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東大が「真っ先に共産主義を唱える学校」になると予言した福澤諭吉 「反・東大」の思想史

産経ニュース / 2024年6月11日 7時0分

『「反・東大」の思想史』の表紙

日本の学歴社会の頂点に立つ東京大(帝国大)に対し、慶応義塾を創設した福澤諭吉、早稲田大など在野の対抗勢力は、いかに対抗し闘ったのか。5月に出版された『「反・東大」の思想史』(新潮選書)が、東大を巡る複雑かつアンビバレント(二律背反)な感情を描き出していて興味深い。特に福澤は帝大を批判しつつ、息子2人を帝大に通わせようとし、さらには帝大への共産主義の侵食を予言もしていた。同書の一部を紹介する。

冷遇に態度硬化させ

筆者の尾原宏之さんは昭和48年生まれ。早大出身で、NHKに入局して芸能番組などを手がけ、退職して現在は甲南大学教授を務める。『「反・東大」の思想史』については「東大を中心とした構図で日本の近現代史を見てみた」と語る。

同書などによると、福澤が開いた慶応義塾は安政5(1858)年に創設した蘭学塾を起源とし、明治4(1871)年設置の文部省より歴史は古い。開塾5年の文久3(1863)年から明治4年までの入門者数は1329人を数え、「日本中苟(いやしく)も書を読んで居る処は唯慶応義塾ばかりという有様」(「福翁自伝」)という存在だった。

しかし、10(1877)年に東京大が創設、19(1886)年に帝国大へと再編される一方で、慶応義塾は政府に特別扱いを拒否されるなど冷遇が続いた。それとともに福澤は態度を硬化させ、教育に国がカネを出すことを否定する論陣を張り、さらには官学の全廃を求めるようになる。

一方で、東京大が創設された翌年、福澤の長男、一太郎と次男、捨次郎が東京大学予備門に入学した。尾原さんは「現代でも私大教員が自分の子女を勤務校ではなく東大に進学させることがたまに話題になるが、福澤はその先駆けであった」と書く。しかし2人とも退学しており、大きな理由は健康状態にあったとみられる。

やがて福澤は「富家の師弟は上等の教育を買ふ可く、貧生は下等に安んぜざるを得ず」(「官立公立学校の利害」)として、金持ちの子弟が高度な教育を受け、貧乏人は低いレベルの教育で満足するのが当たり前だと断言し、官公立学校が学費を安くして「貧家の子弟」に門戸を開いていることを批判するようになる。

その理由の一つが、「学問を修め精神を発達させると、どうしても社会の不完全さが目につき、不満を抱くようになる」(同書)からだった。「天は人の上に人を造らず」とした自著「学問のすゝめ」を否定するような主張だが、福澤が同時期に周囲に語り出したのが、共産主義への懸念だったという。

尾原さんは「知識を得てもポストを得られない人が不満を持ち、結社集会や新聞演説といった手段に走り、暴れだす。それをあおる思想が西洋で出てきていることへの福澤の気づきは、非常に早かった」と指摘する。

ある者が「真先に立って共産主義を唱える学校が日本にあるとすれば、それは慶応義塾でしょう」と尋ねたのに対し、福澤は「それは違う。将来真先に立って共産主義を唱える学校は政府の学校・帝国大学に決りきっている。今に見ろ、この学校が共産主義の根強い根拠になり、学生は勿論教授の間にも共産主義を沢山出し政府は非常に困るに相違ない」と答えたという。

「マルキストと手を握り」

ここで『「反・東大」の思想史』の終盤にある「小田村事件」に触れてみたい。昭和13年、東大法学部の学生、小田村寅二郎が東大での講義の実態を外部の雑誌に論文として書いて明るみに出し、最終的に退学処分となった「事件」だ。

論文で小田村は、日中戦争で多くの日本軍将兵が血を流しているさなか、法学部の国際法講義で他国との条約の拘束を免れるためにはどうすればよいかという試験問題の答案に教授が「自国が当事国以外の第三国に併合せられればそれでよい」と書いた者が10人以上いたことを笑いながら紹介し、学生を爆笑させたことに憤激した。また、小田村の手になる「昭和史に刻むわれらが道統」(日本教文社)によると、別の教授は「我々は(自由主義者の意)今こそマルキストと手を握り、共に人民戦線として右翼に砲弾を打ちこまねばならぬ」と熱烈な口調で述べたという。

福澤の「予言」は、的中していたことになる。

小田村は仲間と日本学生協会を設立するなどして学風改革に取り組んだ。『「反・東大」の思想史』はこれを「反・東大」の文脈の中に置くが、小田村たちの行動は、東大が日本最高学部でなければならないとする自負と一体でもあった。尾原さんは「東大に対する反逆ということでは大きい運動だが、愛校心の塊のように見える」と話す。

露骨な学歴差別の時代

同書では、早大の創設に東大学生らが関わっており、官学廃止を唱えた福澤のような東大批判の明快さはなく、アンビバレントな東大観が特徴的だったこと、「官吏の東大、実業界の慶応、新聞記者・政治家の早稲田」といったカラーが明確にあったこと、学問で東大を凌駕しようとした一橋大、東大への対抗心を燃やした京都大などの動きが、当時の文献を基に描き出されている。

尾原さんは執筆の動機に絡み、「今ほど学歴差別が露骨に語られる時代はなかったのでは」と話す。ひと時代前ならインターネットの掲示板に書かれた陰口は、交流サイト(SNS)で一般に可視化され、テレビで「東大生」を看板にする番組も珍しくない。本書の執筆で学歴差別意識の源流を追って調べていく過程で、「東大に対するリアクションで世の中ができあがっていることに改めて気づいた」という。

幕末にあった私塾は、明治の近代化の中で大半が姿を消し、慶応義塾も翻弄された。「あと100年時間があれば、私塾も慶応も違った発展の仕方があったのでしょう。しかし、とにかく高速近代化に対応するしかなかった。その辺のいびつさが、今のいろんな問題の源流にあるのかなと感じました」と尾原さんは語る。(鵜野光博)

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