アレックス・ヴァン・ヘイレンが語る、最愛の弟エディ・ヴァン・ヘイレン
Rolling Stone Japan / 2024年10月27日 10時45分
死別さえも2人の絆を断ち切ることはできない。弟の死以来初めて、ヴァン・ヘイレンのドラマーが思いのすべてを語った。
追悼エディ・ヴァン・ヘイレン 伝説的ギタリストの勇姿(写真ギャラリー)
弟がこの世を去った後、アレックス・ヴァン・ヘイレンは崩壊した。それが誇張でないことは、彼の携帯電話を見ればわかる。この電話には未完成で未発表のヴァン・ヘイレンの曲が保存されており、彼と1日共に過ごせば、そのうちのいくつかを聴かせてくれるかもしれない。しかし、彼がまず画面をスクロールして見せてくれたのは、脊椎のMRI画像だ。そこには大きな穴が開いており、文字通り彼の一部が失われてしまっている。
2020年10月にエディ・ヴァン・ヘイレンが65歳で亡くなった時、世界は60年代以降最大のギターヒーローを失ったが、アレックスの人生から消えてしまったのは、天才的だが気難しく、痛ましいほどに繊細だった弟だ。彼にとってエディはかけがえのない友であり、50年に及ぶバンド活動のパートナーであり、毎日のようにジャムセッションをしていた「愛すべきやつ」だった。アレックスは生涯を通してエディを守り続けてきたが、もはやその必要もなくなってしまった。やっつけるべきいじめっ子もいなければ、クビにすべきリードシンガーもいない。彼は「底なしの悲しみ」に暮れ、地獄のような苦しみのせいで心的外傷後ストレス障害と診断された。「自暴自棄になっていた」と彼は語る。「ただ叫び、わめき続けていた。本来の自分はどこにもいなかった」
あれから4年が経った今も、喪失感は少しも薄れていない。「和らぐどころじゃない」と、7月中旬の金曜日のある午後にアレックスは語った。彼は今、カリフォルニア州ベンチュラ郡の田舎にある別荘の日当たりの良いリビングルームで、ディレクターチェアに身を預けている。そこではレモンを栽培しているほか、サー・ハインリヒVHをはじめとする約20頭の馬を飼育している。この場所はやや見つけにくいため、彼が大通りまで筆者を迎えにきてくれた。レーシングストライプと「VH」のロゴが片側に入ったスーパーカー、黒のポルシェ911 GT2 RSを運転する彼は笑顔を浮かべている。その車以外に71歳の彼がロックスターであることを思い出させてくれるのは、片方の耳に見られる金のスタッドと、左手首にはめた黒いビーズのブレスレットだけだ。短く刈り込んだ髪はシンプルな黒いベースボールキャップの下に収まり、真新しそうな黒いTシャツは帽子とマッチしている。彼の緑がかった青い瞳は澄んで輝いていた。
アレックスはまもなく本を出版する。率直でユーモアに満ちた回顧録『Brothers』は、エディと過ごした幼少期から、結成メンバーによるヴァン・ヘイレンの第1期が終わるまでの日々を振り返る。彼は気持ちに折り合いをつけるためにこのプロジェクトに取り組んだが、まだ区切りがついたとは感じていない。だが今日、エディの死後初めてのインタビューでより多くのことを明かすことで、先に進むきっかけをつかめるかもしれない。「あいつが恋しいよ」と彼は言う。「ケンカした時のことさえもね。毎日のように思い出すんだ。でもあいつは戻ってこないし、いつも何かが欠けていると感じてる」
ここ数年、アレックスは脊椎の怪我のためにドラムから遠ざかっていたが、最近になって再び練習用パッドを叩けるようになった。そして何より、まともに歩くことができなかった状態から回復し、少しふらつくものの、足を引きずりながら歩けるようになった。数々のマルチプラチナレコードと満員のアリーナツアーのおかげで、彼はかなりの財産を蓄えていただけでなく、ガンと闘った弟に寄り添うなかで、最先端の治療法を追求する医師たちと顔見知りになっていた。そのうちの1人が実践していた実験的な幹細胞治療は、彼に奇跡的な結果をもたらした。「半年前の俺を見ていたら、『これはダメかもな』って思ったはずさ」と彼は言う。彼のもうひとつの計画はさらに先進的だ。「国防の研究部門、DARPAを知ってるかい? あそこではロボット技術、エクソスケルトンなんかの研究をしてるんだ。最悪の事態に備えて、そういう選択肢について考えていたんだよ。いざとなったら飛びつくつもりさ」。アイアンマンみたいなものかと問うと、彼はニヤリと笑う。「当たりだ」
子供の頃のアレックスとエディー(COURTESY OF ALEX VAN HALEN)
デイヴィッド・リー・ロスとの衝突
前兆はあったものの、アレックスの脊椎がついに限界を迎えたのは、2022年に友人たちと射撃場に行ったときだ。「ライフルを撃った瞬間に、背中に激痛が走った」とアレックスは言う。「それから1年、床に伏せたままだった。ただ宙を見つめるだけの日々で、天井が親友になった」。依存症の治療も並行していた彼は鎮痛剤のオピオイドの使用を避けたため、耐え難い苦痛を伴った。その痛みは今でも残っているという。「痛みを感じるのはいいことなんだよ」と彼は言う。「天井を見つめていると、哲学的なことを考えがちだ。『人生とは苦しみなり』っていうだろ。欲しいものが手に入らなければ苦しむ。たとえ何よりも欲しいものが手に入っても、それを永遠には維持できないから、やっぱり苦しむんだ。心は変化や痛みから逃れたいと願う。でも変化こそがこの世界の法則であって、どんなに偽ってもその事実を変えることはできないんだ」
その哲学的な発言からは、アレックスがかつてヴァン・ヘイレンのドラマーとして、ステージ上で燃え盛るドラを火のついた槌で叩いていたとは思えない。彼はとあるバーのアルコール検知器で、4.5という数値を叩き出したこともある(「4.0で死に至るって書いてあった」と彼は言う。「誇りに思ってるよ。冗談抜きでね」)。ましてや、40年前の泥酔状態で行ったインタビューのイメージが定着しているなら言わずもがなだ。彼は1984年に、本誌記者を前にこう発言している。「もっとチンコがあればいいんだけどな」。
アレックスは弟のエディとは違い、思春期に入って反抗的になるまでは優等生だった(ジュニアの成績を見たか?- 注:「And the Cradle Will Rock…」の歌詞の一部)。彼は若いうちから仏教や他の教えに強い関心を示していたが、その一方で「起きた瞬間から寝るまで」酒を飲んでいた。初めての飲酒は6歳のときで、父親から勧められたという。
アレックスが初めて禁酒したのは、1986年に父親のヤン・ヴァン・ヘイレンが亡くなった直後のことだ。息子たちと同じく才能ある音楽家だった彼は、アルコール依存症でもあった。エディも同じ頃に初めて酒を断とうとしたが、あっという間に挫折している。兄弟はその後もアルコールへの依存に苦しみ続けたが、エディとは異なり、アレックスは21世紀に入ってからはずっと禁酒を続けている。彼は24年間連れ添っている妻のスタインとともに、平穏な暮らしを送るようになった。アーティストのスタインは馬術家でもあり、納屋にいる馬たちは彼女のものだ。「俺には常識的な一面がある」とアレックスは話す。「自分をダメにするとわかっているなら手を出すべきじゃないって理解できる。でも、常識はエディの得意分野ではなかった」
ギタリストの死を乗り越えて、ヴァン・ヘイレンはバンドとして存続するはずだった。エディの死後、アレックスがドラムを叩き、フロントマンのデイヴィッド・リー・ロスとともにツアーに出るという噂が流れたが、それは事実だった。射撃場での事件の少し前に、アレックスとロス、そして「間に合わせ」としてのロスのバックバンドのメンバー2人という編成で、バンドはリハーサルを始めたところだった。最終的には、ギターにジョー・サトリアーニを迎え、さらには2004年に脱退したヴァン・ヘイレンの結成メンバーでベーシスト、マイケル・アンソニー(当時ティーンエイジャーだったエディの息子、ウルフギャング・ヴァン・ヘイレンの加入と同時にバンドを追われていた)も復帰させるという計画があった。しかし、そのリハーサルの開始からほどなくして、アレックスは手足のしびれや末梢神経障害、特に足の感覚の喪失を経験するようになった。彼はそれが「天からの啓示」であり、そのツアーを行うべきではないという警告ではないかと考えた。
結局、その計画はアレックスが背骨を損傷する前に頓挫した。彼はクイーンのブライアン・メイに何度か電話をかけ、フレディ・マーキュリーなしでバンドを続けていくことについて話を聞いたことで、今後の方向性のヒントを得たという。「あれが決定打だった。今だから正直に言えるけどね」とアレックスは語る。「俺はデイヴにこう言ったんだ。 『遅かれ早かれ、頭を下げるわけじゃないけど、俺たちはエディという存在をはっきりと認める必要がある。クイーンが(フレディの)古い映像を使っているように』。 そして、俺がエディを讃えるべきだと言った瞬間、デイヴは烈火の如く怒った。口にするのがためらわれるくらいの暴言を吐いてたよ」
アレックスの話では、どういう理由なのかは未だに理解できないが、ロスはエディへの追悼を拒否し、その提案に著しく気を害していたという。アレックスは彼の反応を不快に感じた。「俺はストリート育ちだ」と彼は言う。「『もう一度そんな口の聞き方をしてみろ、てめぇの頭をかち割ってやるぞ。分かったか?』。本気でそう言ってやった。それで話は終わりさ」。 アレックスは今でも困惑している。「まったく、彼のことがまるで理解できなくなったよ。彼の仕事に対する姿勢には最大限の敬意を払っているけど、これがチームワークなんだってことが彼にはわからないんだよ。もう自分の意見だけを押し通すことはできないってのに」(ロスはコメントを拒否している)
エディの「音楽的不貞」をめぐる口論
アレックスはツアーの計画が破綻したことをさほど悔やんでいない。そもそも、彼の身体はツアーに出られる状態ではなかった。「残念に思う気持ちもあるけど、納得してもいる」と彼は言う。「今思えば、古い曲を演奏することは必ずしも誰かを追悼するってことじゃない。ただのジュークボックスみたいなものだよ、俺に言わせればね……。エディの代わりなんているわけないだろ? 以前と同じようにはいかないんだ」。ヴァン・ヘイレンの2代目シンガー、サミー・ヘイガーは最近、サトリアーニとアンソニーと共にツアーを行い、バンドの古い曲を演奏している。アレックスはヘイガーの名前すら口にしない。「バンドの心と魂、クリエイティヴィティとマジックは、デイヴとエディ、マイク、そして俺だった」と彼は言う。冷淡ともいえるその態度は自著でも貫かれている。「長年活動するなかで、バンドは他にもいろんなシンガーと組んだ」と、彼はヴァン・ヘイガー時代をわずかに言及するだけに留めている。
実のところ、少なくとも候補になった人物を含めれば、バンドのシンガーは世間が知っている以上に存在する。バンドのフロントマンが不在だった2001年頃、アレックスとエディはオジー・オズボーンの妻でマネージャーであるシャロン・オズボーンと会い、オジーがボーカルを務めるヴァン・ヘイレンのアルバムを作る計画について話し合った。「犬を飼うのに、猫との暮らしを期待しないだろう」とアレックスは言う。「オジーを迎える以上、それはオジーなんだ。曲をプレイして、彼が歌えば、当然素晴らしいものになる」。 だが彼らが制作に入る直前に、オズボーンズ一家はMTVと接触し、結果として彼らのリアリティ番組が生まれた。オジー・オズボーンは本誌の取材に対し、メールでこのエピソードが事実であることを認めている。「確かに話し合っていた」と彼は回答している。「もし実現していたら、ものすごいことになっていただろう。エディとアレックスは長年の友人で、実現できなかったことを悔やんでいる。残念ながら、あの時は『オズボーンズ』が計画の妨げになってしまった」
また別の時期(アレックスも正確には覚えていない)には、ヴァン・ヘイレン兄弟はクリス・コーネルと一緒にジャムセッションを行った。ある時、エディがしばらく席を外し、アレックスはコーネルと二人でジャムを続けることになった。「クリスは極めて不安定な時期にあった」とアレックスは振り返る。「俺がドラムキットの前に座り、彼がベースを弾き始めた。45分間演奏し続けたんだけど、彼は夢中になり過ぎて血を流してた。『こいつこそ俺たちが求めている男だ』って思ったよ。でも彼は亡くなってしまった」
実のところ、アレックスはバンド内の誰よりもデイヴィッド・リー・ロスと仲が良かった。エディが亡くなった後、アレックスが最初に電話をかけたのはロスだった。リハーサルでの大喧嘩を経てなお、彼らは連絡を取り合っている。最近、ロスはアレックスの甥であるウルフギャングのことを「このクソガキ」と罵ったが、アレックスは真に受けていない。「あれはデイヴなりの敬意だと俺は受け止めてるよ」と彼は言う。「彼がウルフィーを、伝説的なデイヴ・リー・ロスと同列に見てるってことだからさ。それに、ウルフはかなりしっかりしてるからね。どうってことないよ」
ヴァン・ヘイレン、1978年撮影:(左から)マイケル・アンソニー、デイヴィッド・リー・ロス、エディー・ヴァン・ヘイレン、アレックス・ヴァン・ヘイレン (Photo by FIN COSTELLO/REDFERNS/GETTY IMAGES)
カリフォルニア州パサデナの裏庭パーティーからハリウッドのクラブ、そして80年代のポップカルチャーの中心へと上り詰めた、ロスがフロントマンを務めた初期ヴァン・ヘイレンの終焉は、アレックスにとって悲劇だった。「人生において最も失望させられ、最も無駄で不当に感じられた出来事だった」と彼は自著で述べている。「弟を失うまでは」
1982年にエディがマイケル・ジャクソンの「Beat It」のギターソロを弾くことに同意したことがバンドの崩壊の大きなきっかけだったことを、アレックスはよく理解している。それが引き金となり、ロスはソロ活動を追求するようになった。創造力には限りがあり、それはすべて自分たちのバンドに捧げるべきだと考えていたアレックスは、エディに思いとどまらせようとした。彼はむしろ、ジャクソンがヴァン・ヘイレンのアルバムに参加する方がいいとさえ思っていた。しかし、エディは考えを曲げず、持ち得るすべてのギターテクニックを駆使し、ヴァン・ヘイレンで弾いたどのフレーズよりも有名になるソロを提供した。その2年後、『Thriller』はヴァン・ヘイレンの『1984』がチャートの首位に立つのを阻んだ。
エディの「音楽的不貞」をめぐって、2人は長年にわたって口論することになったが、実のところ、アレックスの怒りは42年経った今でも収まっていない。「なんでマイケル・ジャクソンのために自分の才能を発揮しようとしたのか、まるで理解できない」と彼は言う。「おかしいことに、エディは『彼のことなんて誰も知らないよ』なんて言ってごまかそうとしたんだ。ミスを犯したって素直に認めろっての。バカなふりをして、傷口に塩を塗るような真似をしやがって」
「あいつに与えられた桁違いの才能は、同時に大きな呪いでもあった」
ある日、(時系列や詳細についての彼の記憶はしばしば曖昧だが、大目に見てほしい)エディがアレックスの家にやってきて、仕上げたばかりのサイドプロジェクトをキッチンテーブルに放り投げた。それはエディがどん底にあった2006年に手がけたポルノ映画のサウンドトラックかもしれないが、アレックスは詳しくは語ろうとしない。「妻の隣で座ってた俺は、それを見て『何だこのクソは?』って感じだった。当然だろ?」と彼は振り返る。「そしたらエディがこう言ったんだ。『俺だってやればできるんだぜ』」
アレックスは首を振る。「誰かに認めて欲しかっただけなんだと、俺が気づいてやるべきだったんだ」と彼は語る。「わかっていたら、『マジで最高だ』って言ってやれたはずだ。でも当時の俺は、『エディ、一体何を考えてるんだ? これ以上何が欲しいんだよ? お前はすでに……頂点を極めたのに……』って感じだった。あの時の俺にはまったく理解できなかったけど、今思い返すと泣きたくなるんだ」。彼は言葉を詰まらせ、しばらくの間沈黙が続いた。
アレックスはため息をつき、こう続けた。「あいつに与えられた桁違いの才能は、同時に大きな呪いでもあった。エディは超人的なプレイヤーだったけど、最終的にはそのせいで健康を損ない、命を落とすことになった」。世間はエディを「世界最高のギタリスト」ともてはやし、彼自身も心のどこかでそう信じていた。「お前はそれを真に受けてしまい、やがてその重圧に押しつぶされた」とアレックスは自著で述べている。(正当化されるべき)傲慢さに近い自信、自己不信、そして自己嫌悪(自分はその才能を享受するに値しないという認識)という厄介な組み合わせは、エディから演奏に対する自信を奪った。彼が薬物やアルコールを摂取したのは、主にそうした不安を和らげるためだった。それが弟の身体を蝕み、最終的にガンで命を落とすきっかけを作ったと、アレックスは確信している。
エディは自身の問題の一因が、トラウマ的だった子供時代にあると考えていた。母親は彼のことを「父親と同じで役立たず」(オランダ語では「nietsnut」)と叱りつけ、毎日何時間もピアノの練習を強制した。兄弟間ではよくあることだが、アレックスは同じ屋根の下で育ちながらも、まったく異なる体験をしていた。インドネシア系の母親に対する偏見から逃れるために、エディが7歳、アレックスが8歳のときに、一家はオランダからアメリカに移住した。当時2人が知っていた唯一の英語は、単語帳の最初のページに載っていた「accident」だった。彼らは外国人であり、アジア系の血を引いていたこともあって、移住当初は孤立しがちだった。「みんなとは違う存在として扱われることもある」とアレックスは話す。「でも、それが人生さ。エディはそれをとにかく気にしていた」
家庭においても、アレックスはトラウマを抱えることはなかった。彼自身の言葉によると、母親が父であるヤンの行動が気に入らないときに、「お父さんをノックアウトして」とアレックスに頼むなど、奇妙なことも間違いなくあった。「母は極端に厳格で、子供たちに与えるものについては一切妥協しなかった」とアレックスは話す。その厳格さが度を過ぎることもあり、母親がアレックスの親指を木のスプーンで叩き、爪が剥がれてしまったこともあった。「母はそういうやり方しか知らなかったんだ。彼女は有色人種で、一生の大半で差別を受けてきたから」と彼は言う。
ヴァン・ヘイレン一家、1962年にアメリカに向かう船上で撮影:(左から)アレックス、ヤン、ユージニア、エディ(COURTESY OF ALEX VAN HALEN)
兄弟のアルコール依存症は父親譲りであり、運命づけられていたも同然だった。父親であるヤン・ヴァン・ヘイレンからその遺伝子を受け継いだ2人は、酒の味も彼から教わった。しかし、2人はあまり父を責めようとはせず、むしろ音楽的なインスピレーションや知恵の源として称賛している。酔っぱらったオランダのヨーダというわけだ。アレックスは、父親が「より豊かでアーシーな音」を求めて、クラリネットのリードの改良に何時間も没頭する姿を見て育った。それは「ブラウンサウンド」と呼ばれるエディのギターのトーンや、アレックスのスネアのサウンドに影響を与えた。「口に含んだリードが彼の世界そのものだった」とアレックスは記している。ヤンはスターとは程遠い旅芸人のような音楽家だったが、自分の信念を息子たちに教え込もうとした。「自分のくだらない考えをあてにするな。ただ演奏しろ」と。しかし、それもエディにはあまり効果がなかったようだ。アレックスはゆっくりと手を叩きながらこう言った。「あいつは父の助言に耳を貸そうとしなかった」
アレックス自身も、独創性に満ちた名手だ。それは「Jump」のギターソロの背後に隠れた狂気じみたシンコペーションや、「Outta Love Again」の滑らかなシンバルワークを聴けば明らかだ。フー・ファイターズのドラマーであり、ロサンゼルスのゲーテッドコミュニティでの隣人でもあったテイラー・ホーキンスは、彼が亡くなる1年前の2021年に筆者が訪ねた際に、後者を通しで演奏してくれた。「これ、マジで難しいんだよ」と彼は話していた。「アレックス・ヴァン・ヘイレンはプロ中のプロだ。彼は過小評価されてる。ここではっきりさせておくけど、彼はもっと称賛されて然るべきだ」
アレックスは、自分が他のドラマーにとってのヒーローであるという事実を今も自覚していない。「そんな暇がなかったんだよ、エディとの仕事で手一杯さ」と彼は言う。「バディ・リッチはこう言ってた。『私は周囲の人間を引き立てるためにいるんだ』って。俺もそう思ってる」。いずれにせよ、ドラマーとして個人で得られる称賛には限界がある。「実際のところ、Rose Bowlを埋められるドラマーなんてほとんどいないだろ」
全身防護服という姿で弟のそばに座っていたアレックスは、本当のことを言わなかった
彼が携帯電話に入っているオーディオファイルを再生すると、誰も聞いたことがないエディ・ヴァン・ヘイレンのリフと、その背後でハイハットでリズムを刻むアレックスのドラムが、その小さなスピーカーから聞こえてくる。イントロのリズミカルなコード演奏は1978年のデビューアルバムに収録されていても不思議ではなく、一方でアルペジオを用いたヴァースの部分には、これまでのバンドのスタイルとは異なる新鮮さがある。「フレーズ間のあいつのプレイに注目してくれ」とアレックスは言う。「死んだ音は一つもない。気付いたかどうかわからないけど、あいつをいつもと違うリズムに反応させてみようとしたんだ」
今世紀のある時期に作られたその曲は「形にはならなかった」という。アレックスがこの曲をかけたのは、2人が生涯にわたって続けた終わりなきジャムセッションで何をしようとしていたのかを示すためだ。彼はまた、自身の回想録のオーディオブックに収録される予定の別の曲も聴かせてくれた。レッド・ツェッペリンの影響が感じられるこのインスト曲は、2012年のアルバム『A Different Kind of Truth』時の最後のスタジオセッションから生まれた未発表曲だ。他とは異なり、この曲はボーカルなしで完結しているように思える。
ヴァン・ヘイレンには無数の未発表曲があるが、完成しているものはかなり少なく、歌が入った曲はさらに少ない。「これは全部単なるパーツに過ぎない」と彼は話す。「フレーズがどれだけあっても、曲にはならないんだよ」。アレックスによると、何かしらの形でリリースすることを検討しているまとまった数の曲があるものの、発表までには数年かかる可能性があるという。彼はChatGPTを開発したOpenAIに連絡を取り、「エディが何かしら弾いた時の演奏パターン」の分析を通じて、新しいギターソロを生成する可能性について探っている。また、彼はこれらの楽曲の歌い手としてある人物を想定している。「理想的にはロバート・プラントだ」と彼は言うものの、元レッド・ツェッペリンのフロントマンと最後に話をしたのは1993年だという。「頭がおかしいと思われるかもな」とアレックスは付け加える。「でも条件が整えば、実現する可能性はあるんだ」
またアレックスは、ヴァン・ヘイレンの伝記映画の制作もゆっくりと進めており、今はプロデューサーを探しているところだ。「これはあくまで長期的な計画だ」と彼は言う。「参考までに言うと、クイーンの映画は制作に30年かかった」
エディ・ヴァン・ヘイレンが晩年、実験的なガン治療を受けるためにスイスに向かったとき、彼はマルチエフェクターのギターペダルを持っていった。「ただリラックスすればよかったのに」とアレックスは言う。「死の間際に、何があいつを駆り立てていたのかは分からない。自分の中にどうしても満たせない欲求があって、何かせずにはいられなかったんだろう。亡くなる直前まで、あいつは音楽を作っていた。正直なところ、どれもいい出来だとは言い難かったけれど、それは重要じゃない。何かを作ることに意味があったんだ」
エディの長期にわたる闘病生活を思い出すと、アレックスはまた涙を流してしまう。「あいつは最後まで闘い続けた。あいつのことを貶すやつは俺のナニをしゃぶれって感じだよ……。あいつがガンを克服するために何を経験しなければならなかったかを知っていたら、下手なことは言えないさ。あいつは一般的ではない風変わりな治療法を試して、結果的に体が毒されてしまった。そして、当たり前だけど、そんな状態で酒なんか飲むべきじゃなかったんだよ」
エディの死の数カ月前に顔を合わせた際に、アレックスは医者たちがエディに残された時間が少ないと予測していることを彼に伝えなかった。新型コロナウイルスが猛威を振るっていた当時、全身防護服という姿で弟のそばに座っていたアレックスは、本当のことを言わなかった。「実の弟に面と向かって、『お前は助からない』なんて言えるはずがないだろ?」とアレックスは言う。「最後まで望みを捨てずに、明日が来ると信じているように振る舞い、次のレコードについて考えたりする。鏡に映った自分に、『俺はあいつに嘘をついているのか?』って問いかけることもあった」
最終的に、ガンはエディの脳に転移し、彼は深刻な脳卒中を起こして亡くなった。少し前に、医者たちはガンマナイフで脳腫瘍を摘出し、腫れを抑える目的でエディにステロイドを処方していた。それを摂取すると、エディは「スーパーマンになったような気分」になれたとアレックスは話す。「2個が良いなら、20個はもっと良い。それが我が家の合言葉だった」。ある日、エディは瓶の中に入っていた薬をすべて飲んだ。それは自傷行為ではなく、快楽を味わうためだった。「瓶を見たわけじゃないけど、中にはたぶん1000錠ぐらい入っていたと思う」。そう話しながら、アレックスは笑わずにはいられなかった。それが弟の死を早めたのは確かだが、その行動は実にエディらしかった。
パンデミックの影響で、エディの葬儀や追悼イベントは一切行われなかった。「別れの儀式らしいことは何ひとつ行われなかった」とアレックスは言う。エディは火葬され、ウルフギャングが遺灰を引き取った。「ウルフは本当に素晴らしい仕事をしてくれた」とアレックスは語る。「若者には荷が重過ぎる役目だった」。父の存在をいつも近くに感じられるよう、ウルフギャングは今も父の遺灰の一部が入ったネックレスを身につけている。
アレックスにとって、エディはより近くにいる。彼はエディ・ヴァン・ヘイレンの亡霊が自分につきまとっていると信じているが、それをむしろ歓迎している。「何度かあいつに会ったよ」と、彼は筆者を真っ直ぐに見て話す。「本当に」。彼は今日もエディの存在、あるいは匂いを嗅ぎとった。「今朝もまさにそこにいたんだ」。アレックスは2人が「自分たちがここで果たすべきこと」を達成したと信じており、エディもようやくそう理解したと確信している。
「あいつなら大丈夫だよ」。現世でも来世でも、誰よりも身近な存在に今一度想いを馳せながら、アレックス・ヴァン・ヘイレンはそう話す。「どこにいようとも、あいつは大丈夫さ」
Additional reporting by Kory Grow
from Rolling Stone US
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