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ツェッペリン伯爵号が飛来、全長235メートル「巨大な鯨」 霞ケ浦航空隊に着陸 いばらきの昭和100年(上)

産経ニュース / 2025年1月1日 18時9分

昭和4(1929)年8月19日午後6時。夕暮れを迎えた茨城県の土浦上空へ銀色に光り輝く巨大な鯨が姿を現した。ドイツの誇る大型飛行船「LZ127 ツェッペリン伯爵号」だ。

全長約235メートル。現在の東京・池袋に建つサンシャイン60ビルとほぼ同じ大きさで、日没には間があったが、低空を通過する際は船体の影が県南一の商都の街並みを一瞬暗く染めた。

しゃれた建物で知られた割烹「日新楼(にっしんろう)」の4階の望楼から身を乗り出し、ツェッペリン号の雄姿を仰ぎ見ていたのは同県下館の尋常小学校2年生、荒川恒二。7歳の少年は夏休みを利用し、飛行船見物のため親類の営む日新楼を訪れていた。

ツェッペリン号は水素ガスで浮揚するが、推進力は530馬力のエンジン5基で回すプロペラで得る。最高時速は128キロ。周囲に轟音(ごうおん)が響き渡り、鳴りを潜めていた鳥たちが驚いて一斉に飛び立った。

恒二にとっては、ツェッペリン号の銀色の側面に夕日が映り込む光景が印象的だった。後に小学校の図画の授業でツェッペリン号を描いた際は、迷わず胴体へ赤い丸を塗った。

「ツネちゃん。これはドイツの飛行船だから、日の丸はついてないのよ」。女性教諭の指摘に「先生、違うよ。夕日が胴体を真っ赤に染めていたんだ」。恒二は胸を張って反論した。

月を背に静々と着陸

ツェッペリン号は、前年に初飛行した最新鋭の飛行船で、内部には食堂やベッドルームも備えていた。当時は旅客輸送の実績で飛行船が飛行機より優位にあり、ツェッペリン号は空の主役の座を決定的にするために世界一周を計画。この日は土浦に隣接する阿見の霞ケ浦海軍航空隊へ向かっていた。

同航空隊が栄誉ある〝寄港地〟となったのは、ツェッペリン号の収容が可能な巨大な格納庫(全長約242メートル、幅65メートル、高さ39メートル)があったからだ。日本は第一次大戦の戦勝国となり、敗戦国のドイツから戦利品として入手していた。

指揮官役のフーゴー・エッケナー博士ら乗員41人と、各国の学者や新聞記者ら乗客20人を乗せたツェッペリン号は午後6時半ごろ、航空隊へ無事着陸。当時の新聞「時事新報」はその様子を「いましがた落日とその威を競った巨船は今度は東の空に昇り始めた十五夜の月を背景に(中略)静々と着陸する光景」などと叙情的に伝えた。

夢のような乗船体験

ツェッペリン号を降りた一行は、格納庫の隣に張られた天幕の中で海軍自慢のカレーなどを振る舞われた。

その後、乗客は東京のホテルへ向かい、エッケナー博士ら乗員は土浦の割烹「霞月楼(かげつろう)」で航空隊主催の歓迎会に出席。日本料理に舌鼓を打った。にぎやかな宴席をそっとのぞいていたのは、隣の姉妹店、日新楼でツェッペリン号を見物していた恒二だった

やがてトイレから戻ってきた顔見知りの航空隊副官に声をかけられた。「おお、坊主いたのか。ツェッペリン号に乗ってみるか?」。思わぬ誘いに恒二は大きくうなずいた。

当時はまだおおらかな時期で、航空隊には一般人も出入りでき、ツェッペリン号見たさに連日約30万人が押し寄せていた。翌20日、約束の正午に恒二が航空隊の格納庫前へ赴くと、「おーい、こっちだ!」。副官に迎えられ、あこがれの飛行船へついに乗り込んだ。

船内のあちこちを見て回り、大きな調理場に「(日本の)板場と同じだな」などと感心していると、副官は用事があったのか急に姿を消した。「このまま外国へ連れていかれたらどうしよう」。不安にかられていると、ふいにカメラを持った外国人の男性記者が現れ、恒二の写真を撮り始めた。

はにかんで食堂の柱の陰に隠れていると、副官がようやく戻り、船外に出られた。ハラハラドキドキの大冒険を終えた恒二は、このあと生涯ツェッペリン号とかかわることになる。(文中敬称略)

昭和100年の節目に当たる令和7年、時計の針を巻き戻し、茨城県内でかつて起きた出来事やニュースを関係者の証言や資料などをもとに再現します。(三浦馨)

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