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西暦1966年は悪魔元年だった...サミー・デイヴィス・Jrが信仰した「悪魔教」の実態 米

Rolling Stone Japan / 2024年8月24日 21時40分

アメリカの歌手であり俳優、エンターテイナーとしても有名なサミュエル・ジョージ・デイヴィス・Jrは、悪魔教の崇拝者だった。彼の人生と悪魔教への関わりについて深く迫る。

【画像】ほぼ裸の女性が横たわる「悪魔教」洗礼式

地獄は明るい雰囲気だった。1972年秋、笑顔とハグがあちこちで交わされる中、サミー・デイヴィス・Jrは意気揚々とパラマウントスタジオに姿を見せた。冥界をテーマにしたNBCの新作コメディ『Poor Devil』を撮影するためだ。

46歳のエンターテイナーはハリウッドのスタジオを見回した。シットコムならではのユーモアで、死者の国は会社のオフィスという設定だった。金ぴかの観音開きのドアの向こうは堕天使ルシファーのオフィス。しゃれた五芒星の下にはどっしりしたデスクが鎮座している。小さな角、上下逆さまの十字架のようなあご髭。そして地獄の釜がぱっくり口を開けた灼熱の洞穴。デイヴィス演じるみじめな下っ端の悪魔は、この焼却室で何世紀も石炭をくべている。

筋書きでは、都合よくサミーと名付けられた哀れな地獄の住人が、自分の存在価値をルシファーにアピールするべく、人間に魂を売らせようと説得する。デイヴィスはヒット曲「キャンディ・マン」を歌う時の節回しで、悪企みを説明するセリフを繰り出す。「ルシファー様も言っておられた、自暴自棄になった時が魂を売るタイミングだと」。

まさしくそうした仕事の焦りが希代のパフォーマーをこんな奇妙な作品に導いたのだが、本人もノリ気だった。「何がなんでも『Poor Devil』をやりたかった」と後にデイヴィスも公言している。後にこの番組はデイヴィスの伝記やポップカルチャーの系譜からはすっぱり削除されることになるが、撮影当初は楽観的なムードが漂っていたようだ。デイヴィスはアコギなルシファー役として、ドラキュラ伯爵を演じたこともある友人のクリストファー・リーを起用。魂を売ろうとする会計士役は『おかしな2人』のジャック・クルッグマンに、魂を売る代わりに懲らしめられる上司役は往年のバットマン、アダム・ウェストにゲスト出演を依頼した。

いざ撮影が始まると、デイヴィスは脚本にはない一般的な悪魔的要素――角を見せる悪魔式の挨拶や、赤い爪などを演技に取り込んだ。脚本を担当していたエグゼクティヴプロデューサーのアール・バレットは、役者がしっかり予習してきたのだと思い、がぜんやる気になった。

デイヴィスはサミー役を自分の分身以外の形で演じる気がなかった、あるいは演じられなかったようだ。スタジオの衣装部ではなく、専属デザイナーを雇って主人公の衣装を作らせた――真っ赤なスーツはサイ・デヴォレが、揃いのシャツはロンドンのナット・ワイズが仕立てた。また自分と分身を混同するのを内輪ネタのジョークにした。バレットはデイヴィスに声をかけ、「失礼、台本ではサミーだった」と訂正を入れた時のことをこう振り返る。

「俺たちが別人だと思い込まなくてもいいんだぜ、アール」とデイヴィスは答え、ルシファーのオフィスに向かって首を振り、ウィンクした。「俺はマジであいつの下で働いてるんだ」。

1973年、ダイアン・ハガーティはTVガイド誌のページをめくった。2月10日の週の番組表に、『Poor Devil』という仮タイトルのパイロット版が載っているのが目に留まった。「サミー・デイヴィス・Jr演じるのはドジな地獄の使徒。1400年間、悪魔に1つも魂を捧げられなかった不器用な死神に、最後のチャンスが与えられる」。

水曜の夜8時30分、ハガーティはTVのスイッチを入れて構えた。番組の中盤で、デイヴィス演じる主人公が魂を狙う会計士は、何とかして悪魔の手先に連絡を取ろうとする。サンフランシスコのアパートで電話に手を伸ばし、こう叫ぶ。「ダウンタウンのサタン教会につないでくれ! あそこなら奴の居場所が分かるはずだ!」。

「椅子から転げ落ちそうになりました」と、ハガーティはこの場面を見た時の反応について語った。もし本当に会計士がそうした電話をかけていたら、ハガーティが電話に出ていただろう。事実、彼女はサタン教会の本部で『Poor Devil』を見ていた――サンフランシスコのリッチモンド地区にあるヴィクトリア様式の屋敷、通称「ブラックハウス」で、彼女は常識とは程遠い内縁の夫と暮らしていた。サタン教会を創設した最高司祭、アントン・サンダー・ラヴェイだ。教会の起源に詳しい情報筋によると、ハガーティはラヴェイと共同で『The Satanic Bible』をはじめとする著書を執筆し、サタン教会を開いた。だが悪魔教の広告塔は「闇の教皇」ことラヴェイだった。1967年のライフ誌で、ラヴェイは自分の名前を歴史に刻むならラスプーチンの隣がいいと語った。ルック誌の表紙を飾った時には頭蓋骨を握りしめ、トレードマークのスキンヘッドから鋭い眼光を向けていた。またTVにも出演して、長マントと角のついた頭巾をかぶって悪魔教始まって以来の婚姻や葬儀を執り行った。とくに我が子に授けた悪魔教の洗礼式は有名で、ハガーティとの間に生まれた当時3歳の娘ジーナちゃんは祭壇の上で裸体の女性の隣りに座っていた。

かれこれ7年ほど、ラヴェイとサタン教会はこうしたセンセーショナルな記事で取り上げられたが、面白半分がいいところだった。そして今、ハガーティは目の前のTV画面で奇跡のような出来事を目の当たりにしていた。人好きのする、陽気で無害な悪魔の使い。しかも全国TVで普通に放映されている。悪魔主義者――まさに私たちと同じじゃないか!

2日後、ハガーティはラヴェイの右腕マイケル・アキノから1通の手紙を受け取った。叙勲暦もある優秀な元グリーンベレーのアキノは、「教会にとって最高の宣伝だ」と言って『Poor Devil』を絶賛した。ハガーティもアキノに劣らぬ熱意で、「番組のメッセージは私たちの信念とさほど離れていないと思う」と返信した。


『Poor Devil』撮影現場でのサミー・デイヴィス・Jr(Everett Collection)

ラヴェイは番組を見ずとも、PR効果の可能性を察知した。そこでハガーティとアキノと3人で計画を練った。ラヴェイを番組に出演させ、できればブラックハウスで1話撮影してもらうのが当初の考えだった。サタン教会の最高司祭が『Poor Devil』の出演者を迎え、名誉魔術師に任命してはどうかとアキノが提案した。ハガーティはこのアイデアを面白がり、「黒人のユダヤ人が悪魔教の魔術師になるなんて、デイヴィスさんはどう思うかしらね!」。

ハガーティはほどなくその答えを知ることになる。1カ月後に1通の手紙が届いた。

「御教会の名誉会員へのお申し出を、大変ありがたくお受けしたいと思います。先日放送された『Poor Devil』で、お気を悪くされた方がいらっしゃらないと聞き、私もうれしく思います。これから4月8日までラスベガスのサンズホテルで公演があるため、差支えなければ4月10~16日、サン・カルロス・サークル・スター劇場の公演期間中に任命の手はずを整えていただければと思います。あらためて感謝申し上げます。

平和と愛を
サミー・デイヴィス・Jr

デイヴィスと悪魔教との関りは、後に削除や隠ぺいが試みられたものの、ずいぶん前から影で噂されていた。実際はというと、悪魔教とのつながりは晩年にいたるまで20年にもおよび、サタン教会の指導者ラヴェイとの間に友情が育まれた。

デイヴィスの側近や伝記作家、ラヴェイの友人や信者や家族(ハガーティの他、最後に連れ添ったブランシェ・バートン、孫のスタントン・ラヴェイなど)との膨大な独占インタビューから、これまで報じられていなかった話題が浮びあがる。一目置かれたいという共通の欲求を抱えた2人の見世物師は、想定外の深い絆を結んだ。ありとあらゆる方面から拒絶され、苦汁を味わってきた人気エンターテイナーのデイヴィスは、受け入れられたいという欲求から制約のない悪魔教とラヴェイに導かれていった。そのきっかけとなったのが奇妙なTVのパイロット版だった。

悪魔のいたずらがなかったら、『Poor Devil』はこの世に存在しなかっただろう。1972年、デイヴィスはNBCのお偉方と会って番組のネタを話し合い、コメディのアイデアを思い付いた――冥界のボスに仕える男、というざっくりした案だった。デイヴィス自身の経験が元ネタ、あるいは下敷きになったアイデアだと言えるだろう。デイヴィスは1989年に出版された自叙伝『Why Me?』で、1968年のある晩の出来事をおどろおどろしく語っている。なんとなく流れでハリウッドのサタン教会に誘われ、行ってみると重々しい儀式が行われていた。嬉しいことに、最後はドラック三昧の乱交パーティで幕を閉じた。

漠然としてはいたものの、デイヴィスのアイデアはNBCが検討していた別のTVドラマ案とバッティングした。『奥さまは魔女』で魔界コメディを成功させたベテランTV脚本家、アーン・サルタンとアール・バレットによるコメディで、『Beat the Devil』という仮タイトルがついていた。自分が出した悪魔コメディの案と、バレットとサルタンのアイデアを組み合わせてはどうかという提案に、デイヴィスも魅了された。

脚本家のプレゼンを受けたデイヴィスは、「最高のアイデアだ」と言った。

『Poor Devil』と改名された作品を、デイヴィスは『素晴らしき哉、人生!』の地獄バージョンととらえていた。ドジで憎めない黄泉の国の下僕が一発逆転を狙う――ただし善良な人間を救うのではなく、魂を売るよう説得して。バレットの記憶によると、デイヴィスはこの解釈にこだわっていた。「ファウストだ。悪魔と取引をするという話だ」。俳優と脚本家は議論した。『素晴らしき哉、人生!』のファウスト版。最後はハッピーエンドの道徳劇。バレットは思い切って役者に異を唱えた。「だが悪魔は最後に敗れなきゃ。そうだろ?」 デイヴィスはただ笑い飛ばした。

大半のエンターテイナーと比較しても、デイヴィスははるかに承認欲求に飢えていた。承認欲求の塊だった。1925年12月8日、サミュエル・ジョージ・デイヴィス・Jrはハーレムでこの世に生を受けた。ともに大道芸人だった両親は、彼が赤ん坊の時に離婚した。父親のサミー・シニアは米ノースカロライナ州出身の黒人で、母親のエルヴェラ・サンチェスはキューバ系アメリカ人だった(後年デイヴィスは母親がプエルトリコ出身だとうそぶいた)。家族や友人によると、母親は生まれてきた赤ん坊が「猿の子ども」みたいだと言い放ち、黒い肌の息子に人種差別的な文言を浴びせた。

3歳になったデイヴィスは、父親とベテラン大道芸人のウィル・マスティン(ずっと叔父だと思っていた)の3人で芸を始めた。4歳になるころには、白人が黒人に扮して面白おかしく演じる演芸を模倣して、黒塗りの顔で歌やダンスを披露した。



「これは非常に利己的な宗教だ」とラヴェイは悪魔教について語った。「我々が信じるのは欲望と利己主義だ」

ウィル・マスティン・トリオとして巡業しながら、デイヴィスはあっという間に成長し、生まれながらの才能を発揮していった。1943年に徴兵されると、喝采は白人兵の罵声や拳骨に変わった。白人兵から何度も鼻をへし折られ、鼻柱は永久につぶれたままになった。全身を白いペンキまみれにされ、胸にはNワードを書かれた。一度は放尿されたこともあった。エンターテインメントの才能でいじめが収まるのではとの期待から、軍人娯楽センターでショウを開いた。「パフォーマンス中は、奴らは急に俺のことを忘れた。自分でさえ忘れそうになることもあった」。

除隊したデイヴィスはウィル・マスティン・トリオに復帰し、一気にスターの階段を駆け上った。レコード契約、TV出演、大会場での公演が続いた。そんな時、1954年に車の衝突事故で死にかけた。片目を失って義眼を入れる羽目になり、そこから彼の心の旅が始まった。最初はサイエントロジーの本を読んで「覚醒」し、やがてユダヤ教に行きついて、しばらく信仰した。ユダヤ系の友人ジェリー・ルイスに改宗したことを告げると、「まだ悩み事が足りないのか?」と言われた。

どうやらその通りだった。デイヴィスは美しい白人女優のキム・ノヴァクと浮名を流した。コロンビアピクチャーズのハリー・コーン社長は、看板女優と黒人男性の戯れが報じられると怒り狂い、「ノヴァクにかまうな、黒人女性と結婚しろ。さもなくば、もう片方の目も失うぞ」という脅迫状をデイヴィスに送った。デイヴィスはしぶしぶ同意し、ろくに知りもしないシンガーのロレイ・ホワイトと電撃結婚したが、ひとつ屋根の下で暮らす間もなくすぐに離婚を申請した。

1959年、デイヴィスはスウェーデン人の女優メイ・ブリットと恋に落ちる。2人は翌年結婚したが、当時はまだ異人種間の結婚が31州で違法だったため、白人至上主義グループから嫌がらせの手紙や抗議の声が上がった。

ショウビズ界の仲間といれば安全だとデイヴィスが考えていたなら、半分は正しいが、半分間違っていた。50年代後半、デイヴィスはフランク・シナトラ一派に加わってラット・パックを結成。世間からはクランと呼ばれたが、デイヴィス本人は不快に感じていた。メンバーからはしょっちゅう人種差別的な嫌味でいじられた。シナトラはデイヴィスを「スモーキー」というあだ名で呼び、暗闇では笑ってくれないと見分けがつかない、とからかった。ディーン・マーティンはデイヴィスを両腕で抱きかかえ、「このような素晴らしいトロフィーをいただき、NAACP(全米有色人種向上協会)に感謝します」と言った。

異人種間の結婚のせいで、デイヴィスは政治的にも厄介者になった。ジョン・F・ケネディ大統領の就任時には、パーティでパフォーマンスし、ブリットと連れ立って式典にも出席する予定だったが、3日前になってケネディ大統領の個人秘書から電話があった。「大統領から、式典へのご出席はご遠慮いただくよう伝えてほしいと言付かりました」。


ラヴェイと知り合った当時、デイヴィスはアルトヴィス・ゴアと交際中だった(Doug McKenzie/Getty Images)

60年代に入ると、デイヴィスは次第に孤立化した。白人社会にはあまりにも前衛的で、黒人の過激な連中にはあまりにも後進的だった。マーティン・ルーサー・キングJrとともにワシントンやアラバマ州セルマの行進に参加したこともあったが、ブラックパワー運動からは「後ろ指を指されても仕方がない白人同調者」とレッテルを張られた。なにしろ結婚相手が白人女性だ。これを受け、60年代後半にデイヴィスは髪を伸ばしてアフロにし、ダンサーあがりの黒人女優アルトヴィス・ゴアと交際した(後に結婚)。聡明で美しく、若くて近代的なアルトヴィスは、慣習に縛られない結婚を望むデイヴィスを受け入れた。「周りはあなたのことを大工って呼んでるわよ」と彼女はデイヴィスに言った。「出会う女性をことごとく釘付けにするから」

名声のわりには、デイヴィスのギャラはいつもそれなりだった。70年代に差しかかるころには時代の波にも取り残された。出演作は大コケし、アルバムの儲けは雀の涙(作曲家ではなかったし、原盤権も持っていなかった)。ファンは高齢化し、彼のハッタリ(デザイナーものの民族衣装やビーズ)に見飽きた子ども世代は、彼の芸に無関心だった。

必要とされたいという欲求から、デイヴィスは人種的にも、性的にも、政治的にも、慣習や王道から決別した。結果として民主党とは袂を分かち、手をこまねくリチャード・ニクソンへと鞍替えした。1972年の全国共和党大会では、見るからにきまり悪そうなトリッキー・ディックことニクソン氏を抱擁したが、これが世間の怒りを買い、キャリアを棒に振りかけた。

単発のゲスト出演を繰り返し、『オール・イン・ファミリー』でアーチー・バンカーにキスするという衝撃のアドリブでひと騒動起こした末に、デイヴィスが起死回生をかけて臨んだのがTVシリーズ『Poor Devil』だった。契約を結ぶ際、バレットやサルタンに「再放送料をよろしくな」と言った。

本人も明かさなかったし、ライフスタイルからも分からなかかったが、デイヴィスはずいぶん前から一文無しだった。1950年代中期、ウィル・マスティン・トリオを脱退してからというもの(将来のギャラの一部を取り分として提供するのが交換条件だった)、デイヴィスは負の連鎖にハマっていた。借金は膨れ上がり、ナイトクラブでのギャラはその都度借金の返済に消えた。手に負えない浪費癖も災いした。大金が入れば、それ以上に散在した――カジノの公演で3万ドル稼げば、4万ドルをカード賭博でする、といった具合だった。デイヴィスは生涯通じて5000万ドル以上を稼いだが(帳簿に記載されていないギャラは除く)、死亡時には1500万ドル以上の借金を抱えていた――税金の滞納が700万ドル、マスティン財団への返済が400万ドル、カリフォルニア州には200万ドル近い滞納金。細かいところではビバリーヒルズのカメラ店に1754ドル、地元の薬局に523ドルのツケが残っていた。

「悪魔の祝福、地獄の恩恵を受けし者よ、前に進みたまえ」。赤い照明を浴びながら、ラヴェイは黒いマントと角のついたフードをまとっていた。手にした剣で、群衆の中から1人の男を前に呼び寄せる。「汝の願いは何ぞや?」。

ラヴェイの背後には裸の女性が祭壇に腰掛け、もう1人の裸婦の尻を愛撫しては叩くことを繰り返していた。祭壇の上にはバフォメットの秘印――ヘブライ語の飾り文字と円で囲まれた五芒星の内側に、ヤギ頭の偶像をあしらったオブジェが吊るされている。山高帽に蝶ネクタイ姿の男がラヴェイの前に立ち、高らかにこう言った。「近所に越してきたばかりの若く美しい銀行員の胸の内に、飽くなき欲求を掻き立ててくださいますよう、悪魔様にお願い申し上げます。彼はロジャーと名乗っておりました」。

ラヴェイは男性の頭に剣を置き、祈りを唱えた。「飽くなき欲望をロジャーに宿し……汝のもとに召したまえ。獣のような飢えた炎――肉体のほとばしり――が大気を貫き、渇望する汝の肉体で受け止めさせたまえ。性欲を最高潮のまま維持したまえ。ロジャーの耳に願いが届き、汝のもとへ向かわせ、夜に今日という1日が終わらんことを。叶えたまえ。シェムハメフォラシュ」。ラヴェイの後に続いて信者が繰り返す。シェムハメフォラシュ、悪魔万歳。

この儀式から約3年後の1966年4月上旬、タイム誌は「神は死んだか?」と問いかける表紙でアメリカ社会を震撼させた。3週間後の4月30日にラヴェイはサタン教会を設立し、西暦1966年を悪魔元年と定め、自らを最高司祭に任命した。


我が子に悪魔教初の洗礼式を執り行うラヴェイ(Robert W. Klein/AP Images)

ラヴェイはその晩、教会の公式史料が言うところの「中世の死刑執行人の伝統」にのっとって、剃りたてのスキンヘッドでブラックハウスに現れた。坊主頭にメフィストフェレス風のあごひげといういで立ちは、コミック版『フラッシュ・ゴードン』のミン皇帝や、映画でおなじみのいかがわしい悪魔教信者を連想させる――ラヴェイは擬人化されたポップカルチャーのイメージに手を加え、最高司祭のイメージを作り上げていた。映画製作者のケネス・アンガーがのちに友人に語ったように、「アントンはショウマンだった。彼にとって悪魔教はショウビジネスだった」。

ラヴェイの人生はまるで映画そのものだった。1930年4月11日、シカゴで生まれたハワード・スタントン・レヴェイは、やがて家族とともに北カリフォルニアに引っ越した。少年時代はホラー映画が大好きで、様々な楽器を操った。1991年にローリングストーン誌で本人が語った話では、13~14歳のころに退化した尻尾の除去手術を麻酔なしで受けたという。

そこからさらに怪しさが増していく。本人いわく、家出してサーカスに入団し、ライオンの調教を学んだ。様々なクラブでオルガンを弾き、若かりしころのマリリン・モンローと一夜を共にしたこともあった。犯罪カメラマンとしておぞましい現場を度々目にし、この世には慈愛に満ちた神などいないと確信するに至った。それ以前からラヴェイは体系化された宗教とは距離を置いていた。カーニバルのオルガン奏者だった彼は、土曜の夜に肌も露わな若い女性に欲情した男どもが、日曜朝のテントのミサで平然と信徒席に座り、祈りを捧げるのを目の当たりにした。「その時、キリスト教会は偽善の上に繁栄してきたことを知った」と伝記作家のバートン・H・ウルフに語っている。「光の宗教がどれほど清め、どれほど罰しても、人間の肉欲的な性質は表に現れる」。1950年代後半にはサンフランシスコで魔術サークルを結成し、黒魔術やオカルトを探求した(アンガーをはじめとする友人や、デンマークのカリン・ド・プレッセン男爵夫人、フリッツ・ライバーやオーガスト・ダーレスといったファンタジーSF作家、出版社H.P.Lovecraftの初代社長などが常連だった)。評判が広まるにつれ、ラヴェイは黒魔術をもっと大勢に広める方策はないかと模索した。60年代中盤にには、200年にわたる無知と抑圧を打破するためには真の宗教と教会が必要で、キリスト教のすべてを根底から覆し、拒絶するべきだと考えていた。

ラヴェイの悪魔教は伝統的な罪の概念とは無縁で、来世のためではなく1日1日を生きるよう説いた。彼が第一に掲げたスローガンは「悪(evil)を逆から読むと生(life)になる」で、次が「人間の内なる獣は取り除くのではなく、調教するべき」だった。自らの欲求を解放して初めて自由になれるのだ。「肉欲崇拝が快楽を生むのだから、神々しい享楽の寺院もあるはずだ」とラヴェイは言った。

ラヴェイのサタン教会を淫行にかこつけた茶番以外の何物でもないととらえたなら、根底に流れる理念を見逃していたことになる。そのヒントになったのは、カール・ユングやアイン・ランド、アイレスター・クロウリーなどの思想だった。そうした理念がすべて素晴らしいとは言わないが――ラヴェイは社会進化論にも系統していた――そこがポイントだった。悪魔教は人間の本質の根源から目を背けたりしない。「これは非常に利己的な宗教だ」とラヴェイは言った。「我々が信じるのは欲望、そして利己主義だ」。

教会設立から6カ月も経たないうちに、ブラックハウスにはカウンターカルチャーは当然のこと、体制からも信者が集まって来た。もっとも有名なのがハリウッド俳優のジェイン・マンスフィールドで、ラヴェイから聖職位を授与されている。金髪でセクシーな女優は、その後自らの発案で挑発的な悪魔教の写真を撮影し、おそらくラヴェイとも関係を持っていた。悪魔司祭はマンスフィールの恋人に呪いをかけ、恋敵が1年以内に車の衝突事故で死ぬだろうと預言した。8カ月後の1967年6月、マンスフィールドと恋人と運転手を乗せた車は停車していたトラックに突っ込み、3人とも死亡した。車の屋根はサバ缶のようにぱっくり開いていた。ハリウッドスターの首がもげたというマスコミの報道は、あながち誇張ではなかった。

1968年には、偉大なる誘惑者は誰より飛躍の1年を迎えていた。ローリングストーンズはアルバム『サタニック・マジェスティーズ』をリリースし、数カ月後には歴史に残る名作「悪魔を憐れむ歌」を収録した。60年代サマー・オブ・ラブのピースなイメージに変わり、沸々とたぎる怒りが現れ、長らくB級映画の定番だった悪魔教崇拝はローマン・ポランスキー監督の『ローズマリーの赤ちゃん』とともにメジャーの仲間入りを果たした。映画の肝となるシーンで、悪魔教信者が期待を胸に祝詞を上げる中、ミア・ファロウが悪魔に犯され、赤子を孕む。本人が広めた都市伝説によると、毛むくじゃらの悪魔の着ぐるみを着ていたのは何を隠そうラヴェイだった。

こうした世情を背景に、デイヴィスは同年ハリウッドのナイトクラブで若い俳優の一行と出会い、悪魔教の式典に連れられた。これが悪魔教との最初の出会いだと思われる。頭巾を被った僧侶がゴム製のディルドを取り上げ、祭壇に横たわる裸婦に挿入し、祈祷を始めた。「とにかく面白かった、儀式とか地下牢とか、ドラゴンとか道楽とか」とデイヴィスは後に記している。「女が満足してて、ディルドより鋭利なもののを挿入しない限り、俺は一向にかまわなかった」。



「アントンはショウマンだった。彼にとって悪魔教はショウビジネスだった」ケネス・アンガー

ラヴェイは悪魔教を9つの主張――戒律ではない(悪魔は言動について指図したりしない)――に落とし込んだ。第一に、「悪魔が象徴するのは禁欲ではなく、道楽だ!」。これと対を成していたのが、相互不干渉に基づく完全なる寛容だ――快楽、野心、復讐、どんな衝撃であれ、解放せよ。

この点こそ――快楽はもちろん、究極の寛容が――デイヴィスをラヴェイやサタン教会に向かわせた主な要因だったのは間違いない。受容と承認を切望する人間には、火を見るように明らかだった。民主党からは軽蔑され、袖にされた。共和党からは都合のいいように扱われた。黒人活動家からは野次を飛ばされ、邪見にされた。そこへ現れたのが悪魔教だった――まったく批判することなく、彼を聖なる場所へ迎え入れてくれたのだ。

デイヴィスをサタン教会に迎える日取りを決めるにあたり、ラヴェイは少し縁起を担いだ。ベイエリアでのデイヴィスのコンサート日程が、1973年4月13日とかぶっていたのだ。そこでラヴェイは13日の金曜日に、アキノと前妻の娘カーラをサークル・スター劇場へ向かわせた。その名の通り、回転する円形ステージで有名な劇場だ。デイヴィスが魔術師の任命式にその場所を指定したのは、なんとも象徴的だった。「アントンと私はこのアイデアが気に入っていました」とハガーティは回想する。「円と星――五芒星――はバフォメットの秘印の一部ですから」。

目立ちたがり屋だったにもかかわらず、最高司祭は冷静に見せたいという計算から、あえて一歩引くことにした。「押しが弱いほうが、我々に対するデイヴィスさんの評価も良くなるだろう」とアキノに手紙で書いている。

すぐにラヴェイの側近も気づいたが、デイヴィスはすでにサタン教会に好意的で、2人は温かく迎えられた。

和やかな雰囲気の中、デイヴィスは任命状を受け取り、頭を垂れてメダルを授かった。近くでみると、メダルにはバフォメットの秘印が刻まれていた。

3700人の観客が見守る中、デイヴィスは新たに手にした首飾りをつけてステージに上がった。

そしてバフォメットの秘印を首から下げたまま、新たに任命されたサタン教会の2級魔術師サミー・デイヴィス・Jrは、代表作でステージを締めくくった。ラヴェイの悪魔教の信条にも通じる心の叫びだ。

「俺が正しかろうと、間違っていようと
この世界に居場所があろうと、なかろうと
俺は俺、自分らしくいるだけだ……」


サタン教会を設立した最高司祭アントン・ラヴェイ(右)、ラヴェイの右腕マイケル・アキノ(左)とカメラに向かってポーズをとるサミー・デイヴィス・Jr

車がビバリーヒルズのサミット・ドライヴ1151番地の前に停まると、中からラヴェイとハガーティが現れた。2人は私有地の生垣の隙間から目を凝らし、彫像をいただいた噴水やデイヴィス邸のファサードを飾るアーチ状のバルコニーを覗いた。ラヴェイとハガーティは決して門に近寄らず、ましてやくぐることもなかった。サークル・スター劇場での任命式からわずか数週間、突然の訪問は警備員の目に留まった。かの有名な新任魔術師にどうしても会いたかったが、ストーカーと思われるのではの懸念から、ラヴェイは引き返してデイヴィスにうやうやしい手紙を書いた。

次回サンフランシスコ近辺にいらっしゃいましたら、旧サタン教会本部の封印を解いて(文字通り、野次馬から守らなければならないのです)いわゆる館内見学をしていただくことも可能です。妻も私もLA生活が長いので、サミット・ドライヴの辺りもよく存じ上げております。実をいうとつい先日、ご存じかもしれませんが、現在売りに出されている旧バリモア邸の内見をしてまいりました。帰りがけに貴邸の近くを通りかかり、親切な若い見張り番に来訪を告げようかとも思いましたが、礼儀を重んじ、退出いたしました。ぜひ一度ご一緒させていただければ光栄です。貴方の生活様式が誰よりも悪魔的であることは存じ上げております……。

貴方の今後のご健勝を、地獄の底からお祈り申し上げております!

手紙を書いた真の意図が招待だったなら、成功だった。わずか数カ月後の1973年8月、デイヴィス自らドアを開け、旧知の友のように2人を迎えた。「やあダイアン! アントン!」と言った後、奥に向かって「さあ、アルトヴィス」と呼びかけた。

ラヴェイもハガーティも有名人のデイヴィスは知っていたが、彼の妻と会うのはこれが初めてだった。アルトヴィスは瞳の大きな美女で、夫よりも頭1つ分ほど背が高かった。バックダンサーをしていた時にデイヴィスと知り合い、死が2人を分かちつまで添い遂げ、死んだ後も夫を影で支えた(アルトヴィスはデイヴィスの隣に、墓碑もなく埋葬された)。この時も、夫が仕切るのをアルトヴィスは気にしていないようだった。

デイヴィスは夜を盛り上げるために、他にも魅力的な若い女性を2人呼んでいた。「サミーは好奇心旺盛でした」とハガーティは後にこう語っている。「彼は何にでもチャレンジしました」。セックス、薬物、悪魔教――これらがデイヴィスの渇望を満たした。「彼は教会が性の自由を支持していたのを感じ、そこに興味を抱いたのです」。だが乱交は悪魔教の教えではなかった。「我々は乱交のような活動とは一切無縁でした」。この点はラヴェイの最大の矛盾のひとつだが、彼は他人の欲望を解放することに献身しながらも、自らの欲望は厳しく節制していた。

悪魔教で出会った最初のファミリーと過ごす夜は、デイヴィスにしては珍しく大人しかった。彼は何十年もバーボンのコーラ割りを愛飲していたが、この日はバーカウンターの奥からウィスキーを、バーの上にあった銀のボウルからコカインを取り出して、チャンポンした。ラヴェイは麻薬常用者に対して何の偏見もなかったが――偏見は敵だ――社会の抑圧から自己を解放するには理性を明晰に保つことが最善だと考えていた。



ローナ・ラフトいわく、「デイヴィス邸はいつも人でいっぱいだった。夜通しコカインやパーティ三昧だった」

初めて会ったその夜、またそれ以降も、ラヴェイとデイヴィスは何時間も悪魔教の教えについて話し合った。NBCの『Poor Devil』が放映中止になったと聞いてラヴェイとハガーティはがっかりしたが、デイヴィスがすでに悪魔教を経験し、重要ポイントについて知っていることが分かると大喜びした。宴が終わって家路に向かう途中、すっかり昂揚した最高司祭は新任魔術師の献身ぶりを褒めちぎった。

それから数年間、デイヴィスはラヴェイとハガーティを度々招待した――内輪のディナー、大人数のパーティ、コンサート、タホ湖のほとりの別荘。ハガーティによると、最初の訪問時に家主が寝室を見せてくれるという嬉しいサプライズがあり、そこでラヴェイは度肝を抜かれた。枕元にはうやうやしく、任命式でデイヴィスに授与されたバフォメットの秘印が吊るされていたのだ。

時折デイヴィスはハガーティに色目を使った。一度ハガーティが少し太ったと言うと、デイヴィスはハガーティの身体を自分の方に向け、「なるほど、俺に言わせれば、しかるべき場所にちゃんとついてるよ」と言った。

デイヴィスの視線が他人に向いても、ラヴェイの嫉妬心を煽ることはなかった。ただし、『Poor Devil』でルシファーを演じたクリストファー・リーの場合は例外だった。オカルトの権化でもあるホラー映画のスター俳優を最高司祭もきっと気に入るだろうと考えたデイヴィスはディナーパーティを開いたが、思惑通りにはいかなかった。リーとデイヴィスの親しげな様子にラヴェイはやきもきし、リーの横柄な態度にも神経を逆なでされ、いきりたって口論をふっかけた。ドラキュラ役として最高の役者は誰か――リーか、ベラ・ルゴシか、というのが表向きの理由だった。すぐさまデイヴィスが2人の長身の客に割って入り、取っ組み合いの喧嘩にはならずに済んだ。

だが2人が一緒にいる時、羽目を外すのはたいていデイヴィスのほうだった。おすすめのアダルト映画を引っ張りだしてきたこともあった。「我々がその気になったと思ったにちがいない、と思いました」とハガーティは当時を振り返る。「私たちは節操ある人間ではなかった。ポルノも見ました。だからと言って、いきなりムラムラするわけでもありません。それは私たちの流儀じゃなかった」。

一方デイヴィスは『ディープスロート』の女優リンダ・ラヴレースと、彼女に暴力をふるっていた夫兼マネージャーのチャック・トレイナーをサミット・ドライヴに定期的に招待した。トレイナーの許諾を得て、デイヴィスはラヴレースと不倫関係になった。ある夜デイヴィスはポルノ女優にかの有名なフェラチオの奥義を伝授してもらい、無防備なトレイナーを相手に練習したこともあった。

友人の間では、デイヴィスが男性とも性的関係があったことは周知の事実だった。伝記作家のポール・アンカも回顧録の中でデイヴィスの性癖について語っている。カミングアウト、それもバイセクシャルだと公言するのは論外だった。デイヴィスはなんでも二択だった。白人か黒人か、ゲイかストレートか。

「今まで経験した中で、一番そそられたのはゲイの映画を見たときだ」とデイヴィスはアダルト雑誌ジェネシスで、ポルノ女優のマリリン・チェンバースに語っている。「俺には無理だったがね。たぶん、俺の中のホモセクシャルに対する潜在意識と折り合いを付けられないんだろうな……種馬のイメージがあるから、種馬とホモセクシャルを一緒にすることができないんだ」。

ラヴェイもデイヴィスの自由な性的嗜好を理解し、受け入れていた。極端なまでの究極な寛容こそがラヴェイの悪魔教の真髄だった。とはいえ、誰彼かまわずベタベタしてよいというわけではない。自分第一主義が推奨していたのは制約のない個人の自由、個々の力の追求だった。

ラヴェイから認められたことは、デイヴィスにとって目からうろこだった。何よりそれが2人の友情を物語っている。

2人の友情が芽生えた際、デイヴィスは1972年共和党全国大会でニクソンを抱擁した影響で、自我の危機を迎えていた。若い黒人活動家はこぞってデイヴィスをアンクル・トムと呼び、やがて市民権運動の指導者もその流れに加わった。デイヴィスは騒ぎを収めようと、友人のジェシ・ジャクソンが主宰するBlack EXPOへの出演を承諾したが、ステージに上がるとブーイングの嵐で迎えられた。

「俺の政治観が相容れられなくても構わない」とデイヴィスが言うと、さらに嘲笑を誘った。「だが俺が黒人だってことは誰にも否定させるもんか」。マイクを高々と上げて歌い出した。声には弁解というより、怒りの色がにじんでいた。「俺が正しかろうと、間違っていようと/この世界に居場所があろうと、なかろうと/俺は俺……」。


民主党から拒絶され、ニクソン大統領支持に鞍替えしたデイヴィス(Corbis/Getty Images)

「セルマやトゥーガルーで行進した時の映像が残ってればなぁ」と、直後に受けたニューヨークタイムズ紙とのインタビューでデイヴィスは愚痴をこぼした。「俺はKKKの暗殺リスト上位10人の1人だったんだ。それが今じゃ黒人から野次られ、アンクル・トム呼ばわりされるなんて」。

インタビューは途中であらぬ方向に脱線する。デイヴィスが悪魔教の黒魔術ミサに出席したと公言したのだ。「黒魔術の関係者を尊敬する――たいした連中だよ」と彼は付け加えた。「シェイクスピアは、天国と地球には想像以上にいろんなことがあるとか云々言っていたが」。サタン教会でラヴェイと出会うのはまだ数カ月先の話だが、すでにデイヴィスは自分を、自分が抱える矛盾を受け入れてくれる仲間を見つけていた。

デイヴィスとラヴェイは知り合ってすぐに親交を深め、友情は悪魔教の理論を越えて続いた。ラスベガスにお忍び旅行をした際にはマリリン・チャンバースを交え、自分より先に相手を昇天させようと競い合った。70年代中期には、ラヴェイはオカルトに関する手紙や書籍をデイヴィスに送った。親しみを込めて添えられた結びの句――「地獄から敬意をこめて(Infernally Yours)」のYの部分は、悪魔の尻尾のようにくるりと巻いていた。2人は先割れひづめを持つ悪魔をOld Slew Footというニックネームで呼び合った。タップダンスの名手で足さばきの鮮やかなパフォーマーらしい、格式ある呼び名だ。

デイヴィスのほうも心からの感謝の気持ちを示した。1974年春、デイヴィスは思い出の地サーカス・スター劇場にラヴェイとハガーティ、アキノを招いて再会を祝った。誰かがカメラを取り出すと、ツィードのスポーツコートを着たデイヴィスは満面の笑みでラヴェイに頭を摺り寄せ、ラヴェイも思わず笑みを浮かべた。知る限り、これが唯一ラヴェイとデイヴィスが一緒に映った写真だ。そこには意気投合した完璧な2人組が映っている。ラヴェイは周りから認められたいというデイヴィスの承認欲求を満たし、デイヴィスは有名人の七光りで知名度を提供した。コンサート終了後、デイヴィスはホテルで3人に18金のブレスレットを贈った。「親しい家族」の証だと本人は言った。

ラヴェイはそれに応え、サタン教会に常任職を新設してデイヴィスを昇進させるという驚きの提案をした。北米全域を統括する幹部職だ。「今になって思えば、ダイアンもサミーも自分も、そうした考えに理性的に反応できたかどうかよくわからない」とアキノは後にこう記している。「だがあれは魔法のような夜だった。理屈じゃない」。

「お茶の間のみんな、楽しんでもらえたかな」 とデイヴィスは言い、『Sammy & Company』初回エピソードを締めくくった。「この番組の目的は、俺の世界を少し垣間見せることだからね」。

1975年4月にスタートしたトーク番組は思いもよらない形で幕を開けた。どんなに凝った演出でも、ハイになって支離滅裂なデイヴィスをごまかすことはできなかった。評論家から酷評された番組は、日曜深夜という墓場のような時間帯に割り当てられた。シナトラとシャーリー・マクレーンとデイヴィスの3人でアカデミー賞授賞式の司会を担当し、ほうぼうから酷評された後に放映された週1の番組は、デイヴィスにとって1975年が辛い1年になりつつあることを改めて痛感させた。

キャリアがあっという間に転落した上、デイヴィスは健康の衰えにも直視しなければならなかった。9月には四肢の痛みで1週間入院した――その前にも胸部の痛みで入院していた。コンサートはキャンセルが続き、時には公演の間に数日オフを挟まねばならなかった。ナイトクラブやカジノでの公演予約も途絶えた。

唯一の心の慰めが彼をさらに深みに陥れた。パーティだ。アルトヴィスは老いの痛みを和らげ、デイヴィスの最悪の1年をすぱっと断ち切ろうと、50歳の誕生日に盛大なパーティを企画した。

屋敷の中に入ると、デイヴィスが訪問客を次々迎える。みな子どものような服装だ――それが仮装パーティのテーマだった。つんつるてんの子ども用パジャマという、この日の主役のウケ狙いの仮装は誰の目にも留まった。他のから頭ひとつ飛びぬけたラヴェイのスキンヘッドはいやがおうにも目立っていた。いつもの服装――マントと黒装束――は、いかにも子どもが考えそうなドラキュラや悪魔の仮装という感じだった。

まるきり部外者だったラヴェイは、もはや内部の人間だった。ハリウッドに悪魔教や自分を売り込むのに精を出し、『Svengali the Magician』(のちに『Lucifers Women』に変更)では技術監修を務め、1975年の『魔鬼雨』でも同じくコンサルタントを務めた。撮影セットでゴリ押しした結果、アーネスト・ボグナイン、ウィリアム・シャトナー、ジョン・トラボルタと並んで「最高司祭」というセリフ付きの役を勝ち取った。そして今、こうしてサミット・ドライヴにいるラヴェイは、音楽業界の大物やハリウッドの重鎮、デイヴィスの側近や仲間とつるんでいる。仲間の1人となったのだ。

デイヴィス同様、バースデーパーティはラヴェイにとっても1975年を忘れるいいチャンスだった。悪魔暦10年に当たるこの年、サタン教会は2つに分裂した。ラヴェイは依然ブラックハウスで信者らを迎えていたが、その数は減少しつつあった。最高司祭も丸くなり、内省的になったと言われた。そんな時に足を運んだのがデイヴィスだった。閑散とした夜に何度か教会を訪れ、最高司祭は進んでオルガンを弾いた。

それとは対称的に、サミット・ドライヴのデイヴィス邸は今でも街一番の人気スポットだった。「いつも人でいっぱいだった」と、ジュディ・ガーランドの娘ローナ・ラフトは回顧録で振り返っている。「私たちはほとんど全員、一晩中コカインやパーティで大騒ぎしていた」。パーティのお供はセックスだった。1970年代にデイヴィスの愛人の1人だったキャシー・マッキーによると、「コカインの後は必ずセックスだった」。マッキーいわく、デイヴィスは旅行の際にコカインと興奮剤を詰め込んだバニティケースを持参した。「キャンディ・マンというサミーの愛称に、別の意味合いが加わった」。



「俺は悪魔教信者になった」という箇所はデイヴィスの回顧録から削除された。「悪魔教の理念に魅了された」

薬物依存の影響は、次第に公の場にも現れるようになった。デイヴィスは2~3曲歌った後、コンサートが終わったと思い込んでステージを降りることもしょっちゅうだった。意識がはっきりしている時には、「やあみんな、ヤってるときもあるし、ヤってない時もあるが、今夜はヤッてない」と公言したこともあった。最後までステージをやりとげても、トリを飾るのは誇り高く反旗を翻す「I Gotta Be Me」ではなく、哀愁漂う「ミスター・ボージャングルス」だった――放蕩生活を送る大道芸人が、踊りで晩年に飲み代とチップを稼ぐ。タップダンスが履ければの話だが……。

1970年代も後半に入ると、デイヴィスの社交生活は次第に酒とクスリ中心になっていた。シナトラは旧友の落ちぶれ具合を見るに耐えかね、連絡を断った。オールド・ブルー・アイズことシナトラは、最初は仲介者を通じて、その後は面と向かって、しっかりしろとデイヴィスにげきを飛ばした。彼がとくに恐れていたのは、親友が悪魔教信者と親しくしていたことだった。

シナトラのような親代わりの人間から拒絶されたことで、デイヴィスがラヴェイとの交流をどこまで考え直したかは何とも言えない。デイヴィスの薬物依存がここまでひどいことをラヴェイは知っていたのか、もし知っていたら手を差し伸べようとしたのかも分からない。

分かっているのは、デイヴィスとラヴェイの絆は70年代後半には徐々に薄れていったということだ。少なくともしばらくの間は電話でやりとりをしていた。だがMr.ショウビズと暗黒教皇が顔を合わせる頻度は少なくなり、最終的には途絶えた。先割れひづめの悪魔を通じて結ばれた友情が真っ二つに引き裂かれたわけではない。ただ、それぞれ元のさやに収まっただけだ。

「俺は悪魔教徒になった。とても興味をそそられる連中に紹介され、その中に全米サタン教会のトップもいた。俺は彼らの理念に魅了された。実際教会の一員になって、悪魔教の信念に自分がどう貢献できるか模索した……今もサタン教会には大勢の友人がいる……面白い話を持ち掛けてくれれば、俺が喜んで改宗する人間だってことは分かるだろう」。

1980年に出版されたデイヴィスの回顧録『Hollywood in a Suitcase』からの抜粋が、ニューヨークデイリーニュース紙に掲載された。サブタイトルは「悪魔教の経験と、愛から得た教訓」だった。ところがいざ出版されると抜粋箇所は完全に削除され、どこにも見当たらなかった。誰かが、おそらくデイヴィスも含む全員が、直前になって二の足を踏んだのだろう。

もはや70年代は過ぎ去っていた。

1980年代も終わりに差しかかると、悪魔教をめぐる集団パニックが起きた。デマであることは証明されたものの、生贄の儀式や赤ん坊殺し、性的虐待などの容疑で全米が混乱に陥った。

1988年、NBCで放映されたジェラルド・リヴェラの特別報道番組『Devil Worship: Exposing Satans Underground』は、『Poor Devil』が成し遂げられなかった高視聴率をはじき出した。かつてセンセーショナルな報道で脚光を浴びたラヴェイは、いまやお尋ね者扱いだった。脅迫状を突きつけられ、最高司祭はブラックハウスの中に引きこもった。屋敷はしばしば銃撃に遭った。

1990年2月上旬、いつものようにサタン教会本部にTVガイド誌が届いた。だが、面白い番組はないかとページをめくって『Poor Devil』を見つけたダイアン・ハガーティはもういない。ハガーティとラヴェイは1984年に別れていた。ラヴェイが怒りっぽく暴力的になったのが原因だとハガーティは主張(ラヴェイは否定)している。代わりにラヴェイの最後のパートナー、ブランシュ・バートンが暗黒教皇とブラックハウスで暮らしていた。バートンはデイヴィスに会ったことはなかったが、サタン教会でもっとも有名な魔術師がTVガイド誌の表紙を飾っているのを見逃さなかった。

1989年上旬、デイヴィスは喉頭がんと診断され、公演はすべて中止された。死が近づいていることを感じたデイヴィスのマネージメントは追悼イベントの準備を始めた。65歳の誕生日までもつかどうか危ぶまれたため、芸歴60周年記念という形になった。

ハリウッド最大のスター、エディ・マーフィは二つ返事でイベントの司会を引き受けた。彼はデイヴィスを尊敬しており、デイヴィスはちやほやされるのが大好きだった。ある晩ハリウッドにあるレストラン経営者のダン・タナ邸で、シャンティのボトルで作ったシャンデリアの下、デイヴィスは若きコメディアンに打ち明けた。「いいか、悪魔は神と同じぐらい強大なんだぞ……」。

「一体全体なんの話です?」というマーフィの反応と眉をひそめた沈黙に直面したデイヴィスは、話を逸らして場を和ませ、自分が今でも空気が読める人間だと証明した。だが決して悪魔教を見限ったわけではなかった。友人らの話によると、デイヴィスは晩年まで悪魔教の儀式を続けていたという。愛人のキャシー・マッキーはそれが理由で別れた。「愛の行為も」と彼女は記している。「どういうわけか、オカルト信仰にひもづいた儀式だったの。私には理解する気はなかったけど」。

どうやらデイヴィスは1980年代にそういう連中と出会い、セックスパートナーと悪魔教の儀式に参加していたようだ。側近の1人はアルトヴィスに宛てた手紙の中で、デイヴィスがそうした乱交の最中に割れたボトルのような鋭利なもので血を流したと書いている。時には性器から血を流したこともあったそうだ。

具体的にいつごろデイヴィスの悪魔教の儀式が怪しい方向に進んだのか、またその理由については分からない。おそらく年齢やキャリアの衰退、破産の恐れなどに対する反動だったのではないか。あるいは胸の奥底に眠る怒りをぶちまけていたのか。あるいは、単なるSM嗜好だったのか。

TVで『Sammy Davis Jr. 60th Anniversary Celebration』を見ていたラヴェイは、デイヴィスが悪魔教にこれほど長くのめり込んでいたことを知らなかった。スター勢ぞろいのイベントは、あらゆる意味で生前葬だった。友人らが列をなしてデイヴィスを称え(シナトラ)、茶化した(マーティン)。ジョージ・W・Hブッシュ大統領もホワイトハウスから祝福のビデオメッセージを贈った。ジェシ・ジャクソン尊師はデイヴィスが次世代に扉を開いたと称賛した。キング・オブ・ポップことマイケル・ジャクソンは書下ろしのトリビュートソングを披露した。

ラヴェイは奇妙なオカルトのオブジェや思い出の品々に囲まれながら、かつての友人、かつての信者が番組終盤でステージに上がり、集まった豪華スターの面々に(最後の)挨拶として謝辞を述べる様子を見ていた。デイヴィスからラヴェイには何の一言もなかった。ラヴェイは1997年に息を引き取るまで、そのことを根に持っていた。現存するもっとも偉大なパフォーマーにしてもっとも有名な悪魔教信者は、ラヴェルが見つめるTV画面に向かって投げキッスした。スクリーンがフェイドアウトする。この番組がエミー賞で最優秀バラエティ音楽コメディ特番賞を受賞したころ、デイヴィスはフォレスト・ローン墓地で眠っていた。墓碑には意味深な銘文が刻まれている。「エンターテイナー。彼はとことんやりつくした」。

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from Rolling Stone US

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