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「戻れる場所ない」能登地震で自宅は土台から崩れた…大阪に避難の高齢夫妻が下した決断

産経ニュース / 2024年6月30日 11時0分

藤沢さんの妻、雅子さんが避難先の大阪府営住宅に持ってきた貝殻。後ろの貝細工は父親が作ったもの=大阪府泉佐野市

元日の発生から7月1日で半年となる能登半島地震は、多くの人の人生を変えた。生まれ育った石川県志賀(しか)町を1月中旬に離れ、大阪府に避難している高齢夫妻は自宅を今後取り壊し、顔なじみが少ない避難先で生きていくことを決めた。望郷の念は断ちがたい。それでも余震のリスクを考えると「戻れる場所は、もうない」。県外避難を続ける被災者は6月11日時点で916人。それぞれが岐路に立っている。

最低限の物だけ持参

大阪府泉佐野市の府営住宅。志賀町出身の藤沢吉朗(きちろう)さん(74)と妻の雅子さん(66)は府が被災者に提供する一室で避難生活を送る。

3DKの部屋は冷蔵庫や洗濯機など備え付けの家電製品が目立ち、故郷の日用品は多くない。藤沢さんは「持ってきたのは、洋服など必要最低限の物だけ。ほかは家に残してきた」とうつむく。

元日の地震発生時、2人は木造2階建ての自宅でくつろいでいた。神棚や家具などが次々と倒れてきたが、かろうじて外に逃げ出した。帰省し、外出中だった長女(35)と次女(33)とも合流。幸いにして全員けがはなかったが、自宅は土台が崩れ半壊した。

家族4人で近くの中学校などに身を寄せ、発生2週間後の1月15日に娘たちが暮らす同府貝塚市の集合住宅に避難。2月上旬には府の支援で、貝塚市に隣接する泉佐野市の府営住宅に入った。

地震前に楽しんだ世間話、今は…

普通に生活できるだけでもありがたいが、避難先には親族以外に知人はいない。藤沢さんは「知らない土地で暮らすのは心細い」と打ち明ける。

避難に伴い、石川県七尾市のスーパーで続けていた総菜調理の仕事は辞めた。地震前は近隣住民たちと毎日のように世間話を楽しんだが、今は月1回程度、府営住宅の清掃時に近所の人と話すぐらい。外出の機会もめっきり減った。

娘たちと花見や銭湯などに行き、徐々に楽しみは増えてきたが、雅子さんは「ふとしたときに故郷の思い出の場所が脳裏をよぎる」と話す。

貝細工作る夢

思い浮かぶのは、自宅近くの増穂浦(ますほがうら)海岸。雅子さんは、時間を見つけてはピンク色に輝くサクラ貝や、紅貝などの貝殻を拾い集め、父親が得意だった貝細工を作る夢を描いていた。

今は、志賀町の自宅から箱などに入れて持ってきた貝殻を眺める日々。「夕暮れ時の増穂浦を思い出し、心が締め付けられる」と涙ぐむ。

志賀町の自宅に戻りたい。住み続けたい。それが本音だが、余震の恐怖が心に張り付いている。2人で思い悩んだ末、思い出の詰まった自宅を取り壊す道を選んだ。藤沢さんは前を見据えて、こう力を込める。

「戻れる場所は、もうない。悲しみはもちろんあるが、ここで生きていくと決めたんだ」(宇山友明)

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