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「手向かうならば斬り捨てる」 近藤勇が一喝した池田屋事件と歴史見守ったご近所さん 誠の足跡 新選組を行く

産経ニュース / 2024年7月16日 10時30分

小刀屋忠兵衛も名を記した

元治元(1864)年旧暦6月に起きた池田屋事件。新選組が密談中の長州藩士ら尊王攘夷派を襲撃したことで知られる。新選組がその名を歴史に刻んだ事件から今年で160年。京の街に夏を告げる祇園祭宵々山の出来事は、幕末の大きな転換点となった。

潜伏の志士を急襲

祇園祭が幕を開けた7月、観光地として知られる街は普段よりも活気にあふれているようだった。

「僕が子供だった昭和30年代、一帯には旅館が軒を連ねていてね。池田屋跡も旅館で、親父とすき焼きを食べた思い出がある」。三条大橋の西側、高瀬川にかかる三条小橋のたもとで、同行する幕末維新史研究家、木村幸比古さん(75)が振り返る。

「旅籠(はたご)御改めである」

160年前の6月5日、三条小橋から西7軒目にあった旅籠池田屋に近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助が飛び込んだ。

発端は、新選組が四条小橋の馬具商、枡屋喜右衛門こと古高俊太郎を捕縛したことだった。前年の八月十八日の政変で長州藩主体の尊王攘夷急進派は京を追放されたが、古高はひそかに支援。新選組は古高を拷問の末、強風の日に御所に放火し孝明天皇を長州に連れ去る計画で、志士らが潜伏しているとの情報を得た。

潜伏先を探るため近藤隊、土方歳三隊と二手にわかれ、近藤ら数人は木屋町筋、土方率いる約30人は祇園に向かう。その最中、近藤隊に長州藩の定宿・池田屋の情報が寄せられた。

「手向かうならば容赦なく斬り捨てる」。抜刀した近藤が、集まっていた約20人を一喝した。

《その時、勇猛な志士ひとりがやにわに斬りかかる。すかさず沖田の剣がこの者を捕らえ一刀のもとに斬り倒した》(永倉の手記)

手記によると、台所から表口は永倉、庭先は藤堂、奥の間は自身と、近藤自ら持ち場を決めた。それでも相手は多勢。結核だった沖田が吐血し、藤堂は傷を負った。近藤も3度ほど斬られそうになったという。そこに、土方隊が駆け付け、危機を脱した。

市民は全貌知らず

「池田屋さんは取りつぶしになって(主の惣兵衛は)獄中死。町内としては困ったことやなという話になったようです」

こう語るのは、三条通を隔てて池田屋跡の斜め向かいにある「有職京人形小刀屋忠兵衛」の12代目、大西弘太郎さん(70)だ。同店は、明暦2(1656)年にこの地で旅籠として創業。当時、池田屋はまだなく、文政13(1830)年の町内の宿屋株仲間(組合)の「諸式納帳」では、小刀屋忠兵衛とともに池田屋惣兵衛の名と黒印がある。

池田屋事件は新選組の代名詞ともなり、後に小説や映画でたびたび取り上げられたが、木村さんによると、当時は事件後も瓦版や錦絵でも扱われなかった。「京都守護職・松平容保(かたもり)は天皇の庭である京での大捕物を控えており、新選組と志士の小競り合い程度にしたかった。市民は事件の全貌を知らなかったのではないか」

一方で事件は新選組だけでなく、幕末史にも大きな影響を与え、明治維新が遅れたとも早まったともいわれる。木村さんは指摘する。「池田屋事件がなければ(約1カ月後に起きた)禁門の変は誘発されなかった。幕末の分岐点であり、導火線に火をつけた出来事だったことは間違いない」

旅籠から旅館、パチンコ店などと変遷をたどり、現在は飲食店となった歴史の舞台には「池田屋騒動之址」の碑がたたずむだけだ。

ご近所さんが語り継ぐ歴史舞台

160年もの時を超えて旅籠池田屋のご近所さんが現在も残る-。こうしたところが歴史の舞台、京都の魅力の一つだろう。

町名は幕末から同じだが、街並みはがらりと変わった。三条大橋の西側に広がる中島町、ビルが立ち並ぶ一角に「有職京人形小刀屋忠兵衛」はある。

《幕末維新ミニ資料館ご自由にご覧下さい》

昔ながらの店構えの入り口にはこう掲げられ、店内には江戸時代の中島町の地図や古文書などが展示されている。「店が忙しくないときは数時間説明するときもありますわ。向かいが池田屋跡とは知らない方もいはるんです」。店主の大西弘太郎さんは説明する。

40年前に父の跡を継ぎ、約8年前から古文書のコピーなどを展示し始めた。町内で当時のまま店を構えて居住しているのは、ここだけ。それでも古文書はあくまで町内からの大切な預かり物との認識の一方で、「誰にも見せんかったら意味ないしね」とも語る。

江戸時代、東海道の終着点として栄えた三条大橋界隈(かいわい)。今や京都のメインストリートは四条通、玄関口は京都駅だが、江戸時代はいずれも三条だった。

同店は幕末まで旅籠を経営し、明治時代には呉服店に。店舗兼住宅は昭和3年、三条通の拡幅に伴って再建された。自身も出身小学校は土佐藩邸跡で、家の近所も池田屋跡だけでなく、坂本龍馬ゆかりの近江屋跡など、歴史の舞台が無数にある。もっとも歴史には興味がなかったが、身近な場所が登場する司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」は学生時代に1週間ほどで読み切ったほど熱中した。

「京都は50メートルも行けば歴史にまつわる何かがある。観光スポットだけではない場所が多くあることを知ってほしい」

地元への愛着が歴史を知る契機となっていく。地元商店街理事長だった約20年前は毎年7月に池田屋跡周辺で志士らの供養のため、焼香台や史料を掲示し慰霊祭を営んだ。

「あの時代がなければ今の日本になってまへんやろ」。近代国家の礎を築いた時代や先人への思いとともに、歴史に向き合う大切さをかみしめている。(池田祥子、写真も)

きむら・さちひこ 昭和23年生まれ。国学院大卒業後、明治維新総合博物館の霊山歴史館(京都市東山区)で学芸課長、副館長などを歴任し、令和2年秋から同館学術アドバイザー。産経新聞で「幕末維新伝」「新選組外伝」を連載したほか、著書多数。歴史番組での時代考証・監修も務める。

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