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明治政府から危険視された「昭憲皇太后の家庭教師」 攘夷一直線の彼女が異郷に遺した思い 不遇列伝

産経ニュース / 2025年2月5日 8時0分

若江薫子の「放鶴」。自由を得た鶴に我が身を重ね、籠の中で地位や権力を争う人たちに囲まれて暮らすことを望みはしない、といった心境が読み取れる(個人蔵)

歴史を紐解けば、才能がありながら巡り合わせが悪くそのまま終幕を迎えた不遇な人たちがいる。このような境涯をたどれば、現代を生きる我々へのヒントがあるのではないか。1回目は、純度の高い勤王の素志を持って、明治新政府に体当たりした女性を取り上げる。

建白また建白で煙たがられ

<京都は死に瀕したベルサイユ。活気から見捨てられている>

明治6年に京都を訪れたフランス人がそう記している。千年の都が維新を境に、火が消えたようになった。この4年前、天皇、皇后が相次いで東京に行幸、行啓し、次第に拠点が東京に移っていった。

京都に当時、女性の身をもって尊王攘夷を鼓吹し、遷都反対を強硬に訴える人物がいた。漢詩や和歌に秀でた学者で、皇后の家庭教師だった若江薫子(におこ)である。

「ひとたび時勢を語れば弁舌ほとばしり、熱い涙を流すといった女性でした。西欧化を急ぐ政府を痛烈に批判し、建白書を繰り返し提出したことで、建白女とあだ名されました」

名古屋大学元教授の榊原千鶴さんはそう話す。11年前に上梓した『烈女伝 勇気をくれる明治の8人』(三弥井書店)では、薫子に1章を割いた。

薫子にとって遷都は皇室を軽んじる政策だった。建白自体は問題ない行為だが、皇后の師が激越な建白書を政府に突き付ける。周囲はそんな彼女を危険視した。

明治2年、政府高官で開国論者の横井小楠が暗殺された。彼女にとっては小楠こそが乱臣。犯人たちの罪を減じるよう嘆願した。

木戸孝允はこのころ、岩倉具視に手紙を出している。

<若江と申す婦人には稀なる学者にて外国の事を憤り上書等もこれあり>

薫子が国政の妨げになりはしないかと憂慮する内容だ。これに対し、薫子と漢学塾で同門だった岩倉は、心配には及ばないとしながらも、こう返した。

<手の付け方これなき者に候>

木戸や岩倉が手を焼いているのがよく分かる。

翌3年、薫子は小楠暗殺に連座して拘留される。犯人グループと接点のあった儒学者と、わずかながら交流があったことが口実にされた。2年間の幽閉の果てに公家社会から放逐されて西国を流浪、11年に知人を頼って香川・丸亀に流れ着いた。

お后選びに意見を求められ

薫子は天保6(1835)年、伏見宮家に仕える公家、若江量長(かずなが)の娘として生まれた。若江家は菅原道真の流れをくむ家柄だ。

10代で中国の主要な書物をそらんじ、難解な漢詩に注を施して周囲を驚嘆させた。26歳で五摂家のひとつ一条家の幼い姫君2人の家庭教師になった。

その姉妹が明治天皇のお后(きさき)候補に挙がる。岩倉に意見を求められた薫子は、妹の寿栄(すえ)姫こそ慈しみと賢さを兼ね備え、天皇の后、国母にふさわしいと述べた。その意見が通り明治元年、寿栄姫は美子(はるこ)と改名、皇后に冊立された。のちの昭憲皇太后だ。

「昭憲皇太后は、薫子の教育があまりに厳しくて泣いたことがあると述懐しています。相手が誰であっても学問の場では妥協しないという姿勢でした。皇太后の人間形成に影響を与えたことは間違いありません」と榊原さんは話す。

京都への望郷、丸亀への愛着

丸亀では知人の塾を手伝い、女子教育にも力を入れた薫子だったが、明治14(1881)年10月、ひっそりとこの世を去った。享年47。丸亀城に近い玄要寺にささやかな墓が建てられた。

『昭憲皇太后実録』には同年12月「若江薫子死去せるにより、金百円を賜ふ」とある。師弟の交流は途絶えていたが、薫子のことを気にかけていたのだろう。

大正3年、その昭憲皇太后が崩御する。国中が遺徳を偲ぶ中、薫子を思い出す人も少なからずいた。特に丸亀では顕彰会ができ、墓の保存や遺墨編纂が行われた。

「薫子の字には女性ならではのたおやかさと同時に力強さを感じます。松に託して皇室や日本の繁栄を詠んでいるものもあります」

こう話すのは丸亀市立資料館の林恵さんだ。林さんは令和元年に「丸亀の歴史を彩った女性たち」という企画展を催し、薫子のコーナーを設けた。その際に展示した「茶」と題された歌は、京都への思いがくみ取れると指摘する。

竹のはの

あちにも遥

まさりけり

うちの木の芽の

いろも匂ひも

「竹のは」は竹葉で酒の異称。酒の味よりはるかに京都・宇治の茶が勝るという意味だ。

「望郷の念はあったでしょうが、丸亀は居心地のよい町だったと思います。幕末期、丸亀藩には名の知れた尊王攘夷の志士が多く訪れていますし、勤王家で聞こえた丸亀城下の醤油問屋の女主人、村岡筝子(ことこ)は長州の高杉晋作をかくまっています。こうした風土にシンパシーを感じていたのでは」

晩年を丸亀で過ごした薫子の思いを、林さんはそう推測する。

自由を得た鶴に我が身を重ね

資料館を辞し、薫子が眠る玄要寺を訪ねた。菅原道真の子孫として「菅原薫子」と彫られた墓は、下の台石が不自然に大きい。大正期に整備した際、立派に見せようとしたのだろう。今では墓石全体が少し傾いている。

墓前に花を供えていると、近所の女性が「縁者の方ですか」と声をかけてきた。取材で来たことを告げると、89歳という女性は「薫子さんはすごい学者でね。でも政府に疎まれてね」と説明してくれた。姑が折に触れ薫子の話をしていたといい、その思いを引き継ぎ墓に花や水を供えているそうだ。

薫子が晩年、世話になった人に贈ったとされる漢詩がある。「放鶴」と題された七言絶句だ。

一声告別去塵寰

碧海蓬山好往還

他年縦遇乗軒寵

不願終身託籠間

榊原さんはこの詩に注目する。「自由を得た鶴に我が身を重ねています。権謀術数が渦巻く世界に戻りたいとは思っていなかったのではないでしょうか」

薫子は辞典などでは「不遇のうちに没した」と記されることが多い。確かに宮中に参内していた時代を知る者には、遠く異郷に暮らす姿は不遇と映っただろうが、没後150年近くになる今も墓の世話をし、語り継ぐ人がいる。安息の地を得たに違いない。(新村俊武)

若江薫子が生まれたのは、京都御所に近い霊光殿天満宮の隣接地だ。明治31年ごろまで生家があったが、現在は境内の一部となっている。同宮は1018年、菅原道真の所領だった河内国若江(現在の大阪府東大阪市周辺)に社殿を建てたのが始まりだ。京都に移った後も道真の流れをくむ若江家が祠官を務めた。霊光殿の名は、道真が大宰府に左遷されたとき天から光が差したという伝説に由来する。

代々この宮を守っている田中吉(よし)さんが境内を案内してくれた。本殿の吊り灯籠には「天保六乙未(きのとひつじ)年」と刻まれている。薫子生誕の年でもある。また境内には明治35年建立の菅公千年祭記念の石碑がある。「富岡鉄斎の揮毫で、鉄斎ファンの方も多く来られます」と田中さんは話す。鉄斎は薫子と漢学塾の同門だった。

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