「異界への案内役をするらしい」 神秘的な月光が見る者に与える影響は <イチオシ詩歌>アンソロジー『月のうた』
産経ニュース / 2024年10月13日 8時20分
やっと秋が訪れた。ほっとひと息つく。冷えた夜風に当たりながら月を眺める。満月であれ、上弦の月であれ、下弦の月であれ、その光は神秘的な影響を見る者の精神に与える。そうして生まれたのがベートーベンの「月光ソナタ」であり、ドビュッシーの「月の光」であり、シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」である。シンガー・ソングライターの荒井由実さんは14番目の月がいちばん好きと歌ったが、個人的には悪魔が持つ鎌のような鋭い月が最も好きだ。
さて、この季節にぴったりの歌集を紹介したい。月をテーマに同時代の歌人100人が詠った100首を掲載したアンソロジー『月のうた』(左右社・2200円)だ。編集者(筒井菜央さん)の歌を愛する心がひそやかに感じられる、小ぶりで質素な装丁の、すてきな歌集である。まず紹介したいのが、短歌ブームの嚆矢となった『サラダ記念日』で知られる俵万智さん(昭和37年生まれ)の作品だ。
《星の本を子と読みおれば「月までは歩いて十年」歩いてみたし》
何の衒(てら)いもない素直な詠いっぷりに、俵さんの精神の豊かさがふんわりと伝わってきてほのぼのとさせられる。
次は水原紫苑さん(34年生まれ)の歌。
《まつぶさに眺めてかなし月こそは全(また)き裸身と思ひいたりぬ》
月は裸身のままで凜と美しく存在している。かたや自分たち人間は…。「まつぶさに」とは「余すところなく」の意。古典の伝統を継承した水原さんらしい、品格と底知れぬ奥行きを感じさせる歌だ。
種田山頭火や井伏鱒二に通じるユーモア、おおらかさを感じさせる永田和宏さん(22年生まれ)の歌もすてきだ。
《ふところに月を盗んできたようにひとり笑いがこみあげてくる》
作者はその後、ひとり冷酒で祝杯をあげたのでは、と想像してしまう。
本書の冒頭に置かれた早坂類さん(34年生まれ)の歌にも引き込まれる。
《異界への案内役をするらしい満月の夜をあるくかまきり》
月光に映しだされるかまきりの姿と影が鮮やかに浮かぶ。シェーンベルクは、かまきりに案内されて作曲したのではと妄想をたくましくしてしまう。
佐藤弓生さん(39年生まれ)の作品は幻想的で透明感に満ちている。
《月光に削(そ)がれ削がれていつの日かいなくなるときわたしはきれい》
この月光は鎌の形をした月の光だと思う。その光を浴びて自分の肉体はどんどん削がれて消えてしまう。その昔、月光写真家の石川賢治さんの『月光浴』という幻想的な写真集を繰り返し眺めていたことがある。その時の静謐な心持ちを想起させる歌だ。いなくなった私は月に帰っていったのだろうか。そして記憶だけが残される。それは美しい。解釈するよりも月の光を浴びるように受け止めるだけでいいのかもしれない。
永井祐さん(56年生まれ)の歌は胸がキュンとする。
《月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね》
上と下の間に2文字の空白。そこには揺れる思いが込められている。
宝石箱のようなこのアンソロジーの巻末には、登場する作者の略歴と代表的歌集が紹介されており、気に入った歌人を深掘りしたいときにとても役に立ちそうだ。 (桑原聡)
=次回は11月10日掲載予定
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