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ミューズのまま逝った「私のフランソワーズ」 青春の日の憧憬は今も モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら(179)

産経ニュース / 2024年6月22日 11時0分

下から「さよならを教えて」「星空のフランソワーズ」、最後のアルバム「PERSONNE D’AUTRE」

ディランを魅了したフレンチ・ポップの象徴

地球からひとりのミューズが姿を消してしまった。 フランソワーズ・アルディが亡くなったことを6月11日に親族が明らかにしたというニュースを目にし、こんな感想を抱いた。

歌手であり作詞作曲も手掛けた彼女は、モデルや女優としても活躍したが、私にとってはどんな肩書もしっくりこない。どうしても枕詞(まくらことば)を付けるとしたら「ミューズ」、それ以外に浮かばない。

1944年、パリに生まれ、62年に自作曲「男の子と女の子」でデビューした彼女は、知的でどことなく翳(かげ)りのある美しい容姿も相まって、たちまちのうちにフレンチ・ポップを象徴する存在となった。

そんな彼女の虜(とりこ)となったボブ・ディラン(41年生まれ)が、64年発表のアルバム「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」の裏ジャケットに、彼女にささげる詩を載せたのは有名な話だ。詩はこう始まる。

《ふらんそわーず・あるでぃ/せーぬのふちで/のーとるだむの/巨大な影/わたしの足をひっぱろうとする/そるぼんぬの学生/以下略》(片桐ユズル訳)

ディランよ、ちょっとずるくないか。

66年5月24日(ディランの誕生日)、パリのオランピア劇場でコンサートを開いたディランは、策略を用いてホテルの部屋で彼女と2人きりになる機会を得る。ところが、彼女はアーティストとしてのディランに関心はあったが、男性としてはまったく興味が持てなかったという。

自己プロデュース力にもたけていた彼女は、アイドルにとどまることなく、自身の内面を噓偽りなく詩的に表現する大人のアーティストへと変貌を遂げていった。

2004年、彼女は悪性リンパ腫と診断される。化学療法を受けながら音楽活動を続けていたが、15年に意識不明の状態に陥る。ところが奇跡的に復活を遂げ、18年に新しいアルバムを発表する。静謐(せいひつ)で親密で、澄み切った諦観を感じさせるアルバム「PERSONNE D’AUTRE」(日本盤は未発売)だ。歌声はまったく衰えることなく、表現力は恐ろしいほど深みを増している。

このアルバムタイトルには、「他の誰でもないあなたに聴いてほしい」とのニュアンスが込められている。耳を傾けたファンの多くは、彼女を愛する人たちに向けた遺書だと直感したに違いない。

その中の1曲「Le Large」の公式ビデオクリップがユーチューブにアップされている。20代の彼女と70代半ばの彼女が交差する、とても凝った詩的な作品だ。「死に向かって静かな船出をしたい」という彼女の強い願いが感じられるようで、胸が締めつけられる。それにしても白髪になった彼女のなんと神々しく美しいことか! それは間違いなく内面からにじみでるものだ。ミューズはミューズのままだった。

モンテーニュは第3巻第2章「後悔について」にこんなことを書いている。

《老いは我々の顔よりも心に皺(しわ)をつける。いや、老いて酸味とかびとを帯びない霊魂は見たことがない。少なくともきわめて稀(まれ)である》(関根秀雄訳)

そう、彼女はきわめて稀な存在だった。

喉頭がんにも侵され、会話が困難になっていた彼女は21年6月、メールを介して英国紙ガーディアンのインタビューを受けている。そこで「終わりが近づいている」と自身の状態を告げ、フランスにおける安楽死の合法化を強く望んだ。さらに23年12月、フランス紙トリビューン・ディマンシュ紙上にマクロン大統領宛ての公開書簡を発表し、回復の見込みのない重病患者のために「安楽死の合法化」を検討してほしいと訴えていた。

彼女の人生をもっと知りたい。08年に発表した自伝の邦訳を、どこか出版してくれないだろうか。

荒井由実の歌でその存在を知る

昔話を少し。彼女の存在を知ったのは17歳のときだった。74年に出た荒井由実の2枚目のアルバム「MISSLIM(ミスリム)」のB面4曲目に収められた「私のフランソワーズ」によってだ。

レコードと写真でしか知らない彼女への憧憬(しょうけい)を、みずみずしく歌う曲を聴いて、わくわくするような疑問がわいた。「才能溢(あふ)れる荒井由実が憧れるフランソワーズって何者なんだ?」

初めて買ったアルバムは68年発表の「さよならを教えて」だった。ジャケットは鉛筆で描かれた彼女のポートレートだ。少しだけ張ったエラと、寂しさと哀(かな)しさと強い意志を秘めた目が印象的だ。

A面1曲目のタイトル曲は、おそらく彼女の曲の中でもっとも知られたものだろう。オリジナルは米国のポピュラーソング「イット・ハーツ・トゥ・セイ・グッバイ」。セルジュ・ゲンスブールがフランス語の詞を付けた。まさに「美女のあるところにゲンスブールあり」である。

まだ「アンニュイ」という言葉も知らない高校生は、たちまち彼女の囁(ささや)くような哀愁を帯びた歌声と、美しい容姿の虜となってしまう。すぐに67年発表の「もう森へなんか行かない」を購入し、しばらくの間は、彼女の2枚のアルバムを繰り返し聴いていた。

余談になるが、森田童子の「ぼくたちの失敗」や、西島三重子の「池上線」を初めて耳にしたときに、瞬時に思った。2人は彼女のファンに違いないと。

出逢(あ)いから半世紀。振り返れば、荒井由実が「私のフランソワーズ」で歌ったように、さびしいときには、しばしば彼女の歌に帰っていた。自分の人生で彼女に出逢えたことをとても幸運に思う。だからこそ余計に、彼女の「船出」が安らかであったと信じたい。

彼女の逝去を知り、手元にある8枚のアルバムをとっかえひっかえ聴いてみた。現在の心境にやさしく寄り添ってくれたのは、77年発表の「スター(邦題・星空のフランソワーズ)」だった。冒頭に置かれた「スター」がとりわけ心にしみる。オリジナルはジャニス・イアンの「スターズ」だ。ショービジネスの世界で輝き消えていったスターたちへのオマージュ。

この曲に彼女は自分でフランス語の歌詞をつけて歌っている。心地よい響きに耳を傾ける。フランス語をまったく解さない私だが、不思議なことに、彼女の繊細な心の機微がダイレクトに伝わってくる気がするのだ。そうして思い出す。自分にも甘酸っぱくほろ苦い青春というものがあったことを…。

フランソワーズ、ありがとう。どうか安らかに。

=敬称略(桑原聡)

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