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瓦礫の山と化した神戸 木の成長とともに街は再生した 震災から30年、安藤忠雄さんの想い

産経ニュース / 2025年1月17日 5時46分

阪神大震災から30年を迎え、被災地は美しく再生した=神戸市中央区(本社ヘリから、土井繁孝撮影)

この30年、本当に自然災害が増えた。規模も強度も拡大する一方だ。気候変動、行き過ぎた人間の開発活動など、要因はさまざまに言われる。だが、生命の危機に直面している被災当事者に、そんな議論に付き合っている余裕はないだろう。とりわけ昨年の能登半島地震被災地は1年が過ぎたいまなおインフラ整備も追い付かずに不便を強いられている人々もいるという。9月の豪雨がそれに追い打ちをかけた。予想を超えた自然の猛威にさらされ、理不尽に日常を奪われた人々の苦しさ、怒り。30年前の大地震を経験した私たちにはよく理解できる。

1995年1月17日当日、私は仕事でロンドンにいた。知らせを受けて直ちに帰国、被災地に入ったのは20日の朝だ。大阪から船で向かい、メリケン波止場に降り立った。あの時の衝撃は今も忘れない。子供の時分から身近にしてきた神戸は、大阪育ちの私のもう一つの故郷。知人も多く、仕事もたくさんしている。その心の風景が無残に破壊され、瓦礫(がれき)の山と化していた。関東大震災以来の都市直下の大地震。「もう駄目かもしれない」。絶望的な気持ちに襲われた。

しかし、神戸の人々は悲しみを抱えながら、しっかりと前を向いて歩きだした。誰も諦めてはいない。痛々しくも勇ましく、強(したた)かな姿に心打たれた。神戸を愛する彼らの情熱がいかに深く、揺るぎないものであるかを思い知った。そんな神戸人たちの先頭に、貝原俊民兵庫県知事がいた。震災当日から100日間庁舎に泊まり込み、ずっと青の防災服姿。目先の復旧ではない、100年先の未来に向けた「創造的復興」を訴え、陣頭指揮を執られていた。市井の人々の愛郷心と、それを束ねるこの圧倒的リーダーシップが、奇跡の復興を可能にした。

あの年の3月、被災地でも開花する木々が春を告げた。瓦礫の傍らに咲くモクレン、コブシの白い花を見つけたとき、救われた気持ちになった。この命の木を被災者とともに育てていくことが、亡くなった人々の鎮魂、残された人々の心の復興につながれば――そんな気持ちで植樹運動「ひょうごグリーンネットワーク」を立ち上げ、復興住宅戸数の2倍、25万本を目標にスタートした。植樹もその後の世話も、市民のボランティア。「去年よりもまた少し大きく育っている」そんな気づきの瞬間に喜びを感じた。

どんなに立派な慰霊碑より、このゆっくりとした木の成長の時間が、癒やしだった。そうして木々が街の風景に溶け込んでいく頃に、神戸は息を吹き返した。

「地方創生」としきりに言われるが、本質にあるべきは施設づくりやブランド戦略ではない、そこに生きる人々の街への愛情、心のつながりをいかに強固に育むかという話だ。自分たちの街をいかに創り育てていくか。子供たちに何を残せるか。一人一人の想(おも)いが街の力である。

あんどう・ただお 昭和16年、大阪市出身。高校卒業後、プロボクサーを経て独学で1級建築士合格。54年に「住吉の長屋」で日本建築学会賞受賞。建築界で最も権威のあるプリツカー賞など受賞歴多数。平成22年に文化勲章。

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