ブルース・スプリングスティーンが語る『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』の真実【1984年の秘蔵インタビュー】
Rolling Stone Japan / 2024年9月25日 17時30分
ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen)の日本独自企画盤『ボーン・イン・ザ・U.S.A.(40周年記念ジャパン・エディション)』が9月25日に発売されたことを記念して、40年前の1984年に掲載された米ローリングストーン誌の16000字カバーストーリーを前後編でお届けする。まずは前編、ロック史上屈指の名盤を生み出した当時35歳のボスは何を語ったのか?
>>>後編はこちら
ブルース・スプリングスティーンが語る「アメリカン・ドリーム」の定義、エルヴィス、マイケル、プリンスへの想い
シアトルの方が商業的に成功しやすい都市と言えるが、ブルース・スプリングスティーンにとってはタコマの方が好みの街だった。『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』ツアーの第2ラウンドに入ったスプリングスティーンは、Eストリート・バンドのメンバーと共にバンクーバーから空路タコマ入りしたが、全員が体調を崩してしまった。タコマでは製材所やその他の工場から排出される煙や有害な汚染物質による、地元で「タコマの香り」と称される悪臭が街中を漂い、人々の肺を害している。バンドのメンバーやスタッフたちは具合が悪くなり、スプリングスティーン自身も吐き気を催した。そんな状況にもかかわらず彼らは、2万5000席がソールドアウトになっていたタコマ・ドームでのコンサート初日を強行した。スプリングスティーンは、強靭な精神と身体の持ち主だ。
タコマから50kmほど離れた、空気も雰囲気も格段に良いシアトルにあるザ・キングドームという選択肢もあったはずだ。ただ、音響は狭めのタコマ・ドームの方が良い。それに何と言っても、最近では上流階級の仲間入りをしたとはいえ、スプリングスティーンはさまざまな苦悩を抱える労働者階級に寄り添う姿勢を貫いている。そういう意味で、不快な環境のタコマは、スプリングスティーンには申し分ない会場だった。
彼は本当に体調が悪く、青白い顔でステージに上がった。4時間後にステージを降りる時には、完全に力尽きたほどだった。しかし彼は、絶対に弱みを表に出す人間ではなかった。ステージは明るくノリの良い「Born in the U.S.A.」で口火を切り、傑作『ネブラスカ』からも数曲披露した。そして最後までオーディエンスを魅了し続けた。ツアーを通じてスプリングスティーンは「無力感」や、ガールフレンドや政府に対する「盲目的な信頼」などについて、ステージの上から語りかけた。「今は1984年。誰もが何かを求めているようだ」と彼は、熱狂するオーディエンスに語る。タコマでは、地域活動団体のワシントン・フェア・シェアの活動を称えた上で、印象的な楽曲「My Hometown」のイントロに入った。同団体は当時、違法なゴミ処理場の撤廃に賛同し、「市民の知る権利」の法案に対してワシントン州知事のジョン・スペルマンが発動した拒否権を覆すための呼びかけを行っていた。法案が通れば地元企業は、職場で触れる可能性のある有害な化学物質についての全情報を、従業員に公開する義務が生じる。「企業の利益より人々の安全が優先され、企業よりも地元コミュニティが優先されるべき、というのがこの団体のポリシーだ」とスプリングスティーンは説明した。さらに、次に歌う「My Hometown」の歌詞を引用して「ここは”君たち”の地元なんだからな」と、人々に行動を促した。
ローリングストーン誌1984年12月6日号の表紙(Photo by Aron Rapoport)
確かにスプリングスティーンは、ロック界の世界的なスターかもしれない。しかし1984年のスプリングスティーンは、アルバムの宣伝に躍起になっているありきたりのロックスターの殻を破り、もっと大きな存在になった。彼のカリスマ性は、思想的に真逆の存在である共和党のロナルド・レーガンにも政治利用されるほど、国民的な存在になっていた。一方のスプリングスティーン自身は、政権の掲げる「新たなアメリカの楽園」の弊害で干上がった文化の底辺から、容赦ない批判を繰り出している。スプリングスティーンは、自分自身が描いた夢の実現へ向けて貪欲に突き進んできた。1968年に生まれ故郷のニュージャージーにあるオーシャン・カントリー・カレッジを中退した彼は、限りなく実現不可能に思われたロックンロールのソングライターを目指した。さらに、当時マネージャーだったマイク・アペルとの1年に及ぶ泥沼の法廷闘争も経験した。おかげで70年代半ばの約1年間はレコーディングすらできなかったが、彼はじっと耐え抜いた。80年代に入ると『ザ・リバー』(1980年)が200万枚の売り上げを記録し、続く『ネブラスカ』(1982年)では、アメリカの地方都市が抱えるさまざまな痛みや無秩序を、スプリングスティーン特有の声とギターで歌い上げた。そして『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』は、前作と同様のテーマをバンド全体の結束力で追求した結果、突如として最大のヒット作となる。
全米ツアー中のオークランドとロサンゼルス(いずれもカリフォルニア州)で、スプリングスティーンはインタビューに応じた。オークランドのステージで彼は、バークリー・エマージェンシー・フード・プロジェクトの活動を称賛した。ロサンゼルスのハリウッド・ヒルズには、スプリングスティーンの家がある。オープニング曲からラストのジョークを交えたMCに至るまで緻密に練り上げられたステージを、毎回どのように新鮮に見せているか尋ねてみた。「今この時に”その場”にいて、実際に”体験”しているか、が重要なんだ」と彼は答えた。ステージ上でもステージ外でも、彼自身はこのテストに合格しているようだ。
『ボーン・イン・ザ・U.S.A.(40周年記念ジャパン・エディション)』
●日本独自高品質BSCD2(4枚組:特製インナースリーヴに収納)
●日本独自の見開き7インチ紙ジャケット仕様(完全生産限定盤)
●初来日時のオフショット含む未発表写真満載のフォト・ブック(全80P)
●初来日のドキュメンタリー的な秘話満載の詳細な日本語ブックレット(全96P)
●1985年の初来日公演「BORN IN THE U.S.A. JAPAN TOUR」告知ポスターを復刻
「Born in the U.S.A.」とベトナム戦争
―タイトル曲「Born in the U.S.A.」は、人々を煽り立てるロックンロール曲であると同時に、ベトナム帰還兵など社会的に置き去りにされた人々の痛みを代弁した特別な作品です。帰還兵の状況について、いつ頃から認識していましたか?
BS:彼らが実際に経験したことを正確に想像できる人間などいないだろう。俺自身もできない。実際に体験した人間でないとわからないと思う。ベトナムでは多くの若い男女が亡くなった。戦地で生き延びても、帰国してから亡くなった人も多い。当時この国は、彼らの献身を食い物にしていたのではないかと考えざるを得ない。当時の彼らは、自分の命を惜しみなく捧げた。
―ベトナム戦争に関して、あなた自身に直接的な経験はありますか?
BS:直接は体験していない。俺が育った60年代後半のフリーホールド(ニュージャージー州)では、政治意識がそう高くなかった。小さな町で、戦争なんて遠い世界の話だった。ベトナム戦争については、実際に従軍した友人たちに話を聞いた。最初に組んだバンドのドラマーは、ベトナムで戦死した。彼は海兵隊へ入隊した。彼の名前は、バート・ヘインズ。明るくて、いつも周囲を笑わせてくれる奴だった。あるとき彼がやって来て「入隊した。ベトナムへ行くんだ」と言った。ベトナムがどこにあるかも知らないけどな、という彼の言葉が忘れられない。それっきりさ。彼が帰国することはなかった。戦地から帰還できた人たちも、以前と同じ状態ではなかった。
―あなた自身はどうやって兵役を回避したのでしょうか。
BS:俺は17歳の時のバイク事故で脳震とうを起こしたことで「4-F」に分類されて、兵役には適さないと判断されたんだ。それから、60年代に流行っていたやり方も使った。記入用紙にでたらめを書いて、兵役検査を受けなかったのさ。19歳の俺は、命を捧げる覚悟ができていなかった。徴兵の連絡を受けて身体検査会場へ向かうバスの中で「俺には無理だ」と思った。大学にも入ったが、俺には向かなかった。偏見だらけの学校だった。俺の格好も行動も周囲から浮いていたから、嫌がらせを受けたりして、結局行くのをやめた。身体検査へはバンド仲間も一緒に行ったが、バスに乗った6、7割はアズベリー・パークに住む黒人だった。俺はバスに揺られながら、大学へ通う奴らが徴兵を逃れているのに、なぜ俺や仲間の命が使い捨てにされるんだ、などと考えていた。何だか不条理に感じた。俺の父親は第二次世界大戦の退役軍人だが、「いつかお前も徴兵されて、その長い髪を刈られる時が来る。軍隊に入れば男になれる」という感じの人だった。当時はよく父親と衝突していた。そして俺が3日間留守にして帰宅すると、キッチンに仲間たちが集まっていて「どこへ行っていたんだ?」と聞くから「兵役のための身体検査を受けに行っていたのさ」と答えた。「でも徴兵はされなかった」という俺の言葉を横で聞いていた父親は、「よかった」と一言つぶやいた。あれは、一生絶対に忘れられない瞬間だった。
アメリカ国旗と政治的信念
―皮肉なことに、今のあなたは政治的右派のヒーローに祭り上げられています。保守系コラムニストのジョージ・ウィルは最近のワシントンDCでのコンサートを絶賛し、レーガン大統領はあなたの地元ニュージャージー州での選挙キャンペーン中にあなたの名前を引き合いに出しました。
BS:今、人々は過去を消し去りたいと思っているのだろう。ベトナム戦争、ウォーターゲート事件、そしてイランのアメリカ大使館人質事件と、我々は打ちのめされ、騙され、そして屈辱を受けた。自分たちの祖国は安心できる場所であるはずだ、と思い込みたいのさ。そういう希望を持つことは悪くないと思うが、実際は巧みに搾取されていたということだ。レーガンが再選を目指した選挙キャンペーンのキャッチフレーズを覚えているだろう。「アメリカに再び夜明けが訪れた」だ。でも実際にはピッツバーグに夜明けは訪れず、ニューヨークの125丁目にも朝日は差し込まない。それどころか真夜中で、気味の悪い月が空に浮かんでいる。だからレーガンがニュージャージー州で俺の名前を口にした時には、また新たな虚構が始まった、と感じた。俺は、大統領による口先だけの建前には巻き込まれたくなかった。
―でも、選挙の年にアメリカ国旗を前面に掲げたアルバム『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』をリリースしたことで、政治的右派の思う壺にはまったのではないでしょうか?
BS:国旗をジャケットに使ったのは、1曲目が「Born in the U.S.A.」だったというのもあるし、今回のアルバムは俺が6、7年も前から歌い続けてきたテーマの延長にあるからだ。国旗はパワフルなイメージを持つ。だから国旗のイメージだけが独り歩きしても、自分では手に負えない。
―アルバム・ジャケットの写真ですが、こちらに背を向けて国旗に向かって立つあなたの姿を見て、アメリカ国旗に小便をかけているのではないかと推測したファンもいました。あの写真で、何かしらのメッセージを伝えようとしたのでしょうか?
BS:そんなことはない。あのポーズも全くの偶然だ。ジャケット用にたくさんの写真を撮って、最終的に俺の顔が写ったものよりも後ろ姿の方が見栄えがするだろう、という結論だった。そこに隠れたメッセージなどはない。そんなのは俺らしくない。
『ボーン・イン・ザ・U.S.A.(40周年記念ジャパン・エディション)』ボーナス・ディスク3CD
1985年8月地元NJジャイアンツ・スタジアムでの3時間超えライブ・パフォーマンス29曲(セットリストが日本公演に近い)に、1984年8月ブレンダン・バーン・アリーナ公演より「レーシング・イン・ザ・ストリート」(約8分)と「ロザリータ」(約15分)をボーナス・トラックとして追加した全31曲を収録
―大統領選挙が2週間後に迫っていますが、選挙人登録は済ませましたか? あなたの政治的立場を教えてください。
BS:登録した。ただし、特定の政党を支持している訳ではない。今の選挙制度には、全く満足できない。いつの日か、俺も納得するような強力なリーダーが出てきてくれればいいと思っている。
―ロナルド・レーガン(共和党)よりも、ウォルター・モンデール(民主党)の方が好ましいとは思いませんか。
BS:何とも言えない。両者には大きな違いがあるが、具体的にはわからない。選挙前のレトリックから良し悪しを判断するのは、とても難しい。当選した途端に人が変わってしまうしな。だからこの時期は、選挙政治にリアルなつながりを感じない。選挙というのは、最も困難な仕事をこなす最適な人物を見出す最適な方法だとは思わない。俺はもっと直接的に人々とつながりたい。バンドと一緒にコミュニティと結びつく方法を見つけたい。それこそが、選挙というプロセスを必要としない真の政治行動だと思う。人を中心としたヒューマン・ポリティクスだ。人々には、自身で多くの困難を切り抜ける力があると信じている。オーディエンスが属するコミュニティの具体的な行動や直接的に関与するものと、自分たちの表現とがどこで接点を持つかを、俺は理解しようとしている。それが、俺たちがバンドを組んでから必然的に目指してきた方向性だと思う。女の子にもてたいとか、金持ちになりたいとか、世界を少しでも変えてやる、などと考えてバンドを始めた訳さ。
―大統領選に投票したことはありますか?
BS:1972年にジョージ・マクガヴァンへ投票したかな(編注:リチャード・ニクソンに米政治史に残る大敗を喫した)。
―ロナルド・レーガンについて、率直にどうお考えですか?
BS:彼を直接知っている訳ではない。神話的で魅惑的なイメージを持っていると思う。人々が描く理想的な人物像だな。何もかもが上手く回っていた時代のアメリカ神話に対するノスタルジーは、常にみんなが抱いているんだと思う。そういう意味でレーガンは、アメリカの神話を体現している大統領だと思う。彼が悪い人間だとは言わないが、この国の多くの人々が描く夢は彼にとって大きな意味を持たず、無視されているのも事実だ。俺が理想とするアメリカ像は、寛大で本当に思いやりのある国だ。ただ、60年代にあった社会意識が、今や過去の古臭いものになってしまったのが残念だ。外へ出て仕事をして、自分の身の丈に合った稼ぎを得て、週末は楽しく過ごす。それで満足だった時代だ。
『ネブラスカ』と『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』の関係
―あなたの曲に登場する人々は、長い間、この国の状況を反映してきました。あなたのアルバム作品は、社会政治的な視点の変化と密接に関係していると思いますか?
BS:俺は常に、作品どうしが互いに影響し、共鳴し合うように作ってきた。だからアルバムは単なる楽曲のコレクションではなく、もっと重要なメッセージを込めるようにしている。『青春の叫び』(The Wild, the Innocent & the E Street Shuffle:1973年)で意識したんだが、特にB面の曲はお互いにシンクロさせている。何人かのキャラクターがいて、彼らの人生をフォローしていく形だ。『明日なき暴走』(Born to Run:1975年)、『闇に吠える街』(Darkness on the Edge of Town:1978年)、『ザ・リバー』では、楽曲どうしのつながりを特に意識した。『明日なき暴走』では、宗教的に物事を追求していくユニークなやり方をしてみた。宗教と言っても伝統的な宗教ではなく、もっとベーシックな概念という意味でね。探求、信念、希望の理念、といったところさ。次の『闇に吠える街』では、現実社会を生きる主人公の葛藤を描いている。結局、主人公は独りぼっちになり、全てを失う。それから『ザ・リバー』の登場人物は、コミュニティへの社会復帰を目指している。「Stolen Car」「The River」「I Wanna Marry You」「Drive All Night」「Wreck on the Highway」も、人間関係がテーマになっている。人々がお互いにやすらぎを求めている。『ザ・リバー』以前は、人間関係をテーマにした曲などめったに書かなかった。それから『ネブラスカ』は、自分でも理由はわからないが、突然浮かんで出来上がった感じだ。
―『ネブラスカ』は、チャールズ・スタークウェザーと恋人のキャリル・フューゲートによる連続殺人事件をテーマにした映画『地獄の逃避行』(テレンス・マリック監督)にインスパイアされたと思っていました。
BS:前回のツアー中に、俺は既に「Mansion on the Hill」を書き上げていた。ツアーを終えてニュージャージー州コルツネックの自宅に戻った時に、映画『地獄の逃避行』を観て、それから彼らの伝記小説『Caril』を読んだ。単にそのときの気分だったんだけどな。スイミング・リバー・レザボア近くに借りた家に籠もって、曲作りを始めた。そして2、3カ月で『ネブラスカ』の収録曲を書き上げた。『ザ・リバー』の頃から、よりディテールにこだわって曲を書くようにしている。当時は、映画の他にフラナリー・オコナーの小説にも影響を受けたと思う。彼女の作品は素晴らしい。
―スタークウェザーには、当時のアメリカの状況を象徴するものとして、何か感じるものはあったでしょうか。
BS:言葉の選び方が正しいかどうかわからないが、ニヒリズムというものが社会を凌駕して、宗教や社会的に定められた基本原則を無意味な状態にしてしまう状況もあり得ると思う。制約がなくなり、何でもありの世界になる。本当にお先が真っ暗だ。どんな力が働いてこうなっているのか、よくわからない。おそらく、人々にフラストレーションが溜まり、自分の拠り所となるものを見出せず、人々と政治や社会とのつながりが欠けているからだろう。孤立してしまうことが、最も危険な状態だと思う。『ネブラスカ』は、そんなアメリカの孤立状態をテーマにしている。友人やコミュニティ、政府、仕事から疎外された人々の行く末を歌っている。友人やコミュニティなどは、何とかして自分の人生に意味を見出して前向きになろうとする時に、必要なものだ。もしも自分が周囲から切り離されてしまったら、社会の基本的な制約も意味を成さなくなり、人生も空虚なものになってしまう。すると、何が起きてもおかしくない。
―全曲でアコースティック・ギターを中心にした『ネブラスカ』は、そのような暗黒の時代を表現する素材としては、最もふさわしかったのではないでしょうか。
BS:最初は、ただ次のロック・アルバム用の曲を作っていただけなんだ。それまでは、スタジオに入ってからの曲作りに、ものすごい時間をかけすぎていた。スタジオへ入ってもすぐにレコーディングできる素材がなかったり、あっても中途半端だったりした。1カ月かけてスタジオで何曲か作って、家に帰って少し書き足して、また1カ月間スタジオで作業して、という感じで、全く効率的でなかった。だから今回は、俺がまずティアック社製の4トラックのカセットレコーダーに録ってみて、出来がよければバンドのメンバーに聴かせようと思っていた。歌とギターで1トラックずつ使い、残りの2トラックに例えばギターをオーバーダビングしたりコーラスを加えたりした。単なるデモテープにするはずだった。エコープレックス(テープエコー・マシン)を使ってミックスもしたが、手を加えたのはそれくらいだ。そのテープがそのままレコードになってしまった。驚いたよ。俺はそのカセットテープをケースにも入れずに、数週間もポケットに突っ込んで持ち歩いていたんだからな。最終的に「おお、これはアルバムにできるクオリティだな」ということになったのさ。しかし技術的に、カセットからそのままレコードにするのは難しかった。録音状態が悪くて音が歪んでしまっていたから、そのまま盤に刻めなかったんだ。レコードは諦めて、カセットテープとしてリリースしようとまで考えた。
―楽曲「Born in the U.S.A.」は、『ネブラスカ』を制作していた時期に作られたと聞いています。その他にも、この時期にできた作品はありますか?
BS:『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』に収録された半分の曲は、『ネブラスカ』と同時期に作ったものだ。実は『ネブラスカ』向けの曲を仕上げようとしてバンドとスタジオ入りした時に、『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』のA面分の楽曲をレコーディングした。それからB面の「Bobby Jean」や「My Hometown」などに取り掛かった。だから『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』のほとんど全ての楽曲は、この時期にできたと言える。特にA面の曲に関しては、『ネブラスカ』の収録曲と同じようなやり方で作った。それぞれに登場人物がいて、ストーリーがある。ただ『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』の方は、ロック・バンド仕立てだけどな。
―『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』の収録曲は、いわゆる自然発生的で、あまり手間を掛けないアプローチでレコーディングされたように思えます。ドラムのマックス・ワインバーグは、タイトル・トラックの「Born in the U.S.A.」が2テイクで完成したと証言しています。それから、あなたが合図するまでバンドはノンストップで演奏を続けたと言います。
BS:その通りだ。全ての曲をライブ・レコーディングした。『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』のほとんどの曲は、5テイク以内で仕上げた。「Darlington County」も「Working on the Highway」もそうだし、「Down-bound Train」「Im on Fire」「Bobby Jean」「My Hometown」「Glory Days」も、ほとんどがライブだった。今の俺たちのレコーディング・スタイルは、つまらない単調作業から脱却した。バンドの結束も固く、5、6テイクで1曲完成するようになっている。オーバーダビングを駆使して仕上げたアルバムは『明日なき暴走』ぐらいだな。『明日なき暴走』では、1曲を除き作った曲全てをレコーディングした。『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』向けには、15曲ぐらいレコーディングした。レコーディング作業よりも、曲作りの方に時間を掛けた。曲を書いて「アルバム全体としてストーリーが語られている」と満足できるまで、練り直した。レコーディングしたものの、リリースしていない曲もたくさんある。
「80年代らしさ」とも寄り添う姿勢
―あなたの未発表作品にこそ最高傑作が埋もれている、と主張するブートレッグ盤のバイヤーもいます。自分の未発表作品がブートレッグ盤として盛んに取引されている状況を、どう思いますか。
BS:自分の書いた曲が盗まれて意図せぬ形で発表されたり、品質の悪いものを高い値段で取引されるのを、望ましいと思う奴なんていないだろう。俺自身はブートレッグ盤を1枚も持っていない。いつの日か、これまでアルバムに収録しきれなかった作品をまとめて、アルバムとして出したいと思っている。リリースするのに十分なレベルの素材は揃っている。きっといつの日か出すよ。
―「Dancing in the Dark」と「Cover Me」というヒット曲をプロデューサーのアーサー・ベイカーに託して、ダンスミックス・シングルとしてリリースしました。微妙な反応を示す一部のファンもいました。ダンスミックスを作ろうと思ったきっかけは何だったでしょうか。
BS:シンディ・ローパーの「Girls Just Want to Have Fun」のダンスミックス・バージョンをラジオで聴いて、びっくりしたんだ。面白そうだったから、アーサーに連絡を取ってみた。彼は個性的で、すごくいい奴だ。彼にはもう一人のビジネス・パートナーがいて、本当に愉快な奴らだった。彼らはミキシング・コンソールを操作しながら、曲を楽しい感じにミックスしていくんだ。
―ミキシング作業には関わりましたか?
BS:ほとんど口を出さず、全てアーサー・ベイカーにお任せだった。彼は真のアーティストだ。彼に曲を託して、彼なりのレシピで料理されていくのを見るのが楽しかった。以前は、自分の音楽を大切に扱ってきたから、後から曲をアレンジすることなどあり得なかった。でも今は、自分の作品がそれほど脆いものではないと感じている。
「Dancing in the Dark」アーサー・ベイカーのリミックス
―最近では、ミュージック・ビデオも作り始めました。映像作品について、どうお考えですか。
BS:映像はひとつの効果的な手段だと思う。以前から手掛けてみたいと思っていた。しかし同時に、さまざまな問題も抱えている。曲のイメージを映像化することで、ファンの想像力を損ないたくなかった。曲に込めたストーリーとは「別の」ストーリーを、ミュージック・ビデオ上で展開したくないんだ。
―「Dancing in the Dark」のビデオには映画監督のブライアン・デ・パルマを起用して、口パクのコンサート・シーンをフィーチャーしています。あのビデオを制作した経緯を教えてください。
BS:ブライアンは素晴らしい仕事をしてくれた。俺たちはツアーに出る準備に忙しくて、本当に時間が無かった。彼は急な依頼に応えて、俺の負担を軽くしてくれたのさ。撮影は、3時間か4時間くらいで終えた。口パクは簡単だけど、やる価値があるかは疑問だ。それでもあのビデオの効果は絶大で、それまで俺の曲を聴いたことのない人々からも評判が良かった。特に若い世代には受けたようだ。ある時ビーチにいたら、たぶん7歳か8歳ぐらいのマイクという少年がやって来て、「MTVであんたを観て、振付を覚えたよ」と言うんだ。「やってみろよ」と言うと、「Dancing in the Dark」の振付で踊りだした。それが結構上手かったのさ。
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ブルース・スプリングスティーンが語る「アメリカン・ドリーム」の定義、エルヴィス、マイケル、プリンスへの想い
From Rolling Stone US.
ブルース・スプリングスティーン
『ボーン・イン・ザ・U.S.A.(40周年記念ジャパン・エディション)』
2024年9月25日発売 完全生産限定盤
再生・購入:https://sonymusicjapan.lnk.to/BITUSA40JapanAW
特設サイト:https://www.110107.com/bruce_USA40
担当ディレクターのインタビュー:https://note.com/smjintermusic/n/nf5e034f02fb3
『THE DIG Presents ブルース・スプリングスティーン』
2024年9月26日発売
五十嵐正・著
A5判 240ページ
詳細:https://www.shinko-music.co.jp/item/pid1655362/
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