パリの安キャフェで夜食、牛の頭や豚の鼻の総菜…「昭和」が香る料理エッセー <ロングセラーを読む>『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』
産経ニュース / 2024年11月24日 7時0分
近所の輸入食品店でインスタントコーヒーの大瓶を買ったら、2カ月前より100円も値上がりしていた。
長期的な円安傾向で食品の値上げが相次いだが、日米欧の先進5カ国がドル高是正で協調した1985(昭和60)年のプラザ合意の前は1ドル=240円台。遡れば360円の時代もあった。
海外旅行が今ほど気軽でなかった昭和の時代、フランス料理はもっぱら高級レストランで、かしこまって食べるものだった。そんな頃にパリの家庭や町場の料理を伝えていたのが、本書『巴里(パリ)の空の下オムレツのにおいは流れる』収録のエッセーだ。
「安キャフェ」で食べる熱々の夜食、家庭で作られるスープ料理、牛の頭や豚の鼻を使った総菜…。1951(昭和26)年にパリでデビューしたシャンソン歌手、石井好子(大正11年~平成22年)が雑誌『暮しの手帖』で50年代のパリの暮らしをつづり、昭和38年に単行本化、ベストセラーとなった。
60年刊行の姉妹編『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』とともに平成23年に河出文庫に収められ、今年9月にカバーが一新された。
写真はないがレシピや調理手順が簡潔な文章で記され、卵の焼ける匂いとともに立ち上る湯気や、ぐつぐつと煮えるスープが目に浮かぶ。日本のネギをゆでて酢油をかけたら「けっこうオードブルらしくみえる」など、和の食材をフランス風に調理する方法も書かれているので、自分で作ることもできる。
表題作のテーマは、石井が下宿していたアパートの女主人、マダム・カメンスキーが作るオムレツはなぜ特別おいしいか。コツは強火で手早くかきまぜ、焼きたてを食べること。食べ物に愛情を感じることも挙げている。女主人は白系ロシアの未亡人で、その粗末なアパートには亡命ロシア人が多く住んでいる、といった描写が旅情をそそる。
「ずいぶんたくさんバタを入れるのね」
「そうよ、だから戦時中はずいぶん困ったわ」
マダムとの会話の後、戦時中はマダムがバターの代わりに「ハムのアブラ身」を使ってオムレツを作っていたというエピソードが挿入されている。こうした戦争の記憶が挟まれるのも、本書を味わい深いものにしている。
ほかにも、戦争中にジャガイモばかり食べさせられても飽きず、「ノルマンディー風じゃがいも料理」が好きだとか。食べ物のありがたみに気づかされるのだ。
河出書房新社によると、発行部数は文庫版だけでも『パリの-』が5万6000部、『東京の-』は3万部。親が『暮しの手帖』の購読者だったという40~50代や、20~30代の新たな読者もつかんでいる。バターを「バタ」と書く古風な表記は、古い海外児童文学に出てくる「バタつきパン」などと同様にノスタルジックな響きがあるが、若い世代には単語だけでなく内容も新鮮に感じられるのだそう。
評者も子供の頃、『暮しの手帖』で石井のエッセーを読んでいた一人。最も鮮明に覚えているのは『東京-』収録の戦時中のエピソードだ。
石井は珍しく手に入った1人1個の卵を、雑誌で読んだだけのスフレオムレツに使って皆をがっかりさせ、各自の食べたい物を聞けばよかったと後悔する。悲惨な戦争体験ではなく、日常の延長線上で語られるのが新鮮だったのかもしれない。昭和の記憶を呼び覚ます名著。 (寺田理恵)
『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』石井好子著(河出文庫・880円)
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