K-POP第1世代、g.o.dが語る結成秘話「韓国の音楽とアメリカの音楽を融合させたかった」
Rolling Stone Japan / 2024年10月20日 9時0分
1999年にデビューした男性5人組のK-POPアイドルグループg.o.d(Groove Over Doseの略)は活動開始から25年を迎えた。韓国アイドル第1世代の国民的グループとして、90年代後半からから2000年代初頭のg.o.dの成功がなければ、今日のK-POPシーンは大きく変わっていたかもしれない。K-POPの先駆者であるg.o.dに音楽業界での長い道のりと「運命」について語ってもらった。
【写真】2024年夏にKCON LAでパフォーマンスを披露するg.o.d
6月に開催された世界最大の韓国ポップカルチャーフェスティバル「KCON LA」に出演したg.o.d。同フェスの開催前、KCON USAの公式Instagramアカウントが、ピリオドなしでグループ名を投稿すると、いくつかのコメントや宗教的なジョークが見られた。中には「12人の使徒も連れてくるの?」や「KCONで携挙(プロテスタントにおけるキリスト教終末論で起こる出来事)が起こる」といったコメントが投稿された。
長年K-POPを愛し、g.o.dという生きる伝説のことを聞き続けてきたファンにとっては、それくらい大事なのだ。1999年にデビューしたg.o.dは、2000年代初頭にかけて成功した、韓国の人気アーティストのうちの一組である。メンバーは、Joon Park(パク・ジュンヒョン)、Danny Ahn(デニー・アン)、Son Ho-young(ソン・ホヨン)、Kim Tae-woo(キム・テウ)、Yoon Kye-sang(ユン・ゲサン)の5人からなる。
当時、他のK-POPグループはバブルガムポップやEDM、ロックを取り入れた楽曲を披露していた一方で、g.o.dはR&B、ラップ、ヒップホップ、ファンク、そして韓国のバラードをユニークに融合し、音楽に韓国的な感性を注ぎ込んでいた。さらに、当時すでにK-POPの音楽シーンに英語の歌詞が入り始めていた中で、g.o.dはほとんどの楽曲を韓国語でラップ、または歌い、彼らの現実的でストーリー性のある歌詞で知られるようになった。
g.o.dの3枚目と4枚目のアルバムはそれぞれ100万枚以上を売り上げ、4枚目のアルバムは2001年11月のリリースからわずか1カ月で140万枚以上を売り上げる快挙を成し遂げた(その後、2017年にBTSがアルバム『Love Yourself: Her』を13日間で120万枚以上売り上げるまで、g.o.dの売り上げ記録を上回るK-POPアイドルグループは存在しなかった。)。g.o.dは2001年の主要な音楽賞を総なめし、ゴールデンディスク賞やMnet Music Video Festival(現在のMAMA賞)、韓国の主要3大放送局(KBS、MBC、SBS)からは大賞を受賞した。また、2002年から2003年にかけて韓国で100回以上のコンサートを行い、全席完売を記録した。
g.o.dはK-POPグループとして初のリアリティ番組「g.o.dのベビーシッティングダイアリー」に出演。メンバーは生後11カ月の乳児の世話をするという内容だった。g.o.dのその親しみやすい態度と雰囲気、心に響く歌詞、パワフルなボーカルから、当時「国民的グループ」というニックネームが付けられていたg.o.dにとって、ぴったりな冠番組となった。
g.o.dの成功がなければ、今日の多くの人気K-popグループは存在していなかったかもしれない。実際に、ATEEZ、TWICE、IU、ITZY、LE SSSERAFIM, NCT DREAM、NMIXX, クォン・ウンビなど、数多くのK-POPアイドルがg.o.dをロールモデルやインスピレーションとして挙げている。
今年のKCON LAのM COUNTDOWNでのパフォーマンス直前、g.o.dに話を聞く機会を得た。イメージ通り、g.o.dは謙虚で率直なグループであり、音楽業界での25年間の経験に裏打ちされたカリスマ性を放っていた。
「私たちは本当にフィルターがないんです」と、グループの創設者兼リーダーのパク・ジュンヒョンは言う。米カリフォルニア州でサーフィンやスケートボードを楽しみ育った、活発でエネルギッシュな韓国系アメリカ人のパク・ジュンヒョンは、1990年代後半に自身の姉が持っていた写真を見た韓国の音楽関係者の目に留まり、オーディションに招待された。「音楽関係者は、私ともう一人の男性で、ダリル・ホール&ジョン・オーツのようなデュオを作りたがっていました。でも『いや、デュオはやりたくない。ニュー・エディションやイン・シンクのようなボーイズグループを作りたいです』と伝えました」とパク・ジュンヒョンは語る。
そこで、パク・ジュンヒョンは従兄弟のデニー・アンをスカウトし、デニーからは友人のソン・ホヨンを紹介された。「そのあと、ゲサンがグループに入ってきて、最後にテウが加わって、g.o.dを結成しました」とパク・ジュンヒョンは言う。
「運命だよね!」キム・テウが笑いながら付け加えた。
次に難しかったことは、グループ名を決めることだったという。「グループ名は『god』にしようと言ったのですが、この場合神様を直接的に意味しているわけではないから大文字は避けようと考えました。特定の宗教を指していたわけではなくて、”私たちの心の中に神様がいる”という意味でgodにしようと思っていました」とパク・ジュンヒョンは語った。
しかし、名前の決定にはもう一つ小さな問題があった。「韓国では『god』とうまく発音できないんです」とパクは言う。「みんな『gaht』や『goht』など発音したり、誤って読むと『joht』(韓国語の俗語でペニスを意味する)になったり……ちょっと変ですよね?」。そこで、グループ名は「g.o.d」を略語にした。パクは「メンバーはグルーブやファンキーな音楽が好きなので、名前を『Groove Over Dose』にして、頭文字をとって『g.o.d』にしました。でも、本当の名前はピリオドなしで『god』です」と語った。
”K-POP”が始まったばかりの頃、g.o.dはグループ名を考える際に、国内での活動だけを念頭に置いていた。「私たちは韓国だけで活動していました。韓国人にとって『god』という言葉は、外国人にとってのような大きなインパクトはないので」とアンは説明する。「今ではK-POPが世界的に人気だから、海外にも行けるようになりましたが、当時はこんなことが起こるなんて考えてもいませんでした。海外の人が『g.o.d』というグループ名を見たらものすごく驚くに違いないですね」
今日、多くの専門家が、K-POPの世界的な人気の理由として、アジアの音楽と洋楽が自然に融合していることを挙げているが、最初からうまく行っていたわけではない。g.o.dのような先駆者が韓国の音楽業界の水準を引き上げたと言えるだろう。「当時、韓国のアーティストがヒップホップやポップミュージックをやっているのを見ましたが、他の曲をただ真似しているように見えました」とパクは言う。
「完璧な仲間」との出会い
「私は他の人の真似はしたくなかった。韓国の音楽とアメリカの音楽を融合させて、そのギャップを埋めたかったんです。その感覚を持ちながら、前向きなメッセージを伝える。そう簡単にはできないと思いましたが、これが本当に自分がやりたかったことだし、できると思いました。そして完璧な仲間に出会いました」
その”完璧な仲間”とは、K-POPの大物プロデューサーであり、芸能事務所JYPエンターテインメントの創設者であるJ.Y. Park(パク・ジニョン、通称JYP)と、BTSの所属するHYBEの創設者兼会長のBang Si-hyuk(パン・シヒョク)だった。
どちらも90年代後半から2000年代初頭にかけて、g.o.dの楽曲制作に携わり、JYPはg.o.dの初プロデュースを手掛け、パン・シヒョクはg.o.dに楽曲提供をすることで、プロデューサーとしての名声を築いた。ヒットメーカーとして有名になったパン・シヒョクは、”ヒットマン・パン”というニックネームが付けられた。
彼らがプロデュースした楽曲「To My Mother」「Lies」「One Candle」「Road」「Friday Night」「Sky Blue Balloon」などは、今やK-POPのクラシックとして知られている。「Sky Blue Balloon」はg.o.dからファンへの賛歌であり、グループの公式カラーであるスカイブルーにちなんだ楽曲である。
g.o.dの成功の鍵の一つは、恋愛や人生、喪失感といった人々の体験をテーマにした、シンプルかつ深みのある歌詞にある。例えば、デビュー曲「To My Mother」は、母親が愛と犠牲を自分のために払ってくれたことに気付かず、感謝しなかったことを後悔する息子の物語を描いている。この曲は韓国のラジオでも最もリクエストされ、家出をした10代の若者がこの曲を聞き泣きながら家に戻ったというエピソードもある。
2001年のリリース後、韓国の音楽チャートでトップを飾り、数多く賞を受賞した楽曲「Road」は、人生の夢や目標、選んだ道、そしてその先で直面する不安について問いかけている。
今後、英語の歌詞をより多く取り入れる可能性があるかどうかを尋ねると、パク・ジュンヒョンはこう答えた。「音楽は、歌詞を聞かなくても心を動かすものです。何か響くものがあれば、英語の歌詞を入れることもあると思いますが、基本的には韓国語の歌詞を使っています」
続けてパク・ジュンヒョンは、「最近、たくさんの世界中のK-POPファンが韓国語を学んでいてとても素敵だと思います。みなさんは韓国語の歌詞を解読するのを楽しんでいるようで、実際に多くの人から『韓国語を少し勉強してからg.o.dの曲を聞き直したら、歌詞にとても感動した』というDMがたくさん届きました」と語った。
また、デニー・アンは「To My Mother」を聞いて涙を流す海外YouTuberのリアクション動画を見たことがあると話した。「『To My Mother』は母親に関する曲なので、韓国人だけでなく世界中の人が歌詞を理解したときに同じ感情を抱くと思います」。続けて、「ジュンヒョンが言ったように、多くの人々が韓国語を学んでいる今、私たちの曲が韓国語学習の助けになるなら、もっと素晴らしいことではないでしょうか?」と笑顔で付け加えた。
g.o.dは、K-POP(K-R&BやK-HIPHOPを含む)が始まった当時に結成され、圧倒的な影響力を持つグループであり、g.o.dの音楽を知らない新たな海外のK-POPファンに説明するのは難しいだろう。しかし、キム・テウは以下のように語った。
「私たちは第一世代のK-POPグループなので、K-POPアイドル文化が形作られ始めた頃に登場しました。当時、K-POP業界は世界を見通しておらず、韓国国内で活発に活動していました。私たちg.o.dはアメリカからR&Bやヒップホップを取り入れて、それを韓国のスタイルで解釈しました。おそらく、これが今グローバルなファンの皆さんが私たちの曲を聞いても違和感なく楽しんでもらえる理由の一つだと思います」
活動休止→再結成の理由
2004年に、メンバーのユン・ゲサンがグループを脱退した。脱退理由は、芸能界を引退したかったためだと明かしている。しかし、その後俳優として数々の韓国映画やテレビシリーズに出演し、Netflixのヒット作『The Frog』にも登場した。ユン・ゲサンの脱退後、g.o.dは2005年頃に無期限の活動休止に入ったが、2014年にオリジナルメンバーの5人でグループを再結成し、韓国のメディアや世間から大注目された。なぜ最終的にグループ再結成に至ったのか尋ねると、キム・テウは”運命”だと言う。この言葉はインタビュー中にメンバーから何度も発せられた。
「自然にそうなったのだと思います」とキムは語る。「g.o.dとして長く活動する中で、メンバーはそれぞれやりたいこともあり、別々の道に進む時期が来ていました。それでも、いつか再結成するかもしれないというアイデアを軽く話していましたが、メンバーそれぞれが当時他の活動に集中していたため、再結成の話は後回しになっていました。最終的に再結成する条件が整ったのが2014年だったんです」
「私が思うに、g.o.dがこんなに長くグループとして活動を続けることができた一番の理由は、メンバー同士で何も強制しなかったことだと思います」とキムは続ける。「絶対に再結成が必要だとは誰も言わなかったです。ファンが望んでいたことであり、私たち自身もステージで一緒にパフォーマンスをするのが楽しいからこそ、これほど長い間音楽を届けてこられたのだと思います」「つまり、一言で言えば”運命”です」と最後に付け加えた。
2014年のカムバックアルバム『Chapter 8』は、リリース後すぐに韓国のチャートで首位に立ち、その年のメロンミュージックアワードで年間アルバム賞を受賞した。アルバムの収録曲「The Lone Duckling」「Sky Blue Promise」「The Story of Our Lives」の3曲はすべて韓国内の複数の音楽チャートで1位を獲得し、「The Lone Duckling」はBillboard K-POP Hot 100でも1位を記録した。g.o.dは15周年記念ツアーを行った後、アメリカに進出し、ロサンゼルスのステイプルズ・センター(現在のクリプト・ドットコム・アリーナ)やニュージャージー州のプルデンシャル・センターで公演を行った。
90年代に結成された第一世代のK-POPグループが、8年の活動休止を経ても韓国で人気という事実は驚くべきことである。しかし、K-POPが絶えず進化し続ける中で、g.o.dのサウンドはほとんど変わっていない。非常にオールドスクールな雰囲気がある一方で、普遍的で時代を超えた魅力を持った音楽である。
パク・ジュンヒョンはグループが流行を追わない理由を説明した。「私たちはスタイルを変えないですし、g.o.dの音楽には特にトレンドはありません。私たちが歌で伝える物語は誰もが共感できるものです。母と息子や娘の関係にトレンドはないし、『Road』で伝えているように、道にもトレンドはありません。誰もがそれぞれの道を歩むからです。だからg.o.dの音楽が長く愛されているんだと思います」
アンは「本当に誰もがg.o.dの歌詞に共感できると思います。曲中のストーリーと似た経験をしているし、何よりメロディが歌いやすいからです」と語る。「そして、韓国人がg.o.dを見ると多くの人が故郷を思い出すのはないでしょうか。私たちの曲にはどこかノスタルジックな雰囲気があるので、今でも多くの愛を受けているのだと思います」
g.o.dにとって、今年の「KCON LA」出演はまさに巡り合いだったという。「正直私たちは海外であまり活動してこなかったので、g.o.dとしてKCONに参加するのは初めてです。KCON LAで直接K-POPブームを目の当たりにできてとても嬉しいです」とアンは語る。
「私たちの後にK-POPを引き継いできてくれたK-POPアーティストたちに本当に感謝しています。K-POPがこんなにも人気になるとは想像していませんでしたが、今この瞬間を目にすることができ、ととても励みになります」 とキムは言う。「私たちは25年間、ただ同じことをしてきただけですが、今では世界中の多くの人々がK-POPに夢中なので、g.o.dも注目してもらえている時期なのだと思います」
g.o.dがKCON LAのメインコンサートでステージに立つと、観客の大半は海外の若い年代が占め、最初は比較的静かだった。しかし、曲を披露するたびに観客の反応はどんどん熱くなり、メンバーの歌唱力やパフォーマンスに魅了されていた。コンサートの途中には、アリーナ内のほぼ全員が立ち上がり、音に乗り、拍手し、完成を上げ、音楽に合わせてスマートフォンのライトを振った。その瞬間、多くの人がg.o.dの魅力に完全に引き込まれていた。
コンサートの前、g.o.dのメンバーに、今後グループとしてどれくらいの期間活動を続ける予定か尋ねた。
現在55歳のパク・ジュンヒョンはこう答えた。「その答えは私たちではなく、ファンに委ねられています。私たちが100歳まで続けたいと思っても、誰もコンサートに来てくれなかったら意味がありません。ファンが望む限り、私たちは活動を続けていきます」
キムは「今後も自然の流れに任せるつもりです」と付け加えた。
パク・ジュンヒョンも同意する。「そうですね、運命に任せます」
Photo by GEMSTONE E&M*
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