの個性とヴィジョンが確立されていった。

まず、この時期から民謡を始めとした日本の曲を積極的に取り上げ、それをジャズのレパートリーとして昇華している。『The Toshiko Trio』での「蘇州夜曲」に始まり、1965年『Lullabies for You(トシコの子守歌)』での「毬と殿様」「かんちょろりん節」、1964年のジャパン・ジャズ・オールスターズに参加しての『From Japan With Jazz』では「木更津甚句」と、その例はいくつもある。こういった日本をテーマにした楽曲は、秋吉が生涯をかけて追及するものになっていく。

また、1961年『Toshiko Mariano Quartet』収録の「Long Yellow Road」、1968年『トップ・オブ・ザ・ゲイトの秋吉敏子』の「Phrygian Waterfall」、1971年『The Personal Aspect in Jazz』の「Sumie」などを聴くと、その自作曲にはストーリーがあり、個性的な旋律や響きやテクスチャーが鳴っていて、作編曲家の立場から「アメリカ人によるジャズ」とは異なるサウンドを模索しているのがわかる。秋吉は渡米してからずっと「アメリカのジャズシーンに飛び込んだ日本人」としての自身と向き合い続けてきた。




ビッグバンドを立ち上げ大きく飛躍

アメリカにわたり、激動の60年代ジャズ・シーンを生き抜いた秋吉に大きな転機が訪れたのは1973年。LAに移った秋吉は、パートナーのルー・タバキンの提案もあり、自身のビッグバンドを立ち上げる。それが彼女の立場を一気に変えることになる。

アメリカのジャズの伝統を身に着けたうえで、ジャズの中に日本の音楽の要素を取り入れ、そのうえでその色彩や響き、テクスチャーにもこだわったストーリー性の高い楽曲を書くことができる秋吉は、ビッグバンドという新たな”楽器”を手に入れたことで、その真価をようやく完全に発揮することに成功する。

1974年『Kogun(孤軍)』の表題曲では日本の鼓(つづみ)を用いるだけでなく、フルートを和楽器に見立てたりすることにより、独自のサウンドを生み出した。ビッグバンドのサックス奏者が全員フルートとクラリネットも演奏できたことから、木管楽器を取り入れることにチャレンジしたことも独特な響きを生み出すことに繋がった。



それは1975年の『Long Yellow Road』、1976年の『Insights』で更に深まっていった。特に『Insights』は雅楽で使われる打楽器の羯鼓(かっこ)を用い、色彩を抑え、ミニマムな展開で奥行きのある空間的なサウンドを奏でた「Sumie」、鼓や能楽の謡(うたい)を取り入れた「Minamata」など独創性に満ちた音楽に圧倒される傑作だ。

《日本の芸術は「間」の芸術といって差し支えないのではないかと思います。画ですと、洋画のようにカンバス全体を塗り潰さず、どう空間を取るか、能の場合は、昇華された無駄のない動き、音楽のリズムは横に流れるように思います。空間のリズムとでもいえましょうか。ヨーロッパのリズムは伝統的に縦に動きます。ジャズの場合はそれがスイングという、はっきりと間違いなく縦にリズムが動きます。私はそれに、横に流れる日本の文化を取り入れました》(『NHK人間講座 2004-6~7月号 秋吉敏子 私のジャズ物語』より)

日本の音楽との融合への並々ならぬ思いには、秋吉ならではのジャズへの矜持があった。

《デュークが亡くなったとき、ヴィレッジ・ヴォイス誌にナット・ヘントフが書いたデューク・エリントンへの追悼文が出ていました。その中の、デュークがいかに自分が黒人であったことを誇りに思っていたか、いかに多くの彼の音楽が黒人の伝統に根付いているか、という内容に私はハッと自分を見つけたのです。彼の音楽、それは彼自身の歴史です。と同時にそれはアメリカ黒人の歴史でもあるのです。私の音楽は私の歴史であると同時に、私の日本人としての歴史でもある音楽を創らなければならない。今までジャズの歴史にはなかった要素、つまり日本文化をジャズに融合させる努力をしなければならないと思ったのです。そしてそれが聴く人たちに感じ取られた時、ジャズにとって私は何か、という問題が解決されるのではないかと思いました》(同上)

秋吉はビッグバンドというツールを手に入れたことで「日本人である自分にとってのジャズ」を形にすることができるようになり、そこから1976年の『Tales of a Courtesan(花魁譚)』、1979年の『Salted Gingko Nuts(塩銀杏)』と、70年代にかけて傑作を連発していった。


1977年、ビッグバンドを指揮する秋吉(Photo by Tom Copi/ Michael Ochs Archives/Getty Images)


社会的メッセージを積極的に発信

さらに、黒人たちの音楽でもあったジャズシーンのど真ん中にいた秋吉は、公民権運動にも強い関心を持ち、その動向を追うだけでなく、そこでも「日本人である自分にとってのジャズ」のことを考えていた。その先にあったのが、社会的イシューを取り上げた楽曲の制作だ。

上述の『Kogun(孤軍)』ではフィリピンのルパング島で第二次世界大戦終結から29年もの間、ゲリラ活動を続け、1974年にようやく帰国した小野田少尉を、日本人女性としてアメリカのシーンで孤軍奮闘した自身の姿を重ねた。そして、『Insights』収録の「Minamata」では当時、大きな社会問題となっていた公害病の水俣病をテーマに、20分を超える組曲を制作。録音やミックスにこだわったと思われる音像や、フリージャズも取り入れたアグレッシブな楽曲は、そのメッセージを生々しく伝えている。そういった姿勢は後年も続き、2001年には原爆をテーマにした『Hiroshima - Rising from the Abyss(ヒロシマ そして終焉から)』を発表している。

秋吉はのちに『Kogun(孤軍)』について《ただ日本では酷評されるだろうなと予想していました。和洋折衷で奇をてらったように思われるだろうと。だから、「どうぞけなしてください」という覚悟はありました》(『秋吉敏子と渡辺貞夫』より)と述懐している。実際、ジャズ評論家・相倉久人が《(秋吉は)東洋人で、もちろん日本人女性としては初のバークリー音楽院留学生であった。(略)バークリーの庇護のもとさっそく二枚のアルバムを作り、日本人初のニューポート・ジャズ祭出演を適えてしまうのだ。これには東洋人・女性・着物姿・ジャズの組み合わせからくる、あの国の興味がそうさせたのであって、日本のジャズが成功した例ではない。アメリカのジャズシーンの包容力の大きさを示したまでなのである。ましてそれが、日本のジャズ界に落とす影響は皆無にひとしかった》(『至高の日本ジャズ全史』より引用)と書いていたように、秋吉の活動を冷ややかに見る向きも日本にはあったようだ。しかし結果的に、『Kogun(孤軍)』は日本でも大ヒットし、アメリカでも高い評価を得て、秋吉の評価を決定づける作品になった。

その後のアメリカでの評価は絶大だ。グラミー賞のビッグバンド部門で計14回ノミネート。ダウンビート誌の批評家投票のビッグバンド部門では何度も1位になり、常に上位に居続けた。1999年には「世界ジャズの殿堂」に入り、2006年には「ジャズマスター賞」も受賞。ジャズにおける巨匠としてその地位を確立している。


2004年撮影(Photo by Oliver Morris/Getty Images)


日本人女性がジャズの最前線で活躍してきた意味

最近では2023年に、ウィントン・マルサリスが音楽監督を務めるリンカーン・センターで、秋吉の業績を祝福すべく当時93歳の彼女をフィーチャーした公演が開催されたり、ピアニストのヘレン・サンが女性作曲家の楽曲をカバーするコンセプトアルバム『Quartet+』(2021年)で「Long Yellow Road」を取り上げたりと、メアリー・ルー・ウィリアムスやメルバ・リストンらに次ぐ女性ジャズ作曲家として再評価する流れもある。



人種差別や性差別が今よりはるかに激しかった1950年代のアメリカで、アジア人女性がジャズの最前線で活動してきたことの意義はあまりにも大きい。

また、近年では娘・秋吉満ちる(Monday満ちる)との関係も改めて注目されている。秋吉敏子は1963年、これからキャリアが花開いていく頃に娘を出産。育児のために就職することも視野に入れていたが、熟慮の末、日本の家族に娘を預ける決断をした。その葛藤とその後の娘との関係については彼女の自伝『ジャズと生きる』に詳しいが、女性ミュージシャンの活動と出産・子育てという課題における一例としても、秋吉のキャリアは何度も振り返られている。秋吉のキャリアは今日のアーティストが抱える様々な課題と重なる部分も多く、それらに向き合ってきた秋吉の葛藤が様々な形で投影されている。

ストリーミング解禁作を今こそ聴く

このように再評価が進む一方で、秋吉のディスコグラフィはストリーミング未配信のものが少なくない。そのなかで今回、Ninety-Oneレーベルから発表した90年代の作品が一挙12タイトルも配信解禁となったのは大きな前進だ。

この時期のアルバムが重要な意味を持つのには理由がある。秋吉は2003年にトシコ・アキヨシ・ジャズ・オーケストラの活動休止を決め、30年に及ぶビッグバンドでのパーマネントな活動に一旦終止符を打っている。もともと秋吉は「ビッグバンドにいるとピアノを弾く機会が少ない」と頻繁に語るほど、ピアニストとしてのアイデンティティが非常に強いアーティストだ。作編曲家としての絶対的な評価を獲得してもなお、ピアニストであることにこだわりを持っていた秋吉は、Ninety-One期ではピアノを弾くことを前提にソロ、トリオ、コンボでの録音を精力的に行っている。



最も多いのがトリオで、『Four Seasons』(1990年)、『New York Sketch Book』(2004年)などスタンダードを演奏する諸作も興味深いし、最大の影響源であるバド・パウエルに真正面から取り組んだ『Remembering Bud -Cleopatra's Dream』(1990年)、日野元彦、鈴木良雄との日本人トリオでの『Live at Blue Note Tokyo 1997 featuring Motohiko Hino』(2001年)、日本をテーマにした『Sketches of Japan』(1999年)、反原爆・反戦のメッセージを込めた『HOPE』(2006年)は必聴。



クインテットやセクステットのホーン入りの編成での『CHIC LADY』(1991年)、『DIG』(1993年)、『Night and Dream』(1994年)では秋吉のアレンジが光る。ビッグバンドよりコンパクトなコンボだからこそ、秋吉のアレンジの個性がよりはっきりと浮かび上がっている。アレンジでいえば、ブラジル音楽に取り組んだ『Yes, I Have No 4 Beat Today』(1995年)も面白い。



Ninety-One期は秋吉の名曲の再演が多いので、演奏の違いや編成の違いを感じながら聴くのもいいと思う。1975年『Solo Piano』以来のソロピアノ作品となった『Solo Live at the Kennedy Center』(2000年)では、民謡「木更津甚句」をモチーフにした「The Village」の再演がすばらしい。民謡だと『HOPE』に収録された「Children in the Temple Ground」は「かんちょろりん節」がモチーフで、これは過去に何度も演奏されている。『Toshiko Plays Toshiko -Time Stream』(1996年)での「Long Yellow Road」「Kogun」「Farewell to Mingus」のコンボ・バージョン、『HOPE』での「Sumie」のトリオ・バージョンも素晴らしい。



これまでは主にビッグバンドで演奏され、自身のピアノをあくまでアンサンブルの一部として機能させていた楽曲が、ここではピアニストとしての演奏を全面に出し、ソロでは全力で主張する。自らの名曲を自分自身で再解釈する演奏が悪いはずがない。

これからジャズ史において、もしくはアメリカの音楽史、アジアの音楽史において、秋吉敏子の歴史的な意義はどんどん高まる一方だろう。であればこそ、彼女の業績がストリーミングで聴けるのは非常に重要だ。秋吉の音楽が手軽に聴けるようになれば、彼女の研究は一気に進むはず。その点で、せっかく海外から注目を集めているにもかかわらず、日本のジャズはまだまだ出遅れていると言わざるをえない。Ninety-One期のストリーミング解禁という英断が呼び水になり、秋吉の全作品が配信されるようになることを僕は願ってやまない。




秋吉敏子、アルバム12作品を一斉配信解禁
配信リンク:https://bio.to/akiyoshitoshiko

■『Four Seasons』
■『Remembering Bud -Cleopatra's Dream』
■『CHIC LADY』
■『DIG』
■『Night and Dream』
■『Yes, I have No 4 Beat Today』
■『Toshiko Plays Toshiko -Time Stream』
■『Sketches of Japan』
■『Solo Live at the Kennedy Center』
■『Live at Blue Note Tokyo 1997 featuring Motohiko Hino』
■『New York Sketch Book』
■『HOPE』

※参考文献
・『ジャズと生きる』秋吉敏子
・『NHK人間講座 秋吉敏子 私のジャズ物語』
・『秋吉敏子と渡辺貞夫』西田浩
・『至高の日本ジャズ史』相倉久人
NPR Music:Toshiko Akiyoshi's Jazz Orchestra Brought The Club To Concert Halls

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