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家康の時代から駿府を見守る安倍川、清流にちなむ〝金な粉もち〟も地域のシンボル 静岡 行ってみたい 水のある風景

産経ニュース / 2024年8月14日 10時0分

静岡と山梨の県境付近、南アルプスに連なる大谷嶺(標高約2000メートル)を源とし、静岡市の中心市街地西側から駿河湾に注ぐ安倍川。流域の全てが静岡市内で、本流・支流ともに河川法上のダムがない清流として知られる。「駿府(すんぷ)」と呼ばれていた江戸時代以前から、この地域を代表する川として親しまれ、現在の静岡市の文化や街の発展に大きな影響を及ぼしてきた。

「安倍川もちを注文してきました。練習が終わったら受け取って帰ります」。静岡市内の40代女性は、小学生の子供を連れて毎週、河川敷のサッカー場を訪れる。その際に決まって注文するのが安倍川もちだ。

江戸時代の初頭、徳川家康もこのあたりの茶店に立ち寄った。店主が、きな粉を安倍川上流で産出する砂金に見立てて餅にまぶし、「安倍川の金な粉もち」と称して献上。家康はこれを喜び、安倍川もちと命名した、と伝えられている。

静岡県庁などがある中心街から本通り(旧東海道)を2キロほど西に進むと、国の登録有形文化財である安倍川橋があり、手前のたもとにはいまも安倍川もちの店が軒を連ねる。江戸時代後期の戯作者、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が著した「東海道中膝栗毛」にも登場する名物だ。

安倍川橋のすぐ下流側には、現在の国道1号とJR東海道線、東海道新幹線の橋が架かっている。

朝廷に政権を返上した大政奉還の後、倒幕派に敗れ恭順した江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜は慶応4(1868)年に水戸から駿府に移った。明治2(1869)年に謹慎が解かれた後も、現在の静岡市葵区紺屋町にあった元代官屋敷などに居住し、安倍川のあたりまで足を伸ばした。

慶喜は静岡で約30年暮らし、趣味に没頭した。当時は珍しかった写真を撮るのもその一つで、開通したばかりの東海道線の列車が安倍川の鉄橋を渡る様子を写真におさめている。

500~600年前の安倍川は、静岡平野を何筋にも分かれて流れ、たびたび洪水が起きていた。徳川家康は将軍職を三男の秀忠に譲り大御所として駿府に入ると、安倍川の流れを変える大事業に着手。これにより安倍川は水害から解放され、駿府は大きく発展していった。

ただ、江戸時代は防衛上の理由から安倍川には橋がなかった。歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の中にある「府中宿」には、当時の川越人足による徒歩渡しの様子が描かれている。

現在の安倍川は、河川敷に運動公園や親水公園が整備されている。週末ともなると、サッカーの練習や水遊びをする子供たち、バーベキューを楽しむ家族連れ、ランニングに励む若者、土手を散歩する高齢者らでにぎわい、人々の笑顔と歓声にあふれている。(青山博美)

安倍川 安倍川橋は、静岡市葵区弥勒と同市駿河区手越にまたがる。JR東海道線・東海道新幹線静岡駅から徒歩で約30分、バスで約15分。現在の橋は3代目で、大正12(1923)年に自動車社会の到来に対応するために建設された。輸入鋼材を使用したボーストリングトラス橋で、東海道の近代化に大きな意義を持つと文化財的価値が認められている。令和5年8月に国の登録有形文化財となった。安倍川もちの店舗は静岡駅側のたもとにある。

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