1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

わずか10年で廃都、謎多き「長岡京」に解明手がかり 域外にも碁盤の街を形成か

産経ニュース / 2024年9月19日 18時0分

国家の立て直しを図る目的で桓武天皇が平城京から都を移した長岡京(784~94年)の外側から、長岡京内と同じ規格で設けられた道路交差点が出土し、19日、京都市埋蔵文化財研究所が発表した。京の外に京内と同様の形の碁盤の街が形成されていた可能性が高まり、市埋文研は「不明な点の多い長岡京の運営プランを知る重要な成果」としている。

L字状の側溝跡

道路整備に伴い、長岡京のやや東寄りの北端に隣接する京都市南区久世殿城町の遺跡(約800平方メートル)を調査。その結果、京内の南北道「東二坊坊間小路」が京外に延伸し、北120メートルの地点で東西の道と交差したことを示すL字状の道路側溝(そっこう)跡が出土した。

これまで長岡京の京外で同時期の建物跡や道路跡の出土例はあるが、道路交差点の跡が確認されたのは初めて。東西の道は幅約9メートルと判明し、南北の道の幅は分からなかったが、調査区からさらに北方に延びていることも分かった。

交差点は、道路で四方を区画した地割を行っていたことを示す証拠といえる。しかも状況から、京内と同じ土地区画「1町」(120メートル四方)に見合う区画が京外でも行われていたことも確認された。周辺では掘っ立て柱の建物跡も出土。柱の直径は約20センチで、下級役人の宅地程度の規模だという。

龍谷大の國下多美樹教授(考古学)は今回の調査について「都の外で京内と同じ街並みが形成されていたことを意味し、意義深い発見となった。謎多き長岡京の解明につながることを期待したい」と話している。

従来の想定見直しも

桓武天皇が平安京に先駆け造営した長岡京はわずか10年で廃都となっただけに謎も多い。そうした中、京域の外から都城と同じ町割りに基づく道路や建物跡が出土した。専門家からは長岡京を巡る従来の想定の見直しを訴える声も出ている。

「長岡京の北方で街が形成された跡が出てきた。従来の都の形を見直す時期に来たのかもしれない」。現場を調査した京都市埋蔵文化財研究所の南孝雄調査課長はこう切り出した。

長岡京は従来、政治の中心になる大極殿などがある宮を都の北端中央に配置する「北闕(ほっけつ)型」と考えられてきた。ところが、本来は大規模道路とみられてきた北端の東西道(北京極大路)の道幅は9メートルにとどまり、一般的な大路の半分にも満たないことが判明。都の北部を巡り、多くの疑問が存在していた。

「大長岡京説」を補強

また長岡京の南東部は桂川と重なり、川の氾濫でたびたび被害を受けてきた。こうした経緯もあり、住民が宮の北方に移り住むようになった説がある。そのほか、計画当初から宮の北方で街が展開する「大長岡京説」などもあった。

古代都城の歴史に詳しい近畿大の網伸也教授は「今回の結果は大長岡京説を補強する資料になった。都の北方では今回も含め、小規模の道路跡しか出ていないため、大規模な道路が出ればより確実になる」と今後の調査に期待を寄せた。

現地説明会は21日午前10時半に行われる。(園田和洋)

長岡京 桓武天皇の命で、延暦3(784)年に奈良の平城京から遷都した。強大化した奈良の寺院などの勢力から切り離すことが目的の一つだったと伝えられ、現在の京都府向日市、同府長岡京市、京都市などにまたがったエリアに築かれた。遷都の主唱者の藤原種継が暗殺されるなどしたため、同13(794)年に造営は中止、平安京に遷都した。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください