追悼ガース・ハドソン ザ・バンドという共同体とロックンロール幻想の終焉
Rolling Stone Japan / 2025年1月23日 12時20分
ガース・ハドソン(Garth Hudson)を追悼。ローリングストーン誌の名物ライターであるロブ・シェフィールドが、ザ・バンドの控えめな名手にして、ロック界随一のまとめ役であった故人を偲ぶ。
ザ・バンド最後の生存者だったオルガン奏者のガース・ハドソンが、1月21日の朝(現地時間)、87歳で亡くなったーーウッドストック近郊で、ザ・バンドとボブ・ディランが地下室でジャムセッションをしただけで音楽の歴史を変えた家、通称「ビッグ・ピンク」から数マイルしか離れていない場所で。ガース・ハドソンは謎の男であり、寡黙で、歌わない唯一のメンバーだった。彼は他のメンバーより何歳も年上で、1968年のデビューアルバム『Music from Big Pink』を録音した時にはすでに30代になっていた。しかし、謙虚な天才である彼は、開拓者精神に満ちた素朴な音楽を奏でる、ザ・バンドというグループを象徴する存在であった。ザ・バンドは究極のロックンロールの兄弟愛の幻想であり、ガース・ハドソンはその幻想を現実のものとする思慮深い父親のような存在であった。
ハドソンはいつも、弦のネクタイとロック史上最も長い髭をたくわえ、まるで森の賢者が間違ってバンドにやってきたような風貌だった。クラシック音楽の素養をもつ名手でもあり、当初は、この騒々しい子供たちと行動を共にしたいとは思っていなかった。しかし、バーニー・ホスキンスによるザ・バンドの歴史の古典的名著『Across the Great Divide: The Band and America』のなかでハドソンが述べているように、「残念ながら、ロックンロール音楽のイディオムに精通するためには、時折バーで演奏することが必要だった」。
他のバンドメンバーは、この男を理解することは決してできなかった。誰もそんなことはできなかった。彼はインタビューでほとんど口を開かず、指で会話した。このマッド・プロフェッサーは、オルガン、ピアノ、アコーディオン、ホーンなど、歌を引き立てる楽器なら何でも演奏できた。「当時、ガースがロック界で最も先進的なミュージシャンであったことは疑いの余地がない」とロビー・ロバートソンは語った。「ガースは、僕らと演奏するのと同じくらい簡単にジョン・コルトレーンやニューヨーク交響楽団とも演奏できただろう」
ハドソンによる最高の名演のひとつは、『ラスト・ワルツ』での「It Makes No Difference」である。ザ・バンドがこれまでに演奏した中でのベストとも言えるし、5人全員がキャリア最高の演奏を披露している。曲の終盤、ロバートソンがギターで苦悩と嵐のような演奏を披露し、ソプラノサックスのガースにバトンタッチする。これほどシンプルかつ派手さのない、なおかつパワフルな演奏は彼にしかできないだろう。わずか68秒のことだが、『ラスト・ワルツ』のすべての感情的な要素、バンドのキャリア全体を要約している。
エルトン・ジョンも憧れた「老人のような」風格
ハドソンは20代にして老人のような風格を装っていた。それまでのロックスターで、これほどまでに若く見られることを拒否した者はいない。彼の年齢を想像することさえできなかった。それは、若者文化と旧世界との断絶を拒否するというザ・バンドの重要なあり方を強調していた。彼らはデビューアルバムで、家族と一緒に「Next of Kin(近親者)」という文字を背にしてポーズをとった。これは1968年当時、バンドがとることのできる最も過激で時代遅れな行動であった。
ガース・ハドソンはまた、1966年の伝説的なツアー(当時の彼らはザ・ホークスとして知られていた)で、ボブ・ディランのバックを務めた時にも凄まじい演奏を披露している。特に5月20日のエディンバラ公演は素晴らしい。ディランによる「電気の亡霊は彼女の顔の骨のそばで吠える」という歌詞は、まさにその夜、ハドソンが奏でたサウンドを言い表している。観客たちはフォークの英雄がエレクトリックバンドと共演することに不満で、「帰れ!」「音を消せ!」という野次が聞こえる。
しかし、彼らはフィナーレの「Ballad of a Thin Man(やせっぽちのバラッド)」で観客を黙らせた。ハドソンは完全に常軌を逸し、ディランの歌詞の一語一句を再現し、この曲の持つ悪夢のような世界を再現してみせた。「Who is THAT man?」というディランの問いは、オルガンを弾く髭面の変わり者に向けられているように思える。
彼らはニューヨーク州北部のソーガティーズにある、「ビッグ・ピンク」と呼ばれる家で共同生活をしていた。ザ・バンドのイメージは、1968年8月のローリングストーン誌の表紙を飾ったエリオット・M・ランディ撮影の写真によって確立された。公園のベンチに5人全員が肩を寄せ合い、カメラに背を向けて座り、雪の降る森を見つめている。そこに写っているのは彼らの帽子とコートだけで、表情を覗き込むことはできない。私はこの写真を何度も見てきたが、今でも誰がどのメンバーなのかわからない。しかし、そこが重要なのだ。彼らは音楽で結ばれた兄弟だった。ロック界の誰もがザ・バンドになりたがっていた。エルトン・ジョンでさえ、『Tumbleweed Connection』のジャケットではガースのような服装をしていた。
ハドソンは、ザ・バンドの音楽に友好的な精神をもたらした。筆者がお気に入りのハイライトは、「Rag Mama Rag」での彼のホンキートンク・ピアノで、リック・ダンコのフィドル、リヴォン・ヘルムのマンドリン、リチャード・マニュエルのドラム、ロバートソンのギター、そしてチューバで参加するプロデューサーのジョン・サイモンと共演している。
そこでは、数多いるザ・バンドの模倣者たちがついにコピーできなかった、ルーズで活気のある雰囲気が感じられる(ザ・ビートルズは彼らの音楽を『Get Back』セッションで模倣するために、ビリー・プレストンをガース・ハドソン役として採用した)。批評家のロバート・クリストガウは、彼らとディランのコラボ作『Planet Waves』について、「野良猫の音楽――痩せこけていて、生意気で、階段を駆け上がって吠えている」と評した。その叫び声はハドソンのオルガンによるものだった。
60年代前半から際立っていたオルガン
他のメンバーと同様、ハドソンもロカビリーのベテラン、ロニー・ホーキンスにスカウトされ、彼のバックバンドであるホークスに加わった。ハドソンはオンタリオ州の農家の出身だ。「父は家にたくさんの古い楽器を置いていた」とハドソンは1968年、グループ初のインタビューでローリングストーン誌に語っている。「5歳くらいでピアノを始めたと思う」。彼はクラシックとともに、カントリー音楽も学んだ。「父はラジオでホーダウンが流れる局をよく探していて、12歳の時にはカントリーグループでアコーディオンを演奏していた」。
彼はホークスに最後に加入したメンバーで、毎週数ドルの追加報酬を受け取り、10代のバンド仲間たちに音楽理論とハーモニーのレッスンをしていた。リック・ダンコに音階の練習を提案し、ダンコを怒らせたが、結果的にバンドの音楽性を向上させた。気質的にも(そして視覚的にも)、彼は際立っていた。「24歳の時も50歳の時も、彼はまったく変わらなかった」とロバートソンは『Across the Great Divide』で語っている。「彼は本っ当にゆっくりと話し、他の人よりも少し移り気だった。いつだって何かを発明し、何かを解明しようとしていた」。
ロニー・ホーキンスは他の人々と同じように、この奇妙な男をどう理解すべきか分からなかった。「ガースは変わっていた」とホーキンスは振り返る。「彼は頭の中でさまざまな奇妙な音を聞いていて、オペラ座の怪人のように演奏していた。彼はロックンロールの人間ではまったくなかったが、だからこそよかった」。1963年の初期のB面曲「Theres a Screw Loose」をチェックしてみよう。これはハドソンの凄まじいオルガン演奏が聞ける初期のショーケースだ。
ホークスはホーキンスと袂を分かち、ディランのバックを務め、その後「ザ・バンド」として活動を続けた。「彼らはデューク・エリントンとディランと共演した」とローリングストーン誌の共同創設者ラルフ・J・グリーソンは述べている。彼らはハドソンの時空を超えた専門技術によってそれを成し遂げた。ライブにおける彼のもっとも注目すべき瞬間は「The Genetic Method」。次の「Chest Fever」へと続く、8分間にわたるバッハ風のイントロだ。「彼はまるでオルガンとオーケストラのための協奏曲を演奏しているかのようだ」と、グリーソンは1972年のサンフランシスコ公演評で書いている。「それは独自の音楽世界となり、ファッツ・ウォーラー以来、ユーモアのセンスを備えた唯一のオルガン演奏となった」。
60年代のヒッピーの基準から見ても、この男は際立った個性を持っていた。アル・クーパーは1968年、ローリングストーン誌に掲載された『Music from Big Pink』のレビューで「ガース・ハドソンは、私がこれまでに出会った中で最も変わった人物の一人だ」と綴っている。「もしハーヴィー・ブルックス(『追憶のハイウェイ 61』セッションのベーシスト)がロックンロール界の優しいグリズリーベアーだとしたら、ガースは優しいヒグマだ」。クーパーと同様、ハドソンもディランとの共演で最も野性的な演奏をいくつか披露している。1966年のシングル「Can You Please Crawl Out Your Window」や『Blonde on Blonde』のハイライト「One of Us Must Know」、さらには「Number One」「Shes Your Lover Now」「Seems Like a Freezeout」(「Visions of Johanna」の初期バージョン)などの重要なアウトテイクでも、ハドソンは奔放な演奏を披露している。スロー・バージョンは怒りに満ちたものだが、より速い(優れた)バージョンはもっと桁外れだ。
ハドソンは、ザ・バンドのギアヘッドでもあり、ビッグ・ピンクの地下に即席のレコーディング・スタジオを設置した人物でもある。ザ・バンドとディランはそこでサマー・オブ・ラヴを過ごし、伝説の『Basement Tapes』を制作した。彼はコンクリートブロックの地下室をジャムセッションができる「クラブハウス」に変えた。2トラックのテープレコーダーとミキサーを設置し、ステレオ録音も可能にした。ヘルムは自伝で「ガースが湯沸かし器の上にマイクを1本置いていた」と書いている。それはファンキーで素朴なサウンドだった。ハドソンは2012年、「唯一の問題は、暖房が効きすぎていたことかもしれない」と、ローリングストーン誌のデヴィッド・ブラウンに語っている。
以来、世界中の人々がマリファナを吸いながら、その場所で生まれたアメリカン・ソングの奥深い謎に浸りつつ、彼らが作り出した音楽を聴き続けている。彼はセッションをオープンリール・テープに録音したが、そのテープはすぐに海賊版が出回った。公式の『Basement Tapes』のサンプル盤は1975年に発売されたが、その後も海賊版が出回り続け、2014年のボックスセット『The Complete Basement Tapes』までその流通は続いた。
ザ・バンドという共同幻想の終焉
ザ・バンドとは友情の象徴であり、他のミュージシャンたちにとっては、自分たちもこんな仲間になりたいと思わせる存在だった。ウッドストックでバンドと行動を共にしたジョージ・ハリスンは、他のビートルズのメンバーの言いなりになることはもうできないと感じた。彼はリンゴ・スターとともに、「Sunshine Life for Me (Sail Away Raymond)」でハドソン、ロバートソン、ヘルム、ダンコ(要するにリチャード・マニュエル以外の全員)と共演した。ガースは誰よりもバンドを友情で結びつけ、誰もがその友情を共有したいと切望する存在にしてきた。
ハドソンは後年、ウィルコ、ニーコ・ケース、マーキュリー・レヴといった若いアーティストたちや、ロバートソンやヘルムといった旧友たちとも共演し、その演奏によって彼らの音楽を高めていった。彼は2022年に他界した妻モードと43年間結婚生活を送っていた。彼は常にエゴがなく、自分の世界から優しさを放つ存在であった。ローリングストーン誌が70年代に愛情を込めて呼んだように、「謎めいたおでこ(the enigmatic forehead)」であり続けた。
80年代にはMTVにも登場した。1983年にニューウェーブのギターバンド、ザ・コールが発表した奇妙なヒット曲「The Walls Came Down」で共演しているのだ。そこで彼は、カメラに向かってポーズを取るのではなく、ただシンセの前に座ってうつむいていた。メン・ウィズアウト・ハッツやスパンダー・バレエのビデオの合間に、あの見慣れた髭のおじさんがMTVに登場したのだ。ガースは素晴らしく平凡で、まるで別の惑星から来た宇宙人のようだった。
ザ・ナショナルのブライス・デスナーとアーロン・デスナーが2016年に企画した、グレイトフル・デッドのトリビュートアルバム『Day of the Dead』に収録された「Brokedown Palace」では、まるで永遠の別れを告げるような美しいスポットライトを浴びている。ボーカルは教会の聖歌隊のようだし、アーケイド・ファイアのリチャード・リード・パリーが参加しているが、ハドソンのオルガンこそがこの曲の魂である。最後の1分間、ハドソンが先導して、子守唄から葬送行進曲へと変貌する。
ガースはザ・バンドの最後の生き残りであり、彼の死は彼らの兄弟関係の終わりを意味する。世界はこの5人組のグループを、理想的な友情の象徴、共に働き、共に暮らし、喧嘩や口論をしながらも、そこから荒々しい美しさを生み出す共同体として見ていた。彼らの音楽とは、その友情のサウンドであり、その友情は、あらゆる葛藤や矛盾を伴いながらも、崩壊していくまで続いていた。ガースは他の誰よりもその共同精神を象徴していた。それは、彼が他のどこかにいる姿を想像することが不可能であるという理由だけでも明らかだ。彼は本当にザ・バンドの一員だった。だからこそ世界は今、ガース・ハドソンを追悼しているのだ。彼はアメリカン・スピリットの奥深くに眠る、太古の昔から受け継がれてきたものを体現していた。彼の死がザ・バンドの終焉だとしても、彼らが作り出した音楽の中には、ガース・ハドソンがすべてをまとめ上げていたように、これまで同様に活気あふれる彼らの友情が生き続けている。
1974年撮影(Photo by Michael Putland/Getty Images)
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