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クインシー・ジョーンズという功績 音楽とともに生きたその人生

Rolling Stone Japan / 2024年11月5日 12時15分

1991年のグラミー賞でのクインシー・ジョーンズ(Photo by Rick Maiman/Sygma via Getty Images)

音楽界の博識家と称されたクインシー・ジョーンズが、2024年11月3日、カリフォルニア州ベル・エアにある自宅で息を引き取った。91歳だった。彼はジャズ、ソウル、ファンクに留まらず、マイケル・ジャクソンのアルバム『オフ・ザ・ウォール(原題:Off the Wall)』や『スリラー(原題:Thriller)』、『バッド(原題:Bad)』といった史上最高のポップ・アルバムも世に送り出した。「11歳だった私は、これこそが自分の生きる道だと確信した。永遠にね。」と語る、生涯音楽とともに歩んだ功績を振り返る。

「私たちの父であり兄弟であるクインシー・ジョーンズが永眠したことを、謹んでお知らせします」と家族が、ジョーンズの逝去を明らかにした。「私たち家族にとっては大きな損失ではありますが、不世出の天才だった彼の素晴らしい功績を称えたいと思います。」

ジョーンズは、ポピュラー音楽のほぼ全ての分野で活躍した。トランペット奏者にはじまり、作曲家、編曲家、プロデューサー、指揮者、映画音楽家に至る70年を超えるキャリアの中で、彼はビッグバンド・ジャズ、ビバップ、ゴスペル、ブルーズ、ソウル、ファンク、クワイエット・ストームR&B、ディスコ、ロック、ラップといった幅広いジャンルの作品を生み出した。特にマイケル・ジャクソンとのコラボレーションが有名で、彼らは比類なきレベルの音楽的技巧を採り入れた史上最高のアルバムを世に送り出した。そうして新たな次元のポップスターを生み出したのだ。

マイケル・ジャクソン以前のジョーンズは既に、ジャズや60年代初頭のバブルガム・ポップ、多くの映画音楽で名を馳せていた。さらに、著名なクラシック音楽家ナディア・ブーランジェに師事し、レイ・チャールズの作品の編曲に携わったり、フランク・シナトラ・バンドの指揮も経験した。ジョーンズほど多様なキャリアを持ち、幅広い分野で活躍した音楽家は他にいないだろう。ローリングストーン誌とのインタビュー(2017年)でジョーンズは、音楽に関するクリエイティビティは生涯を通じて学んでいくものだ、と述べている。「できる限りあらゆる間違いを犯すべきだ。人はそこから学ぶことができる。私もあらゆる誤りを犯し尽くした。」

プロにしかわからないかもしれないが、ジョーンズは素晴らしい歌声を聴き分ける類稀なる耳の持ち主で、ベティ・カーター、ダイナ・ワシントン、サラ・ヴォーン、エラ・フィッツジェラルド、リトル・リチャード、フランク・シナトラ、アレサ・フランクリン、ドニー・ハサウェイ、ミニー・リッパートン、アル・ジャロウ、ルーサー・ヴァンドロス、チャカ・カーン、マイケル・ジャクソン、ジェームズ・イングラム、タミアといったポップス史上最高のシンガーたちがジョーンズとのコラボレーションを望み、素晴らしい作品を残した。


1984年2月28日米ロサンゼルスで開催されたグラミー賞でのマイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズ(Photo by Michael Ochs Archive/Getty Images)

ジョーンズは、コラボレーションするアーティスト向けの楽曲を、何千曲もストックされた自身のデモ作品から選定するのが常だった。そして仕上げるべき楽曲が決まると、豊富なキャリアで得たあらゆる知識と技術を駆使してレコーディングに臨んだ。「通常は、1曲に3声のバックコーラスを入れたらサウンド的に十分だ」と、80年代にマドンナの作品を作曲・プロデュースしたスティーヴン・ブレイは言う。「メロディーラインの上にコードの3度や5度のハーモニーを入れると、ゴスペル風のアプローチになる。(マイケル・ジャクソンの)”バッド(原題:Bad)”ではさらに、7度や11度の音も重なっている。素人がやるとぐちゃぐちゃなサウンドになるが、彼らは五和音を上手く使いこなしている。彼らは、過去に例のないバックコーラスを生み出した」とブレイは、ローリングストーン誌(2017年)に語っている。


ポップのヒットソングでもテレビ番組向けの音楽でも、ジョーンズは常に先進的な作品制作を心がけていた。プロデューサーの多くは、自分らしいサウンドが構築された時点で進化を止めてしまうが、ジョーンズの場合は違う。決して過去に囚われることなく進化を続けたクインシー・ジョーンズの名は、各年代のナンバー1ヒット・シングルにクレジットされている。「1953年に始めてフェンダー・ベースを手にした。1939年式のエレクトリック・ギターを継承するフェンダー・ベースがこの世に現れなかったら、ロックンロールもモータウンも誕生していなかっただろう」と彼は、ローリングストーン誌に語っている。「最初にフェンダー・ベースを使ったジャズ作品は、アート・ファーマーの楽曲”Work of Art”(プレスティッジ・レコード)だった。それからテレビ番組『鬼警部アイアンサイド(原題:Ironside)』のテーマ曲では、初めてシンセサイザーを導入した。」

当時最新のキーボードとプログラミング技術を駆使したマイケル・ジャクソン作品は、30年が経った今でも新鮮さを失っていない。ホイットニー・ヒューストンをプロデュースしたナラダ・マイケル・ウォルデンはローリングストーン誌とのインタビューで「クインシーの哲学は、ペントハウスの眺めを楽しめる屋外トイレのようだ」と表現している。「下では悪臭が漂うが、上からは素晴らしい景色を望める。だからバーやクラブでも、ヨットの上でも、どんな場所にもマッチする音楽なんだ。」

ヒット・シングルを連発し、グラミー賞に79の記録的なノミネート数と28度の受賞数を誇るジョーンズだが、元々は暴力の街シカゴ・サウスサイドの貧しい家庭で生まれ育った。ジョーンズが生まれたのは、世界恐慌真っただ中の1933年3月14日だった。彼の母親は精神病を患っており、ジョーンズが幼い頃に精神療養所に収容された。ジョーンズと弟のロイドはしばらくの間、ケンタッキー州ルイビルにある電気も通っていない掘っ立て小屋のような祖母の家で暮らしていたが、その後シカゴへと戻った。それから兄弟は、第二次世界大戦中に海軍基地での仕事を得た大工の父親と共に、ワシントン州へと移り住んだ。

ジョーンズの自叙伝『Q』によると、当時はシンクレア・ハイツに近い軍の野営地から銃や弾薬を盗み出す傍ら、音楽の勉強に没頭していたという。ある時、基地のレクリエーションセンターへ忍び込みレモン・メレンゲパイを盗み食いしていたジョーンズは、置いてあったピアノの鍵盤を何の気なしに叩いてみた。たった数音弾いただけで、彼は夢中になった。「その時初めて心の安らぎを覚えた」とジョーンズは書いている。「11歳だった私は、これこそが自分の生きる道だと確信した。永遠にね。」

それからジョーンズは音楽に没頭した。アカペラ・グループで歌い、父親に殴られるのを覚悟で、ミュージシャンたちの生の演奏を見るために地元の居酒屋へ通った。さらに、通学前の明け方、ジャズ・トランペッターのクラーク・テリーにレッスンして欲しいと願い出たこともある。そして13歳になる頃には既に、ジャズのビッグ・バンド向けの編曲に挑戦するまでになっていた。

戦後ジョーンズ一家がシアトルへ引っ越すと、ジョーンズの音楽熱もさらにヒートアップした。14歳の時、当時から将来を嘱望されていた地元ミュージシャンのレイ・チャールズと友人になる。その後ジョーンズは、いくつかのバンドでも演奏するようになった。「シアトル・テニス・クラブなどで、毎週末の夜7時から10時まで演奏していた。演奏していたのはポップミュージックさ」とジョーンズは自叙伝の中で振り返っている。「その後深夜1時までは黒人酒場を回ってストリッパーの後ろでR&Bを演奏し、それから明け方までビボップのジャムセッション、という毎日だった」と彼は語る。ビリー・ホリデイのシアトルでのコンサートでは、他の地元ミュージシャンと共にバックバンドに加わった。15歳の時、ジャズ界の巨匠ライオネル・ハンプトンに見出され、正式なツアーメンバーに誘われたものの、ハンプトンの妻が、まずは学校を出るよう強く勧めた。

シアトル大学で一学期を終えたジョーンズは、東海岸にあるバークリー音楽大学(当時の名称はシリンガー音楽院)へと移る。ジャズの本拠地ニューヨーク・シティにも近づくこととなった。その後ジョーンズは、ハンプトンのバンドにトランペット奏者として加入し、アメリカ国内とヨーロッパを回りながらスキルを磨いた。しかし過密なツアースケジュールと低賃金に嫌気が差したジョーンズは、間もなくバンドを脱退する。その後のジョーンズは、作曲、編曲、セッションでのバンドの指揮、そしてレコーディングのプロデュースまでこなす一人四役の才能を発揮して、キャノンボール・アダレイ、ディジー・ガレスピー、カウント・ベイシー、サラ・ヴォーン、ダイナ・ワシントンといったジャズ界の巨匠たちのアルバムに名前がクレジットされるまでになった。

1957年、パリへ渡ったジョーンズはバークレー・レコードでの仕事に就いた。パリで彼は、弦楽器を使った編曲も任された。当時アメリカでは、弦楽器の編曲は白人編曲家に限られていた、とジョーンズの友人でもあるボビー・タッカーは証言する。タッカーとジョーンズとは、ビリー・エクスタインの作品でコラボレーションしている。フランス時代にジョーンズは、20世紀の偉大なクラシック音楽家を多く育てたナディア・ブーランジェに師事した。そしてわずか25歳で、フランク・シナトラのモナコでのステージを支える55人編成のオーケストラの指揮を任された。ジョーンズによるカウント・ベイシー・バンドの指揮と編曲での仕事ぶりを高く評価したフランク・”ザ・ヴォイス”・シナトラは、1964年にラスベガスを皮切りとするツアーで、バンド全体をジョーンズに任せた。

60年代初頭にジョーンズは、記憶に残るポップ・シングルを作る才能を開花させた。マーキュリー・レコードでA&Rとして働いていたジョーンズは、レーベル創設者のアーヴィン・グリーンから「君の作品は音楽的に素晴らしい。我々の売上にも貢献して欲しい」と言われたという。間もなくジョーンズはレスリー・ゴーアをプロデュースし、1963年から65年の間に10曲をトップ40入りさせた。全てが、今なおポップの名作となっている。彼はあらゆるシーンで引っ張りだことなり、ハリウッドへも進出した。当時は黒人の映画作曲家が珍しい存在で、「白人」映画の音楽を黒人が担当することなど滅多になかった。そのような状況の中でもジョーンズは業界内の差別と徹底的に戦い、トルーマン・カポーティ原作の映画『冷血(原題:In Cold Blood)』やシドニー・ポワティエ主演の映画『夜の大捜査線(原題:In the Heat of the Night)』をはじめ、多くの映画やテレビ番組の音楽を手がけた。

1974年にジョーンズは、動脈瘤による2度の救命手術を受けている。動脈瘤に過度な圧力をかける恐れがあるため、彼のトランペット人生はここで終わりを告げた。同時に、膨大な作業が体にかなりの負担となる作曲活動についても、距離を置くようになった。一方でジョーンズは、ミニー・リパートン、アル・ジャロウ、ルーサー・ヴァンドロスら優美なシンガーたちや、リオン・ウェア(マーヴィン・ゲイやダイアナ・ロス作品)、ルイス・E・ジョンソン(後にファンク・バンドのザ・ブラザーズ・ジョンソンを結成し、マイケル・ジャクソンの楽曲「ビリー・ジーン(原題:Billie Jean)」でベースを担当)といった才能あるミュージシャンともコラボレーションした。


マイケル・ジャクソンとは、ジョーンズ最後の映画仕事のひとつとなる『ウィズ(原題:The Wiz)』の音楽を担当したことをきっかけに、知り合いになった。同作品には、ダイアナ・ロスとマイケル・ジャクソンが出演している。映画の制作現場で二人は親しくなり、ジャクソン5で大成功を収めてソロ・デビューを準備していたジャクソンに対して、ジョーンズがコラボレーションを持ちかけたという。当初エピック・レコードは「クインシー・ジョーンズはジャズ寄り過ぎる。彼がプロデュースしたヒット作は、ザ・ブラザーズ・ジョンソンのダンス曲しかない」という評価だった。それでもマイケル・ジャクソンはジョーンズの採用を主張し、レコード会社側が折れた。



結果、音楽史に残るパートナーシップが誕生する。ジョーンズがプロデュースした『オフ・ザ・ウォール』、『スリラー』、『バッド』の3アルバムからは、ホット100のトップ10に17曲がランクインした。その内9曲がナンバー1を獲得し、RIAAによるとアメリカだけで5000万枚以上を売り上げた。ジョーンズは一流のミュージシャンと作曲家のチームを用意して、最先端の音楽技術を採用した。結果として、驚くほどリズミカルで洗練されたヒット作が生まれた。「最も先進的な技術と従来の音楽とが見事に融合した」とスティーヴン・ブレイは分析する。

関連記事:史上最も売れたアルバム『スリラー』の制作秘話:MJとクインシー・ジョーンズの情熱

同じ頃ジョーンズは、ジョージ・ベンソンのアルバム『ギヴ・ミー・ザ・ナイト(原題:Give Me the Night)』(ファーストシングルは今なおダンスフロアの主役となっている)や、ドナ・サマーのアルバム『ドナ・サマー(原題:Donna Summer)』(「恋の魔法使い(原題:Love is in Control)」や「ステイト・オブ・インデペンデンス(原題:State of Independence)」を収録)をプロデュースし、大ヒットさせている。また彼は、ポール・サイモンからスティーヴィー・ワンダー、ブルース・スプリングスティーン、シンディ・ローパーまで、さまざまな大物アーティストが参加したチャリティ・シングル曲「ウィ・アー・ザ・ワールド(原題:We Are The World)」をプロデュースした。スーパースター同士のエゴがぶつかり合うレコーディング・セッションを、ジョーンズは何とかまとめ上げた。さらにジョーンズが自身の名義でリリースしたアルバム『愛のコリーダ(原題:The Dude)』からは、トップ40にシングル3曲がランクインした。同アルバムは、ジェームス・イングラムとパティ・オースティンの二人にとって、シンガーとしてのキャリアアップにつながった。翌1982年にジョーンズは、グラミー賞のプロデューサーオブ・ザ・イヤー(非クラシック部門)を受賞する。ジョーンズは生涯で3度のグラミー賞を獲得するが、これが初受賞だった。



アルバム『バッド』を最後に、ジョーンズとマイケル・ジャクソンは距離を置くようになった。自叙伝によると、ジャクソンの周囲では、プロデューサーとしてのジョーンズが目立ち過ぎているとの声が上がっていたという。さらにジャクソン自身も、次のアルバム『デンジャラス(原題:Dangerous)』には、よりヒップホップに馴染み深い若いプロデューサーを採用したいと考えていた。マイケル・ジャクソンとのパートナーシップを解消したジョーンズだが、プロデュースした自身のアルバム『バック・オン・ザ・ブロック(原題:Back on the Block)』からのシングル3曲が、R&B部門のナンバー1に輝いた。1996年には、ベイビーフェイス、タミア、バリー・ホワイトをフィーチャーしたシングル曲「Slow Jams」がチャート上位にランクインした。ジョーンズのプロデュース作品は、テヴィン・キャンベルやタミアといった若手のキャリアを大きく後押しした。同じ時期にジョーンズは、音楽雑誌ヴァイブ(Vibe)誌の創刊に関わった。同誌はローリングストーン誌のカウンターパートとして、黒人ミュージシャンによりスポットを当てたメディアを目指した。

ジョーンズは、音楽を「感情的な建築物」に例えたり、「私の一番嫌いなレコードは2番目、6番目、11番目のレコードだ」というように、自身の功績を魅力的かつ簡潔な言葉で表現するのを好んだ。他にも、「鳥肌を立てるような音楽を作りたい」や「曲が素晴らしければ、世界一下手な歌手でもスターになれる。逆に曲が悪ければ、世界一上手な歌手が3人集まっても救いようがない」といった発言もあった。こんな愛らしいジョークのせいでジョーンズの功績は、まるでいとも簡単に達成し、誰でも成し得るかのように思えてしまう。しかし実際に、ジョーンズに追いつける者は一人もいない。1991年にジョーンズは、グラミー・レジェンド賞を受賞した8人目のアーティストとなった。同賞は、これまでのザ・レコーディング・アカデミー史上わずか15組のアーティストにしか与えられていない栄誉だ。


2020年2月9日、米ロサンゼルスでのチャリティガライベントでのクインシー・ジョーンズ (Photo by Greg Doherty/Getty Images for Entertainment Studios)

近年、新たな作品の発表は減ったものの、クインシー・ジョーンズの作品は、今なお次々と多くの楽曲でサンプリングされている。2000年代に入ると彼は、ジャズ・ミュージシャンのアルフレッド・ロドリゲスやジャスティン・カウフリンといった若手アーティストのマネジメントをスタートさせた。また2017年には、ジャズ・ビデオコンテンツのオンラインライブラリーQwest TVを立ち上げた。フランスのテレビ・プロデューサーのレザ・アクバラリーが同チャンネルの開設を提案した時、ジョーンズはこの新たな取組に、生涯をかけた熱意をもって応えた(ニューヨーク・タイムズ紙)。「いいね、レッツ・ゴー!」

関連記事:クインシー・ジョーンズを物語る26つの真実

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