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MAZZELのSEITOが語る、ブレイクダンスへの衝動、絶望から救ってくれたSKY-HIの存在

Rolling Stone Japan / 2024年10月29日 17時15分

SEITO(MAZZEL)

BMSG所属の8人組グループ・MAZZELのソロインタビュー連載、第5弾。「Maze=迷路」、「Zeal=情熱」、「Mazel=幸福」の意味を持つ「MAZZEL」のメンバーは、それぞれがグループに加入するまで人生の「迷路」にいた。その中でなぜ「情熱」を絶やさずにいられたのか、そして今どんな「幸福」を感じているのかを、このソロインタビューで探っていく。今回はSEITOが登場。

【写真を見る】MAZZEL 1st One Man Tour 2024 ”Join us in the PARADE”

先月の『BMSG FES24』でも、今月の初アリーナ単独公演『MAZZEL 1st One Man Tour 2024 ”Join us in the PARADE” 追加公演』でも、MAZZELの進化に驚いた。グループの絆をさらに強固なものにし、8人それぞれの得意分野とキャラクターを引き立たせたパフォーマンスが、すべての楽曲を一層輝かせていた。そんな中でSEITOはMCで、「8人で、ここに来るまでいろんな想いを背負ってきた」と語っていた(10月2日公演にて)。それぞれが人生の「迷路」を歩んでいた中で、SEITO自身は何を経験し、どんな想いを背負っていたのか。BMSGのCEOでありMAZZELのプロデューサーであるSKY-HIとの長年の関係性についても聞かせてもらった。

―みなさんに幼少期から現在に至るまでの話を聞かせてもらっているのですが、SEITOさんはいつ頃からダンスをやられていましたか?

幼稚園か小1くらいから、ダンス自体は一応やってました。ダンスというか「お遊戯」みたいな感じだったんですけど、市が公民館でやってるようなところに通ってました。『仮面ライダー電王』で佐藤健さんのブレイクダンスを見て興味を持ったことがきっかけです。

―『仮面ライダー』を見て、佐藤健さんのブレイクダンスに「かっこいい!」ってなるのは、着眼点としてユニークですよね。

たしかに(笑)。すべてはそこから始まりました。

―市の教室では、ブレイキン以外もやっていたんですか?

そうですね。最初からブレイクをやりたかったんですけど、「頭で回りたいのにレッスンで全然回られへんな」と思ってたら……ずっとヒップホップをやっていて。

―(笑)。

そりゃ回らへんわ!って(笑)。小4くらいから、他のところで本格的にブレイクを習い始めました。

―そこから「BATTLE OF THE YEAR 2016 JAPAN U-15 BREAKING SOLO BATTLE」で優勝するくらい、なぜブレイクに熱中していたのだと思いますか?

小さい頃から音楽が好きやったし、人前に立つのが好きやったんで、その2つが大きいですかね。どちらかというとシャイで人前になったら何もできない、みたいな感じだったんですけど、ダンスだけは踊りたがるというか。小さいときは、ダンスになったら自分を表現できる感覚があったんだと思います。

―シャイボーイだったのに、ダンスだけは人前で堂々と「自分を見てくれ」と言える自信があったんですね。

ありましたね。なぜかわからないですけど、わりと始めたくらいからダンスだけは自信満々でした。

―当時、どんな音楽が好きでしたか?

初めて衝撃を受けたのは、Ne-Yoです。お母さんがNe-Yo、Backstreet Boysとか、R&B、洋楽を車でかけていて。あと、小さいときからお父さんとお母さんがカラオケとかが大好きだったのでよく連れて行かれていて、そこで昭和の曲を知るようになりました。


ダンスバトルに捧げた10代

―小4でブレイクダンスを始めて、15歳以下の大会で優勝するまでは、どんな日々でしたか?

初めてブレイクを習った師匠が世界でも有名なMORTAL COMBATというチームのKakuさんで、中学時代はMORTAL COMBATの下についてました。レッスン自体も「訓練って呼べ」みたいな(笑)。倒立を3分やらされたり。1日中ずっと、エグいくらいの練習を毎日してましたね。やばかったです、ほんまに(笑)。

―逃げだしたくなることはなかったんですか?

マジでなかったです。辞めたいと思ったことは1回もなかったくらい、楽しくてしょうがなくて。ダンスバカでした(笑)。飽き性なんですけど、ダンスだけは続けてました。なので学生時代は遊んでる記憶がほぼないです。本気でやると決めたときに、ゲーム機とかも「もう全部いらん」と思って捨てたんです。友達とも全然話が合わへんし、ダンスの友達としかしゃべることもなくて。だから青春の記憶が全然ないですね。

―学校では周りと価値観が合わなかった?

周りに大人の方もすごく多かったですし、あの歳頃では経験できないような人生を送っていたと思います。同い歳の子を「子どもやな」と思っていたとかではないんですけど、どうしても感覚や価値観が合わなくて。アメリカへ行って、バトルして帰ってきて、そのまま学校に行って、時差ボケのままテストを受けたりしていたんです。ダンスをやっているだけで「イキってる」みたいに言われることもありました。自分の中で勉強を疎かにしちゃいけないと思っていたので、どっちも頑張っていたんですけど、両立が大変でしたね。

―そんな大変な中で、日本一がとれたときは――。

めちゃくちゃ嬉しかったです。しかも全国優勝する前に、もともといたチームを辞めたんですよ。だからそのときは、どうにかして結果を残さないと、と思っていて。辞めたからにはちゃんと1人のダンサーとして認めてもらいたいという気持ちで挑んで、1週間後くらいのバトルで優勝したので嬉しかったです。

―かっこいい! この質問をRANさん、TAKUTOさんにもさせてもらったのですが……ダンサーとして特に思い出深い曲を1曲だけ挙げるとすると?

ずっとバトル前に聴いていたのは、LINKIN PARKの「Faint」。これを聴くと気持ちが燃えてました。MORTAL COMBATがよく使っていた曲でもあるんですけど、自分がソロでやるときもこの曲を使ったりしていて、思い出深いですね。



―Ne-Yo、Backstreet Boys、LINKIN PARKと、2000年代のUSの音楽に馴染み深いんですね。他は、どんな音楽に触れてました?

ジェームス・ブラウン、RHYMESTER、スヌープ・ドッグ、90年代のヒップホップ、あとアフリカの音楽とか、いわゆる「B-BOYビーツ」で踊ってましたね。洋楽以外でいうと、それこそずっとAAAを聴いてました。僕がダンスを始めるきっかけになった『仮面ライダー』の主題歌もAAAで、その曲(”Climax Jump”)がめちゃくちゃ好きやったんですけど、中学生のときに初めてAAAのドームライブを見に行ってドハマりしました。あの日は自分にとってデカかったです。人生で初めて観たアーティストのライブで、「アーティストってかっこいい」ってなって。初めてドームのお客さんの歓声を浴びて、衝撃的だったというか、もう言葉が出ないくらいだったんです。しかも踊りながら歌ってるのがかっこよくて。「音楽」を伝えるっていいな、アーティストっていいなって、そこでめちゃくちゃ思いました。でもダンスで頑張っていこうと決めていたので、自分の心の中の「もう1個の夢」というか、密かな夢みたいなものになってましたね。

―ダンサーとしてステージに立ったときに浴びる歓声と、AAAのライブでの歓声に、違いを感じたということですか?

そうですね、全然違いましたね。自分が経験してこなかった歓声をドームで感じました。オープニングのときの「キャー」とかを聞いて、自分もこんなことをやりたいなって。応援してくれる人たくさんいてるし、もう全部がキラキラしていて……めちゃくちゃ憧れてしまったんですよね。そのときから「絶対にSKY-HIさんといつか何かやる」って、なぜかわからないんですけど友達に言いまくってました(笑)。





「もう1個の夢」を叶えるまで

―それを叶えるまでのストーリーを追って聞くと……まず2018年、高校生のときに「男子高生ミスターコン」に出たことが人生の分岐点だったと言えますか?

人生の変わり目ではありましたね。でも今こうやって人から言われると恥ずかしいんですよ(笑)。別に自分の顔に自信もなかったですし、本当にシンプルに、ブレイキンが地上波やいろんな場所でもっと出たらいいなという想いで応募したんです。ブレイキンをもっと広めたくて、「ちょっとやってみようかな」みたいな感覚でした。人生の中で、直感で動くことが何回もあるんですけど、それも突発的に応募したら通って。そうしたらファイナルまでいって、ファンもついてくれるようになって……嬉しかったですね。

―「ミスターコン」で賞をとったことで、事務所への所属が決まったんですよね。

「ミスターコン」を受ける直前に、avexでダンスオーディションがあって――それこそ、そのときの振り入れの人はs**t kingzのkazukiさんだったんですけど――それを受けたりもしていました。だから、何かきっかけがほしいという気持ちはあったのだと思います。「ミスターコン」を受けたら審査にダンス&ボーカルがあって、ファイナルに残った人の中から何人か選ばれてグループを作ることになって、そこから事務所に入って、初めてダンス&ボーカルをやることになりました。

―「ミスターコン」にエントリーする時点では、合格者でダンス&ボーカルグループを結成する、ということが発表されてなかったということですか?

何も知らずに、最終審査のときに発表されて、「あ、ダンス&ボーカルやるんや」と思って(笑)。でもここで人生が変わると思ったから、めっちゃ頑張ってました。

―そこからグループで活動していた2年は、SEITOさんにとってどんな期間でしたか? きっと、そこで得られたことも、大変だったことも、色々あるんじゃないかなと思うのですが。

初めて芸能の仕事をやるようになって、恋愛リアリティ番組(「白雪とオオカミくんには騙されない」)に出たり、モデル業をやったり、色々マルチにやってました。もちろんやりがいも感じていたんですけど……ほぼアイドルだったので。別に顔を見にきてほしいわけではなかったし、もっと音楽を聴きにきてほしいなという気持ちがありました。「芸能界、そんなに甘くないな」ということも身をもって感じたというか。大勢いる中でチャンスを掴んでいくことは、めっちゃ難しいなとも思った期間でした。

―その期間に、日髙さん(SKY-HI)と会っているんですよね?

そうですね。「オオカミくん」に一緒に出ていたさなりがきっかけで日髙さんと初めて会って。そこで、ずっと自分が抱えていた悩みを初めて人に打ち明けることができました。

―日髙さんに、どんなことを話したんですか?

「お前の声は売れるわけない」とか否定されることもあったんです。でも日髙さんだけはずっと「あなたの声は素晴らしい」と肯定してくれました。「ミスターコン」がきっかけで高校2年生のときから親と離れて東京で一人暮らしをしていたので、ぽっかりと心に穴が開いていて、でもそれは全部日髙さんのおかげで埋まってました。毎日バイトもして、たまに日髙さんと会って、みたいな(笑)。自分の心の支えでしたね。

―日髙さんは、SEITOさんにどんな言葉をかけてくれていたんですか?

今もずっと言ってくれるのは、「BMSGを作るきっかけになった1人でもある」ということ。大人からそういった扱いをされることは日髙さん自身が過去に経験してきたことでもあるので、自分事のように考えてくれてましたし、そのタイミングから「事務所を作ろうと思ってるんだよね」「自分らしく、ありのままでいれる環境を作りたい」ということを聞いてました。しかも日髙さんのマンションにあったスピーカーとかマイクを全部プレゼントとして贈ってくれて。そこから自分で曲作りを始めることができました。

―優しい!

ほんまにいい人すぎて。そんな人に会ったことないから、逆に「大丈夫かな?」って疑ってました(笑)。

―いい人すぎて(笑)。それだけ日髙さんはSEITOさんのこと見守ってくれていたんですね。

めっちゃ見守ってくれてました。ご飯を食べられないときも社長の家で食べさせてくれたり、焼肉に連れていってくれたり。しかも焼肉に行ったら絶対に焼いてくれます。焼かせてくれないんです(笑)。

―SEITOさん自身、当時はどんなアーティストになりたいと思っていたのでしょう?

「音楽を届ける」ということがアーティストとして一番大事だと思うんです。シンプルにかっこいいと思われることをやりたかったし、自分の声ももっと活かしたいと思ってました。ずっと否定されていたので、めちゃくちゃ悔しかったんですよね。

―どこに希望があるかもわからないような「迷路」の中で、アーティストになる夢を諦めなかったのはどうしてでしたか?

それはマジで、日髙さんの存在が大きかったです。今もそうですけど、全部含めて、あの人の背中に憧れてる部分が多くて。もちろんアーティストとしても憧れてましたけど、人としても、「自分も絶対にこうなりたい」と思ってました。日髙さんのこれまでの夢も、これからの夢も、絶対に一緒に叶えたいなと思っています。

―BMSGと契約したのはいつ頃ですか?

「あいもかわらず」(ソロアーティスト・RGK名義)を出したときは、まだ契約はしてなくて「仮トレーニー」みたいな状態でした。日髙さんから電話がきて「まだグループをやりたいって思ってる?」と聞かれて、「もちろん思ってますし、そのために頑張ってます」みたいなことを話したら、「レッスンとか入れるから」と言ってくださって。そのあと、KAIRYU、RAN、僕の3人が揃ったときにトレーニーとして契約しました。


誰からも愛されるグループでいたい

―会社の利益とか、「なんとかしてあげたいから」という同情みたいな気持ちからではなく、一人ひとりの最善の人生を作るためにも才能やポテンシャルを見極めたうえで契約するか否かを選んでいると思うので、シビアな部分もあったと思うんです。MAZZELとしてデビューが決まった瞬間はどんな気持ちでしたか?

トレーニーになってからも焦りもすごかったし、BMSGに入る前の経験がきっかけでもともとはポジティブな人間やったのにネガティブになってしまっていたので、メンタルとの戦い、自分との戦いが大変で。でも最終審査までに、自分がやれるだけのことはやった自信があったからこそ、絶対に受かると信じてました。決まった瞬間は、いろんな過去を思い出して感動しましたね。親が心配していたので、すぐに連絡したいなっていうことを一番に思いました。電話したら、お母さん、めっちゃ泣いてました。……今思い出しても泣きそうになってしまう(笑)。

―周りから否定されて自分の輝き方がわからないまま「迷路」に入っていた先で出会えた「MAZZEL」という場所では、どんな自分を開花させられている実感がありますか?

まずメンバー同士が、すごくリスペクトし合っているということが大きくて。めちゃくちゃ褒め合いますし。そういうメンバーや日髙さんのおかげで自信を持てるようになりました。自分がどんな人間かわからなくなっていたので、「爆発力がある」とか、低音の声とか、日髙さんやメンバーから言われてやっと気づけたことがたくさんあります。

―それまでは、言ってしまえばブレイキンだけは自信あったけど、それ以外のダンスとか歌はもう……。

本当に自信がなかったです。トレーニーのときもまだ自信はなかったですし。

―これまでのMAZZELの楽曲の中で、自分が一番成長できたなと思う曲は?

一発目は「Fire」ですね。そこで自分がやってこなかった表現力に初めて気づくことができて、実際にそれを武器にできたのが「Parade」のフックでした。「Fire」を日髙さんと一緒にレコーディングして、そこで「こういうフックの曲を作りたい」って言ってくれて、できたのが「Parade」だったんです。





―「Fire」があったからこその「Parade」のあの強烈なフックだったんですね。BMSG所属前にはソロで楽曲を制作されていましたが、今、曲を制作したい気持ちもありますか?

めちゃくちゃあります。8月に行った合宿で日髙さん含めて全員で曲を作ったので、楽しみにしていてほしいです(取材は「Our Life Is Always Right」リリース前)。



―オンステージのパフォーマンスにおけるMAZZELの中での自分の役割は「爆発力」「低音」と話してくれたし、それに加えてブレイキンも大きいと思いますが、オフステージでの自分のチーム内での役割についてはどうですか? 前回NAOYAさんのインタビューでのSEITOさんの話は、読者のあいだでも盛り上がってました。

多分、メンバーの中で僕が一番、一人ひとりとプライベートでも会っていると思います。メンバーの中でも一番の理解者でいたいなと思っています。リーダーはたっくん(TAKUTO)がやってくれているので、僕は裏で支えられる存在でいたいです。みんな相談してきてくれたり甘えてきてたりするので、嬉しいですね(笑)。

―この先MAZZELとして描きたい夢を、SEITOさんはどのように想像していますか?

まずは、誰からも愛されるグループでいたい、という想いが僕の中でも一番大きいです。これはメンバーの中で共通してあると思います。近い未来にドームもやりたいですし、MAZZELで絶対に海外進出をしたいと思っています。

―SEITOさんが個人としてやりたいことや叶えたい夢はありますか? それこそ、佐藤健さんに憧れて俳優業をやりたいという気持ちとか。

俳優はめっちゃやりたいですね。アクションとかの動きもできるので。でも今は音楽が一番やりたいです。早くバンドと一緒にやりたいですね。BMSG内でユニットもやりたいです。

―まだまだ発揮しきっていない音楽性がSEITOさんの中にはあるのだろうなと、今日話を聞いて思いました。ユニットは、誰とやりたいですか?

SHUNTO(BE:FIRST)とめちゃくちゃやりたいです!



<INFORMATION>


MAZZEL 3rd Single 『MAZQUERADE』
https://MAZZEL.lnk.to/MAZQUERADE

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