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ドレーやスヌープも認める実力派、Thurzが語るケンドリック・ラマーとの共演、西海岸の新たな黄金期

Rolling Stone Japan / 2025年1月20日 17時30分

Thurz

ケンドリック・ラマーやタイラー・ザ・クリエイターらが次々と話題作をリリースし、西海岸のシーンが大きく盛り上がった2024年のヒップホップ。西から生まれた数々の充実作の一つに、LAのラッパーのThurz(サーズ)がリリースした『YANNICK KOFFI IN TIME』があった。

ThurzはかつてY-Oことヨナス(Yonas)とのラップデュオのU-N-Iで活動し、2000年代後半に『Fried Chicken & Watermelon』や『A Love Supreme 2.0』といった作品が話題を呼んで注目を集めた。

A Love Supreme 2.0 U-N-I & Ro Blvd

ファショーンやパック・ディヴ、ブルーら当時のLAの新しい才能とも多くのコラボを残し、ケンドリック・ラマーとも2011年のミックステープ『O(verly) D(edicated)』収録の「I Do This (Remix)」で共演している(※ストリーミング版には未収録)。

しかし、2011年頃にU-N-Iは惜しくも解散。Thurzはそのままソロ活動に移行していく。

Thurzのソロ作第一弾となったのは、LA暴動をテーマにした2011年のアルバム『L.A. Riot』だった。ここでのロックの要素も取り入れてシリアスなトピックを歌ったスタイルは、明るいムードのあったU-N-I作品とはまた異なるものだ。さらに、DJバトルキャットやDJダヒらも参加した2014年のEP『Designer EP』ではGファンクにも接近。デュオ時代とは異なる道を歩んでアーティストとしての成長を見せつけ、2022年にはドクター・ドレーのEP『GTA Online: The Contract』にも招かれている。



『Designer EP』以降はアルバムやEPなどのリリースはなかったThurzだが、2024年には『L.A. Riot』以来13年ぶりとなるアルバム『YANNICK KOFFI IN TIME』をリリースした。スヌープ・ドッグやデム・ジョインツらドクター・ドレー関係者も迎え、Gファンク的なアプローチも目立つ充実作だ。西海岸の年だった2024年に生まれたこの西海岸らしいアルバムに至るまで、Thurzがどのように歩んできたのか。キャリアの始まりから今後の予定まで、たっぷりと語ってもらった。





キャリアの始まり、モス・デフからの影響

―あなたのラッパーとしてのキャリアはどのようにスタートしたのでしょうか?

Thurz:ラップを始めたのは小学1年生の時。クリス・クロスやMCハマーの大ファンだったんだけど、おじさんがサイプレス・ヒルやドクター・ドレーの『The Chronic』、アイス・キューブの『Death Certificate』、デ・ラ・ソウルあたりのヒップホップを教えてくれたんだ。

でも小学1年生ではもっと商業的な音楽が好きだった。初めて観たコンサートは、グレート・ウェスタン・フォーラムでのMCハマーだったね。コンサートを観た後、「あぁ、ラップしなきゃ。いつかあのステージに立つんだ」って思って、6歳の時に公園と小学校でラップを書き始めた。友達に向けてラップして、キャリアが始まったんだ。高校に進学して、U-N-I時代の相方であるヨナスや彼のおじさんと出会った。その時に初めて本格的なスタジオを体験して、最初の数曲をレコーディングしたり、曲の構成を学んだりして、ミックステープを作って配るようになったんだ。





―お兄さんも、あなたにいわゆるリアル・ヒップホップを紹介する上で大きな役割を果たしたと聞きました。憧れていたラッパーや影響を受けたラッパーについて教えてください。

Thurz:沢山いるよ。俺が10歳の頃に兄がベリーズから来たんだ。毎日(テレビ番組の)『Rap City』を観て、ミュージック・ビデオを全部VHSに録画していた。レッドマンは7年生の時に大好きだったラッパーの一人だね。そして、いつも東西両方の海岸にお気に入りがいたんだよ。ウォーレン・Gの『Regulate... G Funk Era』なんて大好きだった。それがきっかけでトゥインズやダ・5・フッタズを知った。東海岸ではレッドマンのほかにはロスト・ボーイズが大好きだった。「Renee」とか「Jeeps, Lex Coups, Bimaz & Benz」っていう曲があってね。ア・トライブ・コールド・クエストやウータン・クランも大好きだった。沢山の影響を受けたよ。





高校時代には、モス・デフやブラック・スターに影響されてリリックに深く向き合うようになった。彼らが歌詞に本当に思いを込めているのが大好きだった。そのおかげで自分が本当に言いたいことをどうすれば歌詞にまとめられるか、どうすれば歌詞の裏に本当にメッセージを込められるかを考えられるようになったんだ。だからモス・デフは、俺がMCになった形成期にとてもインスピレーションを与えてくれた。レッドマン、モス・デフ、ザ・ルーツ。ブラック・ソートは『Do You Want More?!!!??!』と『Illadelph Halflife』を聴いてすぐに好きになったね。西海岸にいた俺にとって、これらのアルバムは東海岸のMCたちの視点やストーリーテリング、リリックの技巧を理解する上でとても重要なアルバムだった。俺はいつもいい音楽にオープンだったけど、そんな俺に兄が東海岸のヒップホップや『Rap City』を沢山紹介してくれたんだ。




―特にモス・デフは、U-N-Iやあなたのソロの音楽にも通じるように思います。

間違いない。「New World Water」みたいな曲なんて誰も作ったことがないよね。彼のメロディや比喩、ライム、ストーリーテリング。彼が話していることの中には、知識が沢山詰まっている。西洋の外側にある世界の知恵を授けてくれているような気がして、自分自身や文明のことをより知りたいと思わされたよ。彼の音楽には、自分自身を探求し、より良くなりたいと思わせるような要素が沢山ある。リスナーに視点を与えてくれる最重要アーティストの一人だね。だから彼のことが大好きなんだ。

「Ms. Fat Booty」のような素晴らしい曲も作れるし、「New World Water」や『The New Danger』みたいなアルバムも作れる。それに、彼は王道のブーンバップとは違う要素を押し出した。ロック的な要素もあったし、ブラック・ミュージックの様々な要素を取り入れていた。これは無限の可能性があるって思ったね。「Umi Says」ではジャズみたいに歌っているし、全部がオーセンティックなんだ。そのオーセンシティと知識が好きだね。それで彼のスタイルに傾倒したんだ。




ケンドリック・ラマーらLA同世代との交流

―U-N-Iと同じくらいの時期に人気が出たラッパーで、親交があったり刺激を受けたラッパーはいましたか?

Thurz:ブルーの『Below the Heavens』は本当に素晴らしかった。あの時代のトップクラスのリリースだったね。

彼は恐らくトップMCだったと思うし、その後も素晴らしいプロジェクトを発表している。彼とは沢山のレコードを作って関係を深められた。彼やパック・ディヴとは競争していたけど、同時に仲間でもあった。その競争を通じて、俺のアートもより良いものになったんだ。エグザイルが『Below the Heavens』のプロダクションでやってくれたこと――サンプリングやプレゼンテーション――は、そうそうお目にかかれないトップレベルのものだ。あれに匹敵するような二人でのリリースはまだないような気がする。アロー・ブラックやミゲルが客演で参加していたけど、そのあたりとも仲が良かった。ほかはファショーン、DJカリル、チェイス・インフィニット、ストロング・アーム・ステディ、エル・プレズ……あぁ、ダイレイテッド・ピープルズのエヴィデンスとも曲を作った。そんなところかな。



―あの時代が懐かしくなりますね。

Thurz:黄金時代だったね。ブログもMyspaceもYouTubeも新しかった。それで、アーティストはファンとほとんど直接繋がることができた。レーベルは必要ない。ストリーミングの時代になってから、ファンと繋がる上で障壁があるように感じたんだ。だから、ファンに直接届けられるというのは特別なことだよ。何かをドロップして、次の日にショウに行けば、ほとんどの人はその曲を聴いているわけだから。

―あのくらいの時期には、ケンドリック・ラマーの「I Do This (Remix)」にU-N-Iで参加していますよね。

Thurz:ケンドリックとはデイヴ・フリーを通じて知り合ったんだ。ヨナスと俺はダウンタウンLAのザ・スタンダードで何度かパーティを開いていたんだけど、いつもデイヴがジェイ・ロックやケンドリックを連れて来てくれていた。彼らはチルしたりネットワーキングしたりしていたね。俺らは彼らがやっていることが大好きだった。グラインドしてミックステープをリリースして、アートをプッシュして。デイヴはケンドリックの『Kendrick Lamar EP』をまだリリース前の時にくれた。そこに収録されている全曲が好きだったし、彼のアプローチも気に入ったね。それからケンドリックと関係を築き始めたんだ。それでカーソンにあるTDEのスタジオに行って「I Do This (Remix)」を作った。ケンドリックとはほかにも何曲か作ったよ。リリースされるかどうかはわからないけど、めっちゃいい曲もあるんだ。

それで、U-N-Iでライブする際にはケンドリックをステージに呼んで「I Do This (Remix)」をやるようになった。特筆すべきはザ・ロクシーでのショウだね。J・デイヴィと一緒にショウをやったんだけど、バンドの演奏付きで「I Do This (Remix)」をやったんだ。大盛り上がりだったよ。ほかにはバスタ・ライムスや50セント、DJクイックとも一緒にやったね。タリブ・クウェリに紹介したこともあった。だから、俺らは早くから彼と絡んでいたグループの一つだった。

彼は今では世界最大のラップ・アーティストになった。彼がこれからどうなっていくのかを早い段階で見ることができて間違いなくよかったし、彼が今やっていることを誇りに思う。彼は俺のアートにも影響を与えてくれている。素晴らしいライターだからね。ケンドリックにシャウトアウト!

―ケンドリックとの曲がいつか日の目を見ることを願っています。

Thurz:きっと素晴らしいものになるよ。でも、今ならもっといいものができるとも思う。時間が経って二人とも進化したからね。



―アブ・ソウルやスクールボーイ・Qなど、ほかのTDEメンバーとの関わりはどうでしょうか?

Thurz:彼らはみんなホーミーだよ。一緒に仕事をしたり、曲を録ったりすることはなかったけど、カーソンに行くといつも彼らがいた。いい奴らだったよ。彼らの成功を心から喜んでいる。



キャリアの転機となった『L.A. Riot』

―そんな様々な人たちと切磋琢磨していた当時のシーンで、あなたたちはどのようなことを考えて活動していたのでしょうか?

Thurz:とにかく聴かれることだね。俺とヨナスは高校時代、イングルウッドの5thアヴェニューと81stストリートの交差点付近にあるアンジャスト・アントの家で、最初の数曲をレコーディングし始めたんだ。彼は家にスタジオを持っていた。その時点での目標は、ただ上手くなること、そして聴いてもらうことだった。

そしてブログ・エラになると、自分たちのスキルに少しずつ磨きがかかった。練習を重ね、知名度も上がっていった。だから当時の目標は、最高の音楽を作り、最高にクールなビデオを作り、DIY的なアプローチで自分たちに投資して、爆発的に売れるような――少なくともできるだけ多くの人に届くようなものを作ることだった。全てを自分たちでやって、世界中をツアーできるようになるまで何度も何度も繰り返すつもりだった。それに最高のライブ・ショウをしたかった。ステージではエキサイティングになりたかったし、ワイルドで予測不可能な瞬間を沢山引き出したかった。ヨナスがステージで髪を切ったり、ナイキのSBやTシャツをクラウドに投げ込んだりっていう、初期の『Yo! MTV Raps』で見るようなやつをやりたかった。そうして自分たちのアートで生計を立てられるようになるべく、U-N-Iの段階ではなんでもやろうとしていた。結局U-N-Iは短命で三年で終わってしまったんだけど、多くのことを学んだよ。それがソロ・キャリアへの推進力となったんだ。



―キャリアの転機はいつだったと考えていますか?

Thurz:アルバムの『L.A. Riot』を作った時だね。俺はU-N-Iを終わらせたくなくて、ヒップホップ史上最高のグループの一つにしたかったんだけどね。グループを終わらせるにあたって、歴史的に深くてメッセージ性のあるプロジェクトを作る必要があると思った。それで、LAの歴史や自分が経験したことを考えながら、LA暴動について調べ始めた。それが経済的・文化的にLAの生活にどう影響したか、アートにどんな影響を与えたかについてね。そして、LAの現在の姿とか、多くのことを描き出すのに、暴動が重要な役割を果たしていると感じたんだ。だから、それを自分の視点でリサーチしてプロジェクトを作りたかった。U-N-Iはハッピーな曲調で知られていたけど、そうして多作なストーリーテラーになるのが、自分を差別化する最良のルートだと感じた。そこからシフトが始まったんだ。自分のストーリーをさらに築き上げ、『YANNICK KOFFI IN TIME』のようなアルバムを出せるようになるために。



―LA暴動の時はいくつでしたか?

Thurz:6歳だった。祖母はサウスセントラルの、55thストリートとセントラル・アヴェニューの交差点付近に住んでいた。俺らはイングルウッドに住んでいて、祖母の家から帰るにはノーマンディからフローレンスを通ってイングルウッドまで行ったんだ。ある日祖母の家を出たら、警察が出動していて、建物が燃えていて、ストリートが人で溢れていた。文字通り暴動が勃発した日だったんだ。それが暴動の最初の記憶で、その後燃えている建物の灰が車の上に落ちてくるのを見た。

―LA暴動についてのリサーチはどのように行ったのですか?

Thurz:Tomas Whitmoreさんという方がLA暴動について調べ始めていたんだ。俺らはそのことについて話し合い、人々にインタビューを始めた。(コミュニティサイトの)Craigslistに電話番号入りの広告を出して、話を聞かせてくれる人を募った。そうしたら沢山の反響があったよ。多くの人が電話をかけてきて、暴動についての話をボイスメモに残してくれた。そして、LA・フォーの一人であるCraigとも話せたんだ。彼には実際にアルバムにも参加してもらって、話してもらっている。しっかり手を動かして調査したよ。サウスセントラルの74thストリートとバドロング・アヴェニューの交差点で、現地の人たちと話したんだ。そうやって多くのデータを集めた。

―『L.A Riot』ではモス・デフのようにロックの要素を取り入れていますが、サウンド的には何に影響を受けたのでしょうか?

Thurz:プロデューサーのアーロン・ハリスは、あのプロジェクトで俺らが伝えたいメッセージに沿ったプロダクションを提供してくれた。挙げるならレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンとかモス・デフの『The New Danger』かな。アイス・キューブの『Death Certificate』の要素も取り入れている。あれはウェスト・コーストの歴史において最も重要なアルバムで、メッセージ的にも影響力のあるものだった。でも、何よりも自分たちの道を切り拓きたかったんだ。自分のレンズを通して、アーロンのプロダクションと、ロー・ブルヴァードやTHXといったプロデューサーの協力も得て、あのプロジェクトを作り上げた。

―LA暴動と近い時期の作品である『Death Certificate』を参照するあたり、サウンドと内容が密接に結び付いているように感じます。

Thurz:その通り。そして、ただクールなだけではなく、アートに深みを持たせたかった。ブログ・エラだけではなく、長く愛されるような作品を作りたかったんだ。

ドクター・ドレーやヒット・ボーイからの学び

―その後、2014年のEP『Designer EP』では一転、DJバトルキャットとGファンクを作ったりしていますよね。西海岸ギャングスタ・ラップっぽいサウンドに挑んだきっかけは何かあったのでしょうか?

Thurz:『L.A. Riot』はちょっと暗かったから、今度は元に戻って楽しみたかったんだ。パーラメントとか、70年代後半から80年代前半にかけてLAで流行っていたダンス・ミュージックを沢山リサーチした。アンクル・ジャムズ・アーミー、エジプシャン・ラヴァ―、ローズ・ロイスなんかをね。LAのカルチャーを推し進めたかった。当時はRed Bull Sound Selectと組んでいたから、『Designer EP』ではプロデューサーのマーロン・”コーズ”・バロウやアーロン・ハリス、ラーキ、DJダヒらと一緒に仕事できた。すごくファンキーなEPになったよ。リード・シングルは「21」というタイトルで、ウェスト・コーストのラップが入ったファンキーなディスコっぽい曲だった。「The Big Bang」にはオーヴァードーズやBJ・ザ・シカゴ・キッド、クライド・カーソンが参加してくれた。あの時代のリリースでも最高の出来だったと思うよ。多くのミュージシャンがあのプレジェクトでプレイすることにやる気になって、それがほかのアーティストたちをも触発してファンキーなサウンドをやるようになった。とてもクリエイティブな時間だった。全てのセッションがパーティみたいだったね。

THURZ · Designer EP

―『Designer EP』の後しばらくはアルバムやEPなどのリリースはなく、曲のリリースはシングルや客演が中心でしたよね。この時期で中でも特筆すべきものは、やはりドクター・ドレー作品への参加だと思います。ドレーとはどのように繋がったのでしょうか?

Thurz:『Designer EP』の後、「Party in My Living Room」というイベントを始めたんだ。

ハウス・パーティを開いて、そのイベントにプロダクションの価値観を持ち込んだ。ティファニー・グーシェやサー(SiR)とか、色んなアーティストが来てライブをしてくれるんだ。『Designer EP』のパフォーマンスもしたし、TyhiemというアフターマスのA&Rの一人が来てくれたことがあった。そのパーティでコラボしていたのが(プロデューサーの)J. LBSで、彼の家を使わせてもらっていたんだ。彼は俺の家から数ブロック離れたところに住んでいた。それで彼の家で最初のパーティを開いて、それからTyhiemもこのパーティに来るようになった。600人くらいが小さな家に集まってきて、リビングの中にバンドのセットを置いて、音楽をプレイして……。それでどんどん大きくなっていった。シカゴにもアトランタにも、コロラド州デンバーやコーチェラにも行った。




ドレーと出会ったのはそういうイベントをやっていた時期で、スタジオでのセッションを終えて帰ろうとしたら、Tyheimが「レコーディングに来ないか」と誘ってくれたんだ。J. LBSはプロデューサーとしてドレーと契約していた。俺がドレーと出会ったのはこの二人のおかげなんだ。

ドレーと会って話すと、彼は「いい視点を与えてくれるクールな人たちと一緒に音楽を作りたい」と言っていたね。それからレコード・ワン・スタジオに入って、いくつかのビートをかけ始めた。その場で曲を作ったんだ。そうして俺もアフターマス・ファミリーの一員になれた。何年もそこで仕事をして、今でもドレーと一緒に仕事をしている。素晴らしい曲をいくつも作った。最近手掛けた作品としては、スヌープ・ドッグの『Missionary』がある。




―ドレーとの仕事で学んだことや、彼から受けたアドバイスなどは何かありましたか?

Thurz:彼からは多くを学んだよ。主に学んだのは、場の動かし方だね。彼はエゴでリードするのではなく、指揮者であり、みんなを楽器として使っている。アイデアを発展させて、みんなに一番得意なことをしてもらい、そこから最高の要素を取り出して素晴らしい曲を作る手法を学んだ。曲の作り方はみんな知っているけど、ドレーはそういう点においてエキスパートなんだ。彼から学んだことは『YANNICK KOFFI IN TIME』にも活きている。

―2020年にはヒット・ボーイのアルバム『The Chauncy Hollis Project』にも参加していますよね。彼との仕事はどうでしたか?

Thurz:ヒットは最高だよ。あいつとは4曲くらい一緒に作った。「Mood Change」について言うと、彼とJansport Jがサンプルをいじっている時に、俺を呼び出して「何かアイデアはないか」って訊いてきたんだ。それで俺は携帯のメモ帳にアイデアを書き始めた。「5分くらい待ってくれ」ってね。で、12小節くらいを数分で考えて、マイクでラップさせられた。そうしたら彼は「よし、わかった、そのすぐ後に入るわ」みたいな感じだった。あいつは俺のヴァースの一部をコーラスとして使ったんだ。ほかの部分にもちょこちょこ参加した。彼はドレーのようにセッションを指揮していた。ヒット・ボーイは天才だよ。カルチャーに精通していて、彼と一緒に「Mood Change」を作ったのは特別な経験だった。俺自身気に入っている曲の一つだし、彼は素晴らしいヴァースを披露してくれた。彼はスムーズで、いつも落ち着いていて、場をコントロールして、多くの価値と知識を持ち込んでくれる。彼と仕事できてよかったよ。ほかにも何曲か作ったから出るといいな。あいつのやっていることが大好きなんだ。フリー・ビッグ・ヒット!チョウンシーにもシャウトアウトを送る。



―Jansport Jといえば、2022年にBudamunkさんと彼のアルバム『BudaSport』に収録された「21til」にKojoeさんと一緒に参加していますよね。

Thurz:俺はJansport Jと一緒にアルバムを作っていたんだ。そのアルバムを完成させている時に、彼は俺とKojoeを『BudaSport』に参加させた。Jansportがやっていることならなんでも喜んで参加するっていうことで、こうなった。Jansportとのプロジェクト『Sunday Out The Way Vol. 1』は2025年にリリースされる予定だね。



久々の新作の制作秘話、スヌープ・ドッグ参加の意義

―『YANNICK KOFFI IN TIME』は久しぶりのアルバムとなりましたが、今回の作品はいつ頃から作り始めたものなのでしょうか?

Thurz:一番古い曲は2013年だね。THXがプロデュースした「JUST A DREAMER」で、何度も繰り返し作られている曲なんだ。

元々はSZAが参加していた。それで、歌詞を録り直したり、ボーカルを録ったりして、新たなアイデアが必要になって、ティファニー・グーシェに参加してもらうことになった。彼女は「Party in My Living Room」も来てくれていて、イングルウッド出身で俺らには共通するストーリーがある。だから、あの曲には彼女のエナジーが必要だと感じたんだ。あとは「SALT WATER」も2017年の曲だ。

あれは(プロデューサーの)14KTと一緒にやっているプロジェクトのもので、その作品は『YANNICK KOFFI IN TIME』の続編にしようと思っているから、あの曲をアウトロにした。今、ミキシングとマスタリングをやっているところなんだ。でも、大部分は2022年と2023年にレコーディングしたものだと思う。




―今回はアルバムタイトルに本名を使っていますが、そこにはどんな思いがあったのでしょうか?

Thurz:俺はインディペンデント・アーティストとして色んなことをやっているから、俺の活動全てを象徴するようなタイトルにしたかったんだ。俺は起業家であり、父親であり、イベントのプロデューサーであり、企業のコンサルティングもしているし、フェスを開いたりもする。アーティストとしてだけではなく、自分というものをアピールしたくて、その全てをこのプロジェクトのコンセプトに込めようとした。だからこのタイトルにしたんだ。俺はThurzであるだけではなくて、子どものサッカーの送り迎えをするお父さんでもあるし、なんでもやる。「Party in My Living Room」とかもスケールできるサービスにしようとしているしね。それをみんなに知ってもらおうと思った。自分にもそう言い聞かせているんだ。

―今回の作品のキーになった曲を選ぶとしたらどの曲になりますか?

Thurz:いい質問だね。「LOOKIN BACK」かな。

あの曲はJ. LBSとメル・ビーツがプロデュースしてくれた。アンアポロジェティック(=悪びれない)な曲なんだ。自分の価値を理解してくれなかった人たちを振り返っている。ビジョンを理解してくれない人たちっていうのは、どうしてもいる。それでも一歩を踏み出し、前身し続けるのは自分自身なんだ。自分についての誰かの認識なんかに囚われてはいられない。それはその人の問題なんだから。だから、自分自身の自己認識だけを気にすればいい。振り返ってみると、自分のやっていることを理解してくれない人のことなんて気にしていなかったし、自分のやっていることに自信を持っていた。自分を信じてくれなかった人のことをパーソナルに捉えたりもしていない。この曲はそういう内容なんだ。振り返って「ほら見たか」っていうね。



―「LOOKIN BACK」はドクター・ドレーの『Compton』にも参加していたメズをフィーチャーしていますが、今作にはほかにもスヌープ・ドッグやデム・ジョインツなどドレー関係者が何人か参加していますよね。

Thurz:さっき『Death Certificate』がウェスト・コースト史上最も重要なアルバムだと言ったけど、その次が『Doggystyle』。最重要アルバムとまではいかなくてもトップ3には入ると思う。

自分の音楽がどう感じられるものにしたいかっていう点で、『Doggystyle』からは曲順やラップ、ヴァイブス、プロダクションに至るまで、多くのインスピレーションを得ている。「ADVISORY」はマイク&キーズがプロデュースしていて、まさにウェスト・コーストっていう感じの曲だけど、そのすぐ次の曲にスヌープが参加してくれているのは大きな意味のあることだよ。「みんな俺のやっていることに注目してくれ。もし俺の音楽を初めて聴くなら、そう、俺はウェスト・コーストを代表するラッパーにお墨付きを貰ったんだ」って言えるからね。すごく幸せなことだ。スヌープのことはとても尊敬している。

そして、デム・ジョインツと一緒に『Missionary』の仕事ができたのもよかった。デム・ジョインツも音楽業界で素晴らしい瞬間を迎えている。だから、彼ら二人が一緒にいるということは、とても意味のあることなんだ。彼らが俺のやっていることを信じて、このプロジェクトを高く評価してくれているっていうことがね。





―スヌープとの仕事で学んだことは何かありますか?

Thurz:ドレーに似て、彼にもエゴがない。スヌープはドレーに『Missionary』のプロダクションを任せていた。だから、時には自分の意志を捨てて、仲間に助けてもらうことも必要だと学んだ。『YANNICK KOFFI IN TIME』でいえば、ロー・ブルヴァードが俺にとってのドレーにみたいな存在。プロダクションを手伝ってくれて、俺のアイデアを増幅させてより素晴らしいものにしてくれた。スヌープは成功した起業家/成功したアーティストとしてそうしている。自分の利益を一番に考えてくれる人たちがそばにいれば、時にはハンドルから手を離して、自分に愛情を注いでくれる人たちとコラボレートすることができるんだ。



ウェスト・コーストにとってのファンク、シカゴとの縁

―今回の作品ではいくつかの曲でGファンク、というかPファンクのような曲があったことが印象的でした。ああいったアプローチを取ったのにはどんな理由が?

Thurz:ウェスト・コーストの音楽にとってファンクは重要な要素だ。LAではどんなパーティに行ってもそういう要素が聞ける。俺の音楽も、バックヤードでのパーティや「Party in My Living Room」でかけられるようなものにしたかった。Gファンクを入れているのは、西海岸のファンをターゲットにしているからなんだけど、世界の多くにも影響を及ぼしているように思う。だから、そういう要素を入れることは俺にとってもとても重要なことだった。

―「OUTSIDE / 13 EVENTS」では再びDJバトルキャットと組んでいます。彼はD・スモークやカマシ・ワシントンのアルバムにも参加していましたが、LAのアーティストにとって彼はどんな存在なのでしょうか?

Thurz:DJバトルキャットなくしてウェスト・コーストのサウンドはありえない。彼はどんなアーティストやプロデューサーよりもウェスト・コーストのサウンドを体現していると思うし、今のウェスト・コーストのサウンドがあるのは多分彼とDJクイックのおかげ。バトルキャットは最も素晴らしいDJの一人であり、パイオニアのような存在だ。過去二年間、コーチェラに彼を連れて行ったんだ。「Party in My Living Room」の「Juneteenth Festival」では、毎回DJバトルキャットをDJにブッキングしている。彼にはパーティをロックする知識とカタログがあり、そこで彼の音楽をプレイすることができる。リアルなウェスト・コーストのパーティを実現する上で彼の音楽は欠かせないからね。



―DJバトルキャットのベスト・ビートを選ぶとしたら何になりますか?

Thurz:ブン、ブブ、ブブブブン……(口ずさむ)。イーストサイダズの曲だよ。ちょっと待って……(しばし熟考)。

いつも俺が行くパーティでかかっているやつ……「Gd Up」じゃなくて……いや、「Gd Up」も大好きなんだけど……「I Luv It」だ!あれが今まで聴いた中でべストなビートだと思う。



―あれは最高ですよね。「WHERE DO I GO」にはGLCが参加しており、続く「FEEL ME」はドゥ・オア・ダイへのオマージュのように聞こえました。シカゴとも何か縁があるのでしょうか?

Thurz:そうそう。シカゴは「Party in My Living Room」を開催した二番目の場所なんだ。GLCはそこにやってきてライブしてくれた。GLCとはU-N-I時代にクーディ&チケ(※カニエ・ウェストのドキュメンタリー『jeen-yuhs』などで知られる映像クリエイター)を通じて知り合ったんだけど、愛を示してくれたから、2009~2010年頃からよく会うようになったんだ。レコード・ワンに来てくれて「WHERE DO I GO」のヴァースを録ってくれた。シカゴとは縁があるね。俺がシカゴで開いたパーティには、毎回800人くらい来てくれた。だからシカゴが大好きなんだ。

「FEEL ME」はもちろんドゥ・オア・ダイへのオマージュだよ。俺は「Po Pimp」が大好きで、従兄弟のカマリとよく彼のセリカであの曲をかけながらコンプトンを走り回った。彼はよくドゥ・オア・ダイやテラ(Tela)、シュガ・フリー、デヴィン・ザ・デュードなんかをかけていた。そういうプレイヤな音楽が好きだったんだ。





―このプロジェクトのために研究したアーティストはいますか?

Thurz:自分自身だよ。ただ自分のベストを出したくて、全てのアイデアを最高の方法で表現してパフォームしようとした。だから、誰かを研究したわけではないんだ。でも、さっき話したドゥ・オア・ダイだったり、「GO TOGETHER」で参照しているのはアウトキャストだったり、影響を受けているアーティストはいる。アウトキャストなんて大好きなグループだし。でも、俺はただ自分のサウンドがべストであること、オーセンティックなサウンドにしようとしただけなんだ。

2025年も西海岸は大豊作になる

―「ADVISORY」では発声を工夫して一人二役のようなラップをしており、「BITCH IM ME」では声を加工していますよね。こういった複数の声色の作り方は、何からインスパイアされたのでしょうか?

Thurz:「ADVISORY」ではクレオール語を取り入れたかった。母がベリーズ出身で、ステップファーザーもベリーズ出身だからね。みんなに知ってもらいたかったんだ、俺はアメリカに住むベリーズからの移民二世だって。常に自分の歴史をアートに取り入れたいんだよ。だから一人二役のようなヴォーカル・パフォーマンスをした。俺の多次元性がわかるようにね。

「BITCH IM ME」は自分自身に飛び込んで行くような曲なんだ。浮き沈みがあったり、二面性があったりする。それが自分に語りかけたり、人生の進め方について違う決断をするよう背中を押してくれたりするんだ。だから、この二つの異なる声は人間であることの両極を表しているんだ。

だから、特に誰かにインスパイアされたとかではないね。ただ実験しただけ。「ADVISORY」でやっているようなことをほかの誰かがやっているのは聞いたことがない。ブラック・ムーンとか、ダック・ダウンでそういう人はいたかもしれないけど。でもそれ以上に自分自身を研究して、アートとしてのレベルを高めようとした結果だよ。



―アルバムのインタールードにはSIRIHANNAが登場しており、あなたとのやり取りは面白かったです。あれは何者で、何を象徴しているのでしょうか?

Thurz:SIRIHANNAは、AIがかつてないほど発達した現代の社会を象徴しているんだ。俺の好きな映画の一つに、ホアキン・フェニックスが出演した『her/世界でひとつの彼女』があるんだけど、そこではAIがリアルになりすぎていて、主人公はAIと関係を持つことになるんだ。SIRIHANNAはリアーナとSiriをもじったもので、彼女の声にはサウスセントラルのアクセントがある。つまり、彼女はサウスセントラル出身の黒人版Siriなんだ。彼女は俺がしっかりするよう手助けしようとして、時にやりすぎちゃうんだ。

―2024年のヒップホップはケンドリック・ラマーの活躍もあり、あなたのアルバムを含む色々な人の素晴らしいアルバムがリリースされて、西海岸の年だったように思いました。これから西海岸のヒップホップはどうなっていくと思いますか?

Thurz:ウェスト・コーストはヤバいことになっているよね。ケンドリックが『GNX』をリリースしてトップに立ったことで、これからさらに多くの西海岸の音楽が出てくるよう門戸が開かれたと思う。みんな俺らがこれからやろうとしていることに注目しているし、西海岸から生まれる多様な音楽を聴けることになるだろう。また大豊作になるだろうね。俺も2025年はコンスタントに曲を出していくつもりだよ。もう4枚くらいアルバムをドロップする準備ができているんだ。「Party in My Living Room」でも多くの新しいアーティストをプッシュしていきたい。「Party in My Living Room」にも関わってくれている、ファット・ロンやV.C.R.、シャム1016、エアプレーン・ジェイムスらに期待していてほしい。






―これからの予定について、言える範囲で教えてください。

Thurz:14KTやJansport J、ロー・ブルヴァード、サー・ラーのシャフィーク・フセイン、DJバトルキャット、DJカリルと制作を進めていて、この中から4〜6枚のアルバムが出るだろうね。ベリーズの俺の家族を紹介するドキュメンタリーと、「Party In My Living Room」のオンラインゲームも発表する予定。 あとはアーティストがマネタイズできるようなIPを作りたいんだ。最高の音楽を作るとともに、アーティストがIPで賃金を得て持続可能な生活をできるよう手助けをしたい。フェスもやりたいし、コーチェラにも戻ってくる予定だよ。2025年は盛りだくさんになる。まとまった作品を出して、それに続いて沢山のイベントがあるのが楽しみだ。

―我々も楽しみです! ちなみに、日本に来る予定はありますか?

Thurz:ぜひ実現させようと思っている。というのも、2025年はファット・ビーツを通じてヴァイナルをリリースする予定だからね。だから絶対日本に行きたい。ライブもやりたいね。

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