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秋吉敏子が95歳の今語る『孤軍』の音楽人生、ジャズと日本人としてのアイデンティティ

Rolling Stone Japan / 2024年12月25日 18時30分

写真提供:ソニー・ミュージックレーベルズ

世界的ジャズピアニスト/作編曲家/ビッグバンドリーダー、秋吉敏子のデビュー・アルバム『孤軍』が発売50周年を記念して12月25日にアナログ盤で再発された。同日には『孤軍』を含む秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグ・バンドの初期代表作7タイトルのストリーミングも解禁された。そんな秋吉への最新インタビューが実現。聞き手はジャズ評論家・柳樂光隆。

ここ数年、日本のジャズが世界的に人気だ。「和ジャズ=Wa Jazz」と呼ばれ、レコード・コレクターの間でブームのようになっている。海外のレーベルが次々と希少なレコードをリイシューするようになり、いまや海外レーベルのリコメンドにより知ったレコードを日本人が買うような流れもある。福井良や稲垣次郎、鈴木弘、松風紘一などは日本よりも海外での知名度のほうが高いと思われるほど。そんな状況もあり、日本のジャズ作品がようやくストリーミングでも聴けるようになり始めてきた。

とはいえ、日本のジャズを聴く環境はまだまだ整っていない。なぜなら重要人物たちの音源がいまだ聴けない状況だからだ。特に秋吉敏子、渡辺貞夫、日野皓正の名盤を聴くことができないことは大きな損失だった。



写真提供:ソニー・ミュージックレーベルズ

そんななか、ついにソニーミュージックが動いた。秋吉敏子が70年代に結成した秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグ・バンドによる名盤7タイトルのストリーミングを開始する。ピアニストとしてNYを拠点に活動していた秋吉がLAに移り、パートナーでもあったルー・タバキンと共にビッグバンドを立ち上げ、作曲家:秋吉敏子を打ち出した時期の名作群だ。

デューク・エリントンからの影響を消化しつつ、日本人としての自身のアイデンティティをビッグバンド・ジャズに取り入れた作品は、今では世界中のジャズミュージシャンたちにインスピレーションを与えている。若き日のマリア・シュナイダーが秋吉のコンサートを見て、感銘を受けた話は有名だ。

『孤軍』では鼓(つづみ)を用い、フルートを和楽器に見立て、『インサイツ』では雅楽で使われる打楽器の羯鼓(かっこ)や能楽の謡(うたい)を取り入れた。アメリカのジャズとは全く異なる日本の要素を組み合わせ、独特の情感を生み出したこれらの楽曲は色褪せるどころか、その輝きを増している。挾間美帆が2021年の「NEO-SYMPHONIC JAZZ at 芸劇」で取り上げ、テリ・リン・キャリントンが2022年に編纂した女性作曲家による新たなジャズスタンダード集『New Standards: 101 Lead Sheets by Women Composers』にも収められた表題曲でも知られる『ロング・イエロー・ロード』も必聴だ。

さらに、発表50周年を迎えた『孤軍』のアナログ盤リイシューも実現した。秋吉による最初のビッグバンド作品にして、ビッグバンドに日本の要素を取り入れた史上初の作品でもある。今回は12月12日に95歳を迎えた秋吉へのインタビューが実現。『孤軍』の制作背景についてや、ジャズをやることと日本人としてのアイデンティティの関係を語ってもらった。


サブスク解禁&『孤軍』アナログ盤リイシューの告知動画


アメリカで”孤軍”奮闘していた70年代

—ご自身のビッグバンドを立ち上げて、最初に「孤軍」という楽曲を書かれた時はどういう想いがあったのでしょう?

秋吉:「孤軍」はフルートのために書いたんです。まず第一に、このレコーディングが決まった時にフルートの曲がなかったんですよ。それでフルートの曲が一曲ないといけないなと思ったんです。それと同時期に(1974年)、ジャングルで小野田(寛郎)さんが見つかったというニュースを見ました。彼が書いた「No Surrender: My Thirty-Year War」(わがルバング島の30年戦争)という本があって、私はそれを英語版を読みました。彼は戦争が終わっていたことがわからなかった。戦争が終わったから出ていらっしゃいよってことを彼に伝えようと上空からビラを落としたんです。でも、小野田さんは敵の策略だと思っていたそうです。私は向こうのテレビで見たんですけど、彼は少尉ですから降伏をするときに軍刀を渡すわけですね。それを見た時に私はすごく胸が痛くて、彼は”孤軍”で戦争が終わったのを知らなくて一人で戦ってて、私も”孤軍”でアメリカで頑張ってギャーギャーがんばってやってるみたいなところもあって(笑)。それも含めて「孤軍」っていう名前のフルートの曲を作ったんです。

それともう一つは、日本の音楽っていうのは音を笛で曲げるんです。ルー・タバキンが持っていたフルートは、フレンチモデルで楽器に穴があって音を曲げることができたので、うまい具合にいきました。

私はこれはもう、日本でけちょんけちょんにやられる(=批判される)なぁと思ってたんです。大体、日本のファンっていうのは、ああいうのを和洋折衷と言って嫌うと思っていたので、もう嫌われてもなんでもどうぞ、勝手にやってくださいって気持ちで書いたら売れちゃったんです(笑)。私のレコードって売れたことがないんですよ。そのとき初めて売れたんです。


『孤軍』(1974年):自身の文化的ルーツを強く反映したデューク・エリントンの音楽に触発され、鼓(つづみ)の採用やフルートの和楽器的演奏によって、日本の伝統邦楽とビッグバンド・サウンドが融合。その年のジャズ界の話題をさらった


ルー・タバキンと秋吉敏子(写真提供:ソニー・ミュージックレーベルズ)

—『孤軍』はジャズでは異例の3万枚も売れたんですよね。

秋吉:そうですね。一度売れちゃうとレコード会社としてはそのあとが割に楽だったらしいです(笑)。井阪紘さん(※RCA/ビクターのディレクター)という方が当時クラシックの部門にいた頃に、日本でリリースしてくれたんです。ジャズはポピュラーの部門に入りますから、井阪さんがすごくいい条件で出してくださって。彼ももちろん売れると思ってなかったみたいです。っていうのも、私には売れたレコードがそれまで一度もなかったからみんなびっくりしたみたい(笑)。

—先ほど秋吉さんは、アメリカで”孤軍”だったとお話しされてましたが、具体的にはどのような状況だったんですか?

秋吉:アメリカに渡ったのは、学校(バークリー音楽院)が奨学金を出して支援してくれたから。卒業するときに日本に帰ろうと思っていたんですけど、日本に持っていくだけのものを私はまだ身につけてないと感じたので、これはちょっとマズいなと思って、それで(バークリーのあるボストンから)ニューヨークに出たわけなんです。

ニューヨークに出てからは長いこと他の連中と同じように、やっと家賃を払うような生活を過ごしてました。私は運がいいなと思うんです。「来月の家賃どうしようかな……」と思っていると仕事がぽぽっと入ってきて。そういう感じで何年もね(笑)

—割とその日暮らしだったってことですか?

秋吉:よくサバイブしたって感じ。人からあなたは何が一番誇りですか?って聞かれたら、サバイブしたことって答えます(笑)。


写真提供:ソニー・ミュージックレーベルズ

—当時はチャールス・ミンガスと演奏したり、良いミュージシャンと共演したり、ニューヨークでもそれなりに成功されていたのでは?

秋吉:私はチャールズ・ミンガスのバンドに入ってました。本当は他のバンドに入りたかったんだけどね。マネージャーのジョージ・ウェインが私を頭(リーダー)にしたものしか録らなかったから、私は共演したいと思った人たちと全然共演ができなかったんですね。

私がラッキーだったのは、最初からジョージ・ウェインがマネージャーやってくれていたので、私の出演料は高かったんです。そこはジョージに感謝してあげてもいいかなと思っているところ。ひとつ仕事が入ったら1カ月の生活は大丈夫っていう感じだったので。

あるとき、私のことを誰も気がついてくれないから、自分でジャズコンサートでもやったら、気づいてもらえて、少し仕事が増えるかなと思ったんです。それでコンサートの資金を貯めるために3カ月くらい、いろんな場所のホテルのカクテルバーでピアノを弾いてお金を貯めました。途中で、これだったらニュージャージーに住むところが買えるなって思ったんですけど、買いませんでした(笑)。それで(1967年に)タウンホールでコンサートをしたんです。すぐに新聞が良い評を書いてくれたり、遅れてダウンビートも良い評を書いてくれたんです。でも、別に仕事は増えなかったです(笑)。

デューク・エリントンから学んだ「バックグラウンドに向き合うこと」

—当時のことを知らない人からすると、「孤軍」という日本をモチーフにした作品をジャズのビッグバンドでやるというのは相当大きなチャレンジだと感じますけども。

秋吉:そこはデューク・エリントンにすごく影響を受けているつもり。音楽的な影響ではなくて考え方ですね。

デュークは自分が黒人だっていうことをものすごく誇りに思っていて、そこに根付いた曲が多いんです。私もデュークと同じようにやった気はあって、その辺の若い(アメリカの)ミュージシャンよりも私の方が経験を積んでます、と。けど、私のバックグラウンドはアメリカ人と違う。それを昔はネガティブって思うことが普通だったんですよね。けど、私はそれをポジティブに、自分の財産だと思うようにしようと考えたんです。

そこがデューク・エリントンから影響を受けた部分。デュークは黒人であることを、私は自分が日本人であるということをすごく誇りに思っている。バックグラウンドは違うけど、そこから何かを引き出そうと。

そこに気づいたのはロサンゼルスに移って、ルー・タバキンとのビックバンドができたとき。自分が日本人だってことに根付いた曲を作ることが、自分の仕事じゃないかと思ったんです。それで「孤軍」などを作りました。


『花魁譚』[Tales of a Courtesan (Oirantan)](1976年):江戸時代の吉原の遊女の明暗をサウンド化したタイトル曲は、ルー・タバキンの絶妙なフルート・ソロと秋吉の色彩感溢れるアレンジで話題となった。秋吉が目指した和製ジャズを象徴するナンバーといえる力作


『ロード・タイム』(1976年)1976年1月、秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグ・バンドの記念すべき初の凱旋公演を収録したライブ盤。世界最強のメンバーを従えたバンドの実力、魅力を余すところなく捉えた

—アメリカに当時いたら差別もされるだろうし、日本人として活動するのは肩身も狭かったのでは? そのなかで日本人であるというプライドを保つというのは心が強いんだなと感じました。

秋吉:私はあまりそういうふうに考えることはなかったです。けれど、今話したようにそれに気がついたのは、デュークのようにバックグラウンドは違うけれど、日本人であるということを活かすということ。それが私の仕事ではないかと思ったのが最初ですね。それは曲を書くようになってからです。

その前の私は(作曲家というより)ピアニストで、トリオでの活動が主でした。当時はジャズクラブが全米のあちこちにあったんです。今はほとんどなくなってしまいましたけども。ジャズクラブに1週間くらい出演して、終わったら次の場所に車で行って。そういう時代なんですね。それをリーダーとしてやっていました。

ピアニストとしてトリオでやっていて、私はピアニストとしてそれほど上手いほうじゃなかったんですけど、ピアノをやっているともう少し色が欲しいって感じていました。ピアノでは表現できない色が欲しいと思い始めて。それでビッグバンドなんです。ビッグバンドではいろんな色を使えるということですね。私があちこちでトリオでやっているときは誰も私の演奏を注目してくれなかったのに、ビッグバンドになったら注目してくれるようになった(笑)。だから、私のバリューはその辺にあるのかもしれないですよね

日本的なサウンドを取り入れる過程、武満徹への共感

—秋吉さんは「孤軍」より前から民謡を演奏されたり、「Long Yellow Road」も書かれてますし、日本をモチーフにした曲を書かれたり演奏されてるじゃないですか。それをビックバンドに置き換えるためのインスピレーションは?

秋吉:さっき話したように、私のバックグラウンドはアメリカ人、ヨーロッパ人と全然違う。それがネガティブに思われていた時代でしたが、ポジティブに考えるべきだと思って、それで日本の伝統から引き出して「木更津甚句」などを作りました。

「木更津甚句」は8分の15拍子。オスカー・ピーターソンがあれを聴いて、僕もやりたいから僕にもああいう曲を書いてって言われたんです(笑)。でも、私は本当に怠け者でね(笑)。彼に書いてあげていたら、彼のレコードは売れるから私にも収入が(入っていたんでしょうけど)ね(笑)。私は怠け者だから(書かなかった)、そういうところがダメなんですよ。



『ロング・イエロー・ロード』(1975年):タイトル曲は、生誕地、旧満州の情景を重ねて、黄色人種である秋吉敏子がアメリカ・ジャズ界で歩んできた長い道のりを表現した名曲

—秋吉さんはアメリカで活動されていたわけですが、日本の伝統音楽をどうやって研究したんですか? 例えば、雅楽のレコードを取り寄せて聴いたりしたんですか?

秋吉:雅楽のレコードやテープを日本から送ってもらっていました。日本の鼓(つづみ)、日本の笛、それを取り入れたいと思ったんです。それが「孤軍」です。西洋のリズムは1・2・3・4って感じですけど、日本の音楽はそれとは違う。(横に流れるように手を動かしながら)横に流れるようなものなんです。だから「孤軍」での鼓はそういう風に入っているんですよね。そういうものは日本ではケチョンケチョンに言われると思っていましたが、わからないものですよね。


『インサイツ』(1976年):水俣病の悲劇を表現した大作「ミナマタ」での衝撃的な音作りが話題をさらった。国際的な評価も確立した、ジャズ史上に残る名盤


『マーチ・オブ・ザ・タッドポールズ』(1977年):人生のパートナー、そして卓越した管楽器奏者であるルー・タバキンをフューチャーした作品。秋吉のアレンジャーとしての才能が最大限に発揮された、総勢16名のフル・バンドによるアンサンブルは圧巻

—日本の音楽要素を取り入れた作曲家と言えば、例えば武満徹さんのような方もいたと思いますが、武満さんの音楽は聴いていましたか?

秋吉:武満さんはジャズが本当にお好きで、私のコンサートには必ずお見えになってたんですよ。武満さんがタイムマガジン(Time誌)の表紙になったものはウチにもとってありますよ。武満さんはフルブライト奨学金をいただいたとき、誰に師事したいか訊かれて、デューク・エリントンと答えたそうです。アメリカの連中は「冗談だろ?」って感じの反応だったらしいですけどね(笑)

私に「一緒に音楽つくりませんか?」って仰ってくれたこともあるんです。当時の私はまだ未熟だったので「なぜ私が一緒に……?」って思ってたんです。でも、今だったらどうやったらいいかってわかります。残念ですよね。

—日本の音楽の要素って、それ以前に秋吉さんがやってきたアメリカのジャズとは全く違うものだったと思うんです。

秋吉:あまりそういうことを考えてなかったんです。ただ日本の要素を入れるのに鼓を入れるとか、笛の音を曲げるとか、横に流れるようなリズムで鼓を入れるとか、そういうことを考えていました。もともと私は鼓の音が好きだったので、いつか鼓を買えないかなと思っていたのもありますね。

—例えば、マイルス・デイヴィスの『Kind of Blue』みたいな、モード的な要素を入れたりとかは考えてましたか?

秋吉:考えてなかったです。私は鼓の音が割と好きで、何か使えないかなって頭の中にありました。


『ニューポート'77』[LIVE AT NEWPORT '77](1977年)1977年6月29日のニューポート・ジャズ・フェスティバルの実況録音盤。史上最強のリード奏者を従えた秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグ・バンドによる熱狂と興奮のライヴ・パフォーマンスを収録

「ガラスの天井」に思うこと

—少し話は変わりますが、2001年の『ヒロシマ そして終焉から』について聞かせてください。この曲は広島の被爆とそこからの再生がテーマになった作品です。そこに韓国人の笛奏者ウォン・ヤンヒュンが起用されています。なぜ彼を?

秋吉:広島はご存知の通り、原爆が落とされた場所ですよね。なぜ広島に原爆が落とされたのかというと、あそこには軍需工場があったのも理由だそうです。そこで働いていたのは日本人だけではなくて、韓国人もいたそうです(※徴用工として)。だから私としては広島の曲を作る際に、韓国の笛の人に頼んだんです。最初に私が広島に行った時には韓国人を慰霊する墓のことは知らなかったんですけど、今はあります。

—韓国人にも原爆の被害者がいて、彼らのお墓にお参りに行かれたのも、この組曲に韓国人プレイヤーが入っている理由の一つですか?

秋吉:はい。あの時はアメリカ人の捕虜も広島にいたと思います。その人たちも犠牲になっていたと思います。

—いろんな人種の犠牲者について書いた曲でもあるってことですか?

秋吉:あまり考えたことがないです。私があの曲で書いたのは、広島に爆弾が落とされる前からで、それから爆弾が落とされて、広島が立ち直るっていう経過を表したかった。私の曲としては珍しくテキスト、言葉が入ってるんだよね。


秋吉の最新アーティスト写真(写真提供:ソニー・ミュージックレーベルズ)

—最後の質問です。1998年のアルバム『モノポリー・ゲーム』に「グラス・シーリング」という曲が入っています。この曲はどんな意図で書いたんですか?

秋吉:この言葉はマイノリティの人たちはある程度までいくと、そこから上には行けないという人種差別があります。でも、それは目に見えない。だから、グラス・シーリング=ガラスの天井。それで生まれた言葉なんです。

ーご自身の経験とも関係がある曲なんですか?

秋吉:これの最もわかりやすいサンプルを話しますね。私が出したレコードは全部グラミーにノミネートされてるんです(計14回)。グラミーっていうのはノミネートに関しては音楽をわかってる人たちが選ぶんです。でも、その先はそうじゃない人が投票する。私はノミネートは全てされているけど、ひとつも受賞したことがない。

NHKの中村さんっていう大変優秀な人がいるんですが、彼が現役だった頃に子供を対象にした作品を出して、これが大きな賞にノミネートされたんです。でも、イギリスの作品もノミネートされていて、そうなると絶対にイギリスの作品に賞は行ってしまうんです。ただ、それはそれでしょうがないなっていうか。

ーいやいや……。

秋吉:別にもらってももらわなくてもいいです!

—もし時代が40年違っていたら、秋吉さんは今頃グラミー賞を5つも6つも獲得できたんじゃないかと僕は思います。ご自身でもそう思いませんか?

秋吉:でも、私、残念賞をいただいたんですよ。私はいつもノミネートされるのに一度ももらったことがない。たぶん、向こうのグラミーを決める人たちが私のことを可哀想に思ったんでしょうね(笑)残念賞のトロフィーをもらったんですよ。グラミー賞のトロフィーってビクターと同じような蓄音機がついてるでしょう? あれが付いた残念賞のトロフィーがうちに置いてありますよ(笑)。

【関連記事】アメリカのジャズ激動期に日本人女性として奮闘、秋吉敏子はなぜいま再評価されるのか?


写真提供:ソニー・ミュージックレーベルズ



秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグ・バンド
『孤軍』アナログ盤
2024年12月25日リリース
購入:https://AkiyoshiToshiko.lnk.to/KogunLPRJ

●180g重量盤
●ソニー・ミュージックグループ一貫生産
●オリジナルLPを可能な限り再現したジャケット
●初発売時のLP帯復刻
●初発売時のライナーノーツ復刻:児山紀芳
●ライナーノーツ:岡崎正通
●2019年最新リマスター音源使用

『孤軍』50周年特設サイト:https://www.110107.com/toshikoakiyoshi_lewtabackin_kogun/


秋吉敏子&ルー・タバキン・ビッグ・バンド
代表作7作品ストリーミング解禁
配信まとめリンク:https://bio.to/ToshikoAkiyoshiRJ

・孤軍 | Kogun (1974) https://AkiyoshiToshiko.lnk.to/KogunDGRJ
・Long Yellow Road (1975) https://AkiyoshiToshiko.lnk.to/LYRRJ
・花魁譚 | Tales of a Courtesan(Oirantan) (1975) https://AkiyoshiToshiko.lnk.to/TOACRJ
・Road Time (Live) (1976) https://AkiyoshiToshiko.lnk.to/RTLRJ
・Insights (1976) https://AkiyoshiToshiko.lnk.to/Insights
・March Of The Tadpoles (1977) https://AkiyoshiToshiko.lnk.to/MOTPRJ
・Live at Newport'77 (Live) (1977) https://AkiyoshiToshiko.lnk.to/NP77RJ

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