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田家秀樹が語る、吉田拓郎が今伝えたい選曲を収録したセレクション・アルバム

Rolling Stone Japan / 2024年8月10日 9時30分

吉田拓郎のアルバム『Another Side Of Takuro 25』

音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送してきた「J-POP LEGEND FORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POP LEGEND CAFE」として生まれ変わりリスタート。1カ月1特集という従来のスタイルに捕らわれず自由な特集形式で表舞台だけでなく舞台裏や市井の存在までさまざまな日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。

2024年6月の特集は、「吉田拓郎とROGUE」。前半の2週は吉田拓郎のアルバム『Another Side Of Takuro 25』、後半は先月発売になったROGUEの6枚組ボックスセット『ALL TIME SELECTION ROGUE 60』を渡り掘り下げていく。

関連記事:吉田拓郎の音楽人生の締めくくり方、60代以降の楽曲とともに歩みを探る

田家:こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」マスター・田家秀樹です。今お聴きいただいたのは吉田拓郎さんの「どうしてこんなに悲しいんだろう」。6月12日に発売になります。拓郎さんのアルバム『Another Side Of Takuro 25』からお聴きいただいております。オリジナルは1971年発売、2枚目のアルバム『人間なんて』の中の曲でした。今日の1曲目はこの曲です。今日、曲紹介しないで先に曲を聴いていただこうと思っているんですね。その方が新鮮に受け止められるのではないかということで、いきなり曲からいきます。

どうしてこんなに悲しいんだろう / 吉田拓郎

『Another Side Of Takuro 25』は2枚組で全26曲収められてます。拓郎さんのデビューは1970年。そのときはエレックレコードでした。その後、1972年からは当時のCBSソニー。1975年からは自分たちが設立したレコード会社フォーライフ・レコードから出て、2001年からはテイチク、2009年からエイベックス。そうやって時代によってレコード会社が変わって活動してきているんですけども、このアルバムはエレック、ソニー、フォーライフ、年号で言うと1970年から1999年。年齢で言うと、24歳から53歳。思春期、青春期、大人になっていくという過程がそのまま収められている、そういう作品ですね。

拓郎さんのベスト・アルバムは本当にたくさん出ていて、たぶん30枚以上は出ているでしょうね。今までのそういうベスト・アルバムと大きな違いが2つありまして、1つは全曲彼が選んでいる。レコード会社が勝手に選んだんだよというアルバムではないんですね。そして、もう1つは全曲のライナーノーツを彼が自分で書いているんですね。これは大きいですね。その1曲がこの「どうしてこんなに悲しいんだろう」だったんです。デビュー・アルバムは1970年の『青春の詩』で、その中には「イメージの詩」とか「今日までそして明日から」とか初期の代表曲があるんですけども、そういうのを選ばずに「どうしてこんなに悲しいんだろう」から始めている、いろいろな意図が伺えますね。今伝えたい曲、言いたいことがあっての選曲なんだということがわかります。

そして、「どうしてこんなに悲しいんだろう」のライナーノーツには加藤和彦さんとの思い出が書かれているんですよ。これで始めるのはそういうことだったんだなというのが、読んでわかります。書かれているのは、ラジオ関東という放送局が昔ありました。今はラジオニッポンと言っておりますが、関東地方しか流れなかった。拓郎さんの初めてのレギュラー番組はそこだったんですけど、そこのスタジオで会った。その日のファッションが見たことがない派手なもので、これがロンドン帰りか、スターのオーラが満開だったというようなことが書かれていますね。

このアルバム『人間なんて』のギターは加藤さんなんですけど、ライナーノーツの中では拓郎さんがドノヴァンの「カラーズ」という曲がありまして、シングル盤はハモニカホルダーとギターを抱えているドノヴァンが写っている曲なんですけども、あの曲のギターが好きだと言ったら数週間後に加藤さんがエレックレコードに君の好きなギターサウンドはこれだと言って、ギブソンを持ってきてくれた。涙が出るほどうれしかったということが書かれております。今週はこのアルバムのDisc1、13曲の中から8曲をご紹介しようと思うのですが、曲紹介は曲の後にしようと思います。Disc1の2曲目です。



せんこう花火 / 吉田拓郎

Disc1の2曲目「せんこう花火」。CBSソニーに移籍して出した最初のアルバム、1972年の『元気です』の中の曲なんですね。『元気です』は拓郎さんのアルバムで一番売れたアルバムで、「春だったね」とか「旅の宿」とか「夏休み」とか今でも口ずさまれるスタンダードが入っているんですけども、その中からこの曲を選んでいる。何が書かれているかと言うと、当時のディレクターの仁さん。有名な方でしたけども、仁さんとギタリストの石川鷹彦さんの曲が中心ですね。このディレクターは鹿児島の小学校の同級生だった、運命の出会いだった。彼はフォークをそんなに知らなかったので、いろいろな音楽の話を教えてあげて、俺は広島でリズムアンドブルースをやっていたんだという話をした。当時の石川鷹彦さんのようなギターを弾きたいと思ったんだ、そういう中にその頃のラジオのリスナーについても書いていますね。その頃のラジオのリスナーにも夢や才能が眠っていたのではないかということも書かれております。

「どうしてこんなに悲しいんだろう」で加藤和彦さんのことを書いて、この「せんこう花火」で石川鷹彦さん、そして当時のディレクターのことを書いている。なんでこういう曲で始めているかってことが伝わってくるようなライナーノーツですね。自分の音楽はこういう始まりだったんだよということがいろいろなエピソードの中に綴られております。あまり語られてこなかったこととか、言っておきたい曲が曲の背景として書かれている。そんな2枚組でもあります。

君が好き / 吉田拓郎

Disc1の3曲目「君が好き」。1973年のライブ・アルバム『LIVE'73』に収録されていた曲ですね。中野サンプラザで2日間行われたライブです。普通そういうライブ・アルバムを作るときには既に知られている代表曲をライブで演奏する選曲がほとんどですけども、このときは新曲をやったんですね。新曲のお披露目ライブをアルバムにしたという、ライブ・アルバムの歴史の中でも前例がないのではないかと思われるアルバムですね。しかもその頃拓郎さんはフォークの貴公子と言われておりましたけども、この『LIVE'73』はホーンセクションとか、ストリングスが入ったファンキーなアルバムだったんですね。ここでのライナーノーツにはなぜそういう形にしたかというようなことが書かれていますね。全体の総合アレンジャーで瀬尾一三さんを起用した経緯とか、メンバーがギターの高中正義さん、ベースの岡澤章さん、ドラムの田中清司さん、キーボードの松任谷正隆さん。そういう人たちについて当時どう思ったのか。

みんな若かったですからね。19歳から24歳。「どうしてこんなに悲しいんだろう」のところにはドラムの林立夫さんとかキーボードの松任谷正隆さんとか、ベースの小原礼さん、そういう人たちが参加したことについて当時どう思ったかというようなことも書かれております。こんなことが書かれていますって簡単に言ってしまうと、数行で終わっているんじゃないかみたいに思われる方もいらっしゃるでしょうが、長いんですよ。

「どうしてこんなに悲しいんだろう」と「せんこう花火」は見開きですからね。31行、30文字で58行かな。だから、1曲について1500字から1800字くらい書いているという、これはもうライナーノーツっていうよりもエッセイ集というライナーノーツですね。

ペニーレインでバーボン / 吉田拓郎

Disc1の4曲目「ペニーレインでバーボン」。1974年のアルバム『今はまだ人生を語らず』に入っておりました。このアルバムはCBSソニーからの最後のアルバムで、森進一さんが歌った「襟裳岬」のセルフカバーとか、ライブの定番曲「人生を語らず」が入っているんですけども、彼が選んでいたのがこれですね。この曲は歌詞の中に不適切なところがあるということで、当時回収騒ぎまでありまして、幻の曲になっていたんですね。今はこうやってラジオでも流せるんですけども、この中で書かれているのは「青春」についてです。「襟裳岬」のこととか、この曲のことも触れていなくて「青春」について。誇らしげに語ることのできない「青春の記憶」について。人間は後悔する生き物である。かと言って、今更後悔なんてしても遅いというようなことが書かれていますね。

1973年、1974年というのは拓郎さん、本当にいろいろなことがありましたからね。「結婚しよう」で売れて、若者の旗手になって祀り上げられるのと同時にテレビに出ないとか、芸能週刊誌からの取材は受けないとか、そういう姿勢がバッシングされた。メディアから総攻撃された。そしてフォークコンサートで帰れ帰れと石を投げられたりとか、いろいろなことがあったわけですが、そういう具体的なことは触れないでその頃の「青春」について書いております。

こんなことが書かれていますと話をしていくと、ネタバレじゃないかということでご立腹されている方もいらっしゃるかなと思ったりもしているんです。でも、拓郎さんがライナーを書きましたということで終わるのか。それとも、こんなことが書かれていますということをちょっとでも匂わせてだったら聴いてみよう、だったら読んでみようという方とどっちが多いかと考えて、やっぱり拓郎さんがライナーを書いていますということで終わらない方がアルバムもちゃんと消化できるのではないかということで、かなり立ち入って話をしております。でも、全曲はやりません。こういう話をしますということは、レコード会社の了解はいただいております。



風邪 / 吉田拓郎

お聴きいただいたのはDisc1の5曲目「風邪」。1973年6月に発売になったアルバム『伽草子』の中の曲ですね。これはご本人が選ばなかったら、なかなかベスト・アルバムには入ってこないタイプの曲でしょうね。このアルバムはキーボードが柳田ヒロさん、ベースが後藤次利さん、新六文銭というバンドがありましたね。他には小室等さん、サイドギターです。そしてチト河内さん、ドラム。で、リードギターが拓郎さん。拓郎さんのツアーバンドとして結成されて、ツアーはやったものの音源は残ってないんですね。なんで残ってないかというのは、これは調べればすぐ出てきますから、ぜひ一度新六文銭でお調べいただけたらと思います。

そのメンバーが中心のアルバムの中からこの「風邪」を選んでいるんですね。ライナーで書かれているのは、やっぱりフォークとリズムアンドブルース。エレキギターとフォークギター、そういう違いですね。広島でリズムアンドブルース、ロックバンドでエレキギターを弾いていたのでフォーク・ソングのシンプルなコード進行が物足りなかった。オーティス・レディングとか、サム・クックは当時としては画期的なコード進行が使われていたというようなコード進行の話を書かれています。かなりこれも長いですね。自分の曲の中にはそういうシンプルなコード進行でも、ディランとかストーンズとか、アレサ・フランクリンとか、そういう人たちのフェイクを取り入れた。具体的にどういうコードなのかというコード名も挙げて解説してくれていますね。

当時、今もですけども拓郎さんの曲をそういうふうに解説したり、語ったりする評論家もライターもいなかったと思います。これはもう自分の非力を恥じるしかないんですけども、そういう評価をされなかったことが彼がずっと抱えてきた不満だった。俺は音楽についてきちんと評価されてこなかったんじゃないかという、ある種のトラウマを持ち続けていたんでしょうね。そういうことが文章から伝わってくる。そんなライナーノーツでもありますね。世間が持っている吉田拓郎に対してのアナザーサイド、違う面があるんだよ俺は、俺の音楽はこっちなんだということを自分で曲を選んで、自分で語ろうとしている。そんなアルバムじゃないでしょうか。

たえこMY LOVE / 吉田拓郎

Disc1の7曲目「たえこMY LOVE」。1976年のシングルですね。この前の6曲目が1983年のシングル『I'm In Love』。曲順が発売順じゃないんですね。この曲の後にはこれを聴きたいという、彼の気持ちよさ、彼の中のストーリーみたいなことが表れているんでしょうね。寝る前に自分で作ったプレイリスト、これを子守唄のように聴くんだという話は、彼も自分で話していますし、ライナーにはそんな記述も出てきます。この26曲はそういうアルバムでしょうね。1976年、1975年にフォーライフ・レコードを作ってつま恋のオールナイトがあったりして、激動の年になって吉田拓郎は時代を変えるシンボルになったわけですが、そういうことは一切触れていませんね。この曲のライナーに書かれているのはやっぱり「青春」です。「青春と反抗」。上京して慣れない東京と戦っていた。古いものに巻かれるのは嫌だったけど、仲間と徒党を組むのも嫌だった。僕の反抗は僕だけの反抗と思いたかったとまで書いていますね。これが吉田拓郎なんだなと、あらためて思いました。

1977年のアルバム『大いなる』の中に「大いなる」という曲があるんですけども、その中では”大いなる人生 手助け無用♪”と歌っていました。俺は俺でやるんだ、誰の助けも借りないんだ。その姿勢、生き様がかっこよくて、そういうことばかり僕も含めたみんなが書いたから、彼はコード進行とか語られない人になってしまった。このライナーには暴走と走ることの違いについても書いています。いいことを書いているなと思いました。暴走することと、走ることは違うんだ。あの頃は何に対して反抗しているんだろう、青春というのは取り返しのつかない財産だ。胸にきましたね。相槌を打ちました。そういう中で忘れてはならないものに恋というのがあるんだ。この「たえこMY LOVE」はそういう象徴ということで、選んだんでしょうね。

8曲目は1977年のシングル『もうすぐ帰るよ』。9曲目が1975年のシングル『となりの町のお嬢さん』のカップリング「流れる」。まさにアナザーサイドならでは。この「もうすぐ帰るよ」と「流れる」の中ではレコーディングの話と好きな音像について書いていますね。ここまで書いているんだと思った、そんな2曲でありました。お聴きいただくのは10曲目です。これもアナザーサイドならでは。

この歌をある人に / 吉田拓郎

1980年のアルバム『アジアの片隅で』の中の曲なのですが、作詞が松本隆さんですね。『アジアの片隅で』には”ア~ジアの~片隅で~♪”というシャウトのレゲエの曲とか、「いつも見ていた広島」、広島のことを歌っている曲もある。両方とも岡本おさみさんの作詞で、岡本さんの色が濃いアルバムでもあるんですね。そのアルバムの最後の曲が「この歌をある人に」。『アジアの片隅で』の中ではこれも語られてこなかった曲でしょうね。ライナーで書かれいることは作詞家についてなんですよ。岡本おさみさん、喜多條忠さん、松本隆さん、3人の作詞家と仕事をしたけどもそれぞれについて思っていることが書かれております。岡本おさみさんの印象が強いけども、提供曲だと喜多條忠さんと松本隆さんの思い出が深いとか、3人の詞の個性についても触れておりますね。今回の『Another Side Of Takuro 25』には松本さんの詞が3曲選ばれていて、岡本さんの曲が1曲入っているんです。岡本さんと言うと、「襟裳岬」、「旅の宿」、「祭りの後」、「落葉」ずらずらっと出てきますけども、そういう曲は選ばれていませんね。何が選ばれているかと言うと、この曲です。

いつか夜の雨が / 吉田拓郎

1980年5月に発売になったアルバム『Shangri-La』の中の曲ですね。この曲の作詞が岡本おさみさんですね。『Shangri-La』は80年代最初のアルバムです。しかもロサンゼルスのレコーディングだった。今までやったことのないことをやりたいということで、海を渡ったんですね。ザ・バンドの解散のドキュメンタリーを追った映画『ラスト・ワルツ』で使ったマリブのシャングリラ・スタジオ、そこでレコーディングしたんですね。プロデューサーがブッカー・T・ジョーンズ。「グリーン・オニオン」という代表曲がありましたが、今のキーボードもそうですね。岡本さんも現地で詞を書いたという、そういうアルバムです。

ライナーにはそのときのことを書いていますね。ライナーノーツはそれぞれの曲で長さが違うんです。彼の中で言いたいこと、伝えておきたいことというのが違うんでしょう。「どうしてこんなに悲しいんだろう」とか「風邪」とか「ペニーレインでバーボン」は見開きを使って書いているんですけども、大体普通は1曲1ページですね。この曲もそういう扱いでした。海外録音というよりも、このアルバムのプロデューサーがブッカー・T・ジョーンズだったこととか、スタジオがそういう場所だったということでどんなふうに思ったのかということを書いております。

Disc1は12曲目がアルバム『大いなる人』の中の「あの娘に会えたら」。そして13曲目が1976年のアルバム『明日に向かって走れ』の中の「午前0時の街」という曲で終わっているんですね。やっぱりこの2曲もオリジナルアルバムの中ではあまり注目されない、そういう曲で終わっている。なんでそういう曲を選んでいるかというのは、彼が自分で書いたライナーノーツを読んでお確かめくださいというアルバムです。来週はDisc2のご紹介です。



静かな伝説 / 竹内まりや

流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」。竹内まりやさんが拓郎さんのファンで、拓郎さんが結婚したときに泣いたというエピソードが、これは広く知られておりますね。サザンオールスターズにも、「吉田拓郎の唄」という曲があります。

先日、私の新刊「80年代音楽ノート」のプロモーションということで、『週刊プレイボーイ』のウェブ版かな。スージー鈴木さんという、今あちこちでいろいろな音楽のことを書かれている評論家の方と対談したんですね。スージーさんはもう80年代の本を10冊くらい書いている人で、70年代のことはちょっと幼かったからとその頃のことをいろいろ訊かれて、僕の仕事の姿勢みたいなことまで訊かれたんです。で、今FM COCOLOでやっている「J-POP LEGEND CAFE」という番組は、自分の中でのJ-POPの殿堂のつもりですって言ったんですね。アメリカにロックの殿堂があるように、自分も”ひとりJ-POPの殿堂”みたいな気分で仕事をしたい。この人は殿堂入りするかなとか、もうしてるなとか、させたいなとか思いながらそういう人たちのことを書いたり、語ったりしたいんだと。そしたらスージーさんがいきなり「第一号殿堂入りは誰ですか」って訊かれたんですね。僕は間髪を入れずに答えましたね。「それはやっぱり拓郎さんでしょう」ということで、その後拓郎さんの話でいろいろ盛り上がったのですが、そういう人です。少なくとも70年代という時代を作ったのは吉田拓郎さんですね。

過去を振り返らず、多くを語らない。でも、あまり音楽についてスポットが当たってこなかった。そのことを拓郎さんが今どう思っているのかなということも、このライナーを読むことでわかっていただけるのではないかなと思います。そういうこだわり方が随所に見られる、そんなセレクション・アルバム。彼が自分で曲を選んでライナーも自ら書いております。自分で書かれたアルバムがフォーライフ・レコードから出るのは、26年振りなんですね。そういうことも頭に入れながら聴いていただきたい、そんなアルバムでもあります。

来週はDisc2のご紹介です。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND CAFE」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストにスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

OFFICIAL WEBSITE : https://cocolo.jp/
OFFICIAL Twitter :@fmcocolo765
OFFICIAL Facebook : @FMCOCOLO
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cocolo.jp/i/radiko

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