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「生きたかったと思う」鳴門海峡の悲劇 米軍の機銃掃射で「住吉丸」乗船の海軍予科練生ら82人が犠牲 淡路島で法要営まれる

産経ニュース / 2024年8月2日 20時52分

82人が犠牲となった「住吉丸」の慰霊法要で手を合わせる参列者=8月2日午後、兵庫県南あわじ市阿那賀、春日寺(藤崎真生撮影)

先の大戦が終わる直前の昭和20年8月2日、鳴門海峡で米軍機の機銃掃射により犠牲となった「住吉丸」の海軍予科練生ら82人の慰霊法要が2日、南あわじ市阿那賀の春日寺(瀬尾泰澄住職)で営まれた。戦後79年の今年は、関係者ら約40人が参列し、亡くなった予科練生らの冥福を祈った。

米軍の侵攻を想定して淡路島に砲台を造るため「宝塚海軍航空隊甲種飛行予科練生」ら111人を乗せた民間の木造船「住吉丸」は、徳島県・撫養(むや)から阿那賀に向かっていた。そこに襲来した米軍機が機銃掃射を浴びせ、全国から集まった10代の予科練生76人を含む82人が犠牲になった。予科練生の多くは船体に板を渡しただけの甲板の下にいたが、弾丸はその甲板を簡単に破壊したという。

地域史などによると、炎上する住吉丸を見つけた四国側の船が淡路島まで曳航(えいこう)。住民らが協力し、家屋の扉を担架代わりにして予科練生らを運び出し、春日寺まで運んだ。境内には遺体が並び、中には「お母ちゃん、お母ちゃん…」と苦しむ負傷者らもいたという。

鳴門海峡を見下ろす丘の上には40年、82の墓碑が建設され、42年には「慈母観音像」が建立された。その後、関係者らは「慈母観音会」を立ち上げて法要を営んできた。そうした中で今年も迎えた8月2日。読経の中で参列者らは静かに手を合わせ、82人の冥福を祈った。

参列者の一人、熊本市の永光頼光さん(95)は、住吉丸に乗るはずだった。船は徳島と淡路島の間を往復。その中で当時16歳の永光さんは、隊長の「君は待ちなさい(次の便で来なさい)」という命令に従い、徳島側で待ったため難を逃れた。隊長は、仲間たちとともに亡くなった。

隊長の秘書的な仕事についていた永光さんは「『運命』というものを痛切に感じる」。戦後は故郷・鹿児島県甑島(こしきしま)の復興に尽力したほか、熊本県警の警察官として定年まで勤め上げた。

「戦後80年」が近づく中、永光さんは「予科練生のみんなは、もっと生きたかったと思う。隊長や仲間たちのため、体の続く限り参列を続けたい」と決意を語った。

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