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近藤を袖にした芸妓 今も昔もベールに包まれた政治の社交場・祇園 誠の足跡 新選組を行く

産経ニュース / 2024年11月19日 10時30分

「祇園坂田」の坂田優子さんと木村幸比古さん=京都市東山区

歴史が折り重なる京の街で、一段とあでやかな雰囲気を放つ祇園。激動の幕末にも、政治の社交場として重要な役割を果たした。奥深げなベールに包まれ、世間とは一線を画す花街は、京の街にその名をはせた新選組局長、近藤勇にとって苦い思い出の残る地でもあった。

宴席の話は他言無用

祇園を南北に貫き、風情ある街並みが続く花見小路。多くの飲食店が軒を連ねる中で、お茶屋がひっそりとしながらも、存在感を示している。今でも芸舞妓(げいまいこ)による季節ごとの行事が残り、伝統を紡ぐ花街の一つだ。

「かつてはかなりの隆盛を誇り、幕末も新選組をはじめ、長州、薩摩藩などの志士らも多く訪れた」。同行する幕末維新史研究家、木村幸比古さん(76)が、外国人観光客でにぎわう通りを歩きながら説明する。

《井筒 玉尾、玉菊、勇鶴…》

木村さんが所有する「祇園新地歌妓名譜(ぎおんしんちかぎめいふ)」(縦7センチ、横15センチ)。祇園の芸舞妓の名前が置屋ごとに記された名簿で、160年前の文久4(1864)年に作成されたものだ。記されている「井筒」には新選組の幹部らも立ち寄ったという。

木村さんによると、文化・文政年間(1804~30年)には、お茶屋が429軒もあり、計3千人の芸舞妓らがいた。

10万石以上の大名家は「御宿坊(ごしゅくぼう)」と呼んだ料理屋やお茶屋を抱えた。接待用の高級サロンの位置づけで、木村さんは「宴席での話が外部に漏れるのを防ぐ目的もあった」と語る。

宴席で耳にした話は一切他言しない。こうした不文律は昔から花街・祇園にもあり、現在も高級クラブなどに引き継がれている。

「お客さまの会話などは一切言うたらあかんというのは当たり前。だからこそ安心して来てはるのや」

こう話すのは、花見小路沿いにある祇園甲部歌舞練場に隣接するお茶屋バー「祇園坂田」の坂田優子さん(67)。

一般的にお茶屋は「一見さんお断り」。新規の客でも常連客の紹介だからこそ、身元や人となりが分かる。店側と客の信頼関係を保つための重要な手段だ。

坂田さんは、祇園で商売を始めて約40年。時代の移ろいを見つめ、肌で感じ取ってきた。かつて客は資産家や大企業の重役らが多かったが、最近では職業もさまざま。「ベールに包まれている世界やさかい、垣間見たいという方が大勢いはります」

近藤を袖にした芸妓

幕末、武蔵国多摩郡(東京都調布市)の農家の三男に生まれた近藤も、そんな心境だったのかもしれない。元治元(1864)年の池田屋事件で一躍名を上げた新選組幹部は、祇園で豪遊するようになった。近藤は江戸に妻子がいたにもかかわらず、上洛先で妾宅を構え、多くの女性と浮名を流した。

木村さんによると、近藤は祇園一の美貌といわれた芸妓の君尾に一目ぼれした。「京の女は美しい人形じゃ」と口説く近藤に対し、君尾はきっぱりと言い放った。

「近藤さまが天子さま(天皇)派のために尽くす勤王党になっていただけるのなら、ほれましょう」。これには近藤も絶句したという。

当時、勤王派、佐幕派のいずれかを支持する芸舞妓もおり、君尾は勤王派だった。長州藩士との交流が深く、後に明治政府で要職を務めた井上馨とは相思相愛の仲だったという。英国留学から帰国した井上が攘夷派に襲われた際、懐に入れていた真鍮(しんちゅう)製の鏡に刃が当たり命拾いした。鏡は君尾からの贈り物だった。

君尾にはほかにもエピソードがある。戊辰戦争(1868~69年)時の新政府軍の軍歌・行進曲で知られる「宮さん宮さん(トコトンヤレ節)」。長州藩士の品川弥二郎が作詞したが、君尾が三味線で曲をつけたとされる。君尾は品川との間に子がいたという。

木村さんは言う。「幕末時、祇園は政界の夜の社交場であり、文化が香る街として重要な役割を果たした」

大阪・北新地から異色の参入

祇園・花見小路を見下ろすビルの3階にある「祇園坂田」。通りの喧騒(けんそう)が噓のような静かな空間が広がっていた。「ここからは大文字(山)、京都タワーも見えるんですよ」。和服姿の坂田優子さんがほほ笑む。

大学卒業後、50人ものホステスを抱える大阪・北新地の高級クラブで働いた。大学の同窓会に顔を出し、大量の名刺を配りまくると、多くの先輩が来店してくれた。

顧客は大企業の重役ら。坂田さんは毎日経済紙に目を通し、暗記した株価を話題に盛り込む。入店1カ月後にはナンバー3に。3カ月間勤めて得た資金を基に祇園に店を出したのは、28歳のときだった。

「バブルが少し陰ったころ。祇園についての知識はほぼありませんでした」

北新地時代の客も通ってくれ、初めて連れて行かれたお茶屋での経験が転機となった。常連客らの支援もあり、京都五花街の芸舞妓を仲介するお茶屋バーを開店した。代々という店が占める花街で新規参入は異色の存在だった。「ホームページを開設しましたが、当時は値段はおろか芸舞妓の顔も出せませんでした」

順調に商売は繁盛し、東京・銀座にも進出した。毎週月、水、金曜に芸舞妓を連れて日帰りで上京。1時間半の入れ替え制で1人1万円という破格の値段でお茶屋の雰囲気が味わえるとあって、40人ほど入る店内は大盛況となった。

平成7年の阪神大震災を機に祇園の1店舗を残し、他の7店舗は閉店した。それから間もなく30年。「まだ若くて何も知らなかったからできたし、そういう時代でした」。新型コロナウイルス禍を経て、にぎわいを取り戻し始めた街を静かに見つめている。(池田祥子、写真も)

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