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運命を変えた「台湾青年」  話の肖像画 モラロジー道徳教育財団顧問・金美齢<13>

産経ニュース / 2024年8月13日 10時0分

昭和34(1959)年ごろ

《昭和34(1959)年に日本に留学して1年後、日本語で書かれた隔月の機関誌(後に月刊)「台湾青年」が刊行された。留学生たちに郵送された「台湾青年」の創刊号を手にしたとき、運命が動き始めた》

一党独裁時代、「大陸反攻」が悲願だった国民党にとって「中華民国」という名称が絶対で、独立をイメージさせる「台湾」という言葉は禁句だった。まず機関誌名からして挑戦的だよね。ざっと目を通してみたら、明らかに台湾独立派の人たちが書いているのよ。国民党が絶対に許すことのない台湾独立がテーマの論文や小説ばかりだったから。この勇気にも驚いた。

この日は人と会う約束があって美容室を予約していたので、「台湾青年」を持ち込んで、髪をセットしてもらっている間に読み始めた。「台湾独立」とか「蔣介石の独裁体制」とか、台湾では絶対に許されない表現が随所にあり、しかも立派な日本語で書かれている。

その批判精神と情熱、そして知的さに魅了され、美容室で一気に読み切ってしまった。そして、一体どんな人たちが書いているのだろう、という心の高ぶりを抑えることができなくなっていた。

《創刊号は冒頭、哲学者スピノザの「各人は天より与えられて自分自身の思想の主人公となる権利をもっている」という言葉で始まり、社説「台湾青年に告ぐ」では「念願するところは家族・同胞の幸福」「たとえ一人の力は弱くとも、みんなで力を合わせれば、何かできるはず」と訴えている。この「台湾青年」誕生の背景を語ってもらった》

発行人は日本統治下の台南で生まれた王育徳さん。彼の兄は東京大学法学部で学んだ後に検察官となった正義感の強い人で、終戦後に台湾の統治者となった国民党政府のもと、汚職が横行していた地方行政官を正そうとした。その兄が国民党による弾圧「二・二八事件」(1947年)で監禁・拷問の末に殺害された。

弟の王育徳さんも日本に留学し、東大文学部で言語学を研究。終戦後は台南第一中学の歴史・地理の教師となった。劇作家としても知られていて、二・二八事件の後に兄への思いもあったのか、台南市内で国民党を風刺する劇を上演。これが誰かに密告された。反乱分子の弟ということもあって監視下におかれ、逮捕寸前に逃げたという。

彼の失踪当初は中国大陸に渡って共産党に入党したというウワサが流れたみたいだけど、実は香港経由で日本に密入国し、東京に住んでいた。この一連の脱出劇を手助けしたのが、台北高校で同級生だった作家、邱永漢さんで、「密入国者の手記」という本にまとめている。

この王育徳さんの家に、日本に留学していた台南一中時代の教え子、黄昭堂(後に台湾独立建国連盟主席)や郭嘉熙らが集まって、「恐怖政治をくぐりぬけて日本に留学した青年たちが、故郷に対してやるべきことを発信する」としたのが、「台湾青年」発刊のきっかけだったみたい。だから刺激的だったのよね。彼らは後に台湾独立建国連盟となる「台湾青年社」を結成。そして一党独裁を続けている国民党政府に抵抗するため、賛同者を募った。

台湾青年社は手を尽くして日本にいる台湾人留学生の住所リストを作り、「台湾青年」の創刊号を郵送した。賛同者に投稿を求めることで、言論の自由が保障されている日本で、台湾の民主化や独立を目指す青年を増やしていこうと思ったわけ。

発行人の王育徳さんだけが本名で、ほかの人はペンネーム。まだ国交があったので国民党政府の日本大使館が目を光らせていたから。反体制の論文を発表した留学生は台湾に帰ったとたんに拘束されちゃうからね。

《「台湾青年」を初めて読んで台湾の独立運動に感動した夜、会う約束をしていた人物から意外な言葉を聞くことになる》(聞き手 大野正利)

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