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「音楽で鼓舞し、われわれも戦った」 連合艦隊「武蔵」の軍楽員、戻らぬ山本五十六長官 記憶をつむぐー戦後79~80年㊦

産経ニュース / 2024年8月20日 7時0分

終戦直後の種村二良さん(本人提供)

「おかしいなあ…」

昭和18年4月、西太平洋・トラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)に停泊中の連合艦隊旗艦「武蔵」で、海軍軍楽員だった種村二良(じろう)は、桜と碇(いかり)のマークが刻まれたアルトホルンを手に、首をかしげていた。

前線視察に向かった連合艦隊司令長官、山本五十六の帰還を今か今かと待つ最中。行進曲を奏でて長官を出迎えるのは軍楽員の重要な任務の一つだ。事前に帰還予定時間が知らされていたにもかかわらず、山本も、同行した幹部らも戻ってこなかった。

4月18日、山本の搭乗機はブーゲンビル島(パプアニューギニア)上空で、暗号を解読して待ち受けていた米軍機に撃墜された。約1カ月後の5月21日、大本営が発表するまで、山本の死は極秘とされ、国民にも伏せられていた。

発表の少し前、「武蔵」艦内の長官公室前の通路に線香のにおいが漂っていた。「ああ、長官は亡くなったんだなと。あのときが一番ショックでした」。99歳になった今も鮮やかに記憶がよみがえる。

まだ18歳だった少年軍楽員にとって、山本は雲の上の存在だ。17年12月に連合艦隊司令部付として配属されてから、山本が在艦している際の昼食時には、軍楽隊の一員として「昼奏楽」を行った。

上甲板で楽器を持って待機し、開いているハッチを通じて軍楽隊長が食堂内の山本の様子を確認。スプーンや箸を上げようとする瞬間に従兵長が合図を送り、隊長がタクトを振り上げる。

「『軍艦行進曲』や円舞曲など3、4曲を30分くらい演奏しましたね」。軍楽員にとって華やかな任務の一つだった。

暗号員としての役割も

東京・日比谷公園で軍楽隊の演奏を聞いたことをきっかけに、16年1月に海軍軍楽隊を受験。5月、16歳で横須賀海兵団に入団した。

「学校で吹奏楽をやっていたし、何より音楽が好きだった。制服姿にも憧れましたね」。午前中に軍楽の練習、午後は手旗信号、カッター漕(こ)ぎなどの訓練を行った。

16年12月8日の対米英開戦を経て、17年12月、連合艦隊司令部付となり、トラック諸島に停泊中だった当時の旗艦「大和」に乗艦した。毎日の昼奏楽に加え、朝夕の軍艦旗の掲揚・降納時の国歌演奏に携わる。任務はそれだけではない。戦闘配置では通信科の暗号員としての役割があり、数日おきに午後から夜中まで交代で勤務した。

電文を読んではならないときつく命令されていた。「でもね、ケースから取り出してしわを伸ばすときに文字が見える。口にはしませんが、18年ごろから、負け戦なんじゃないかと思い始めましたね」

事実、日本は劣勢に立たされていく。19年5月に旗艦は「武蔵」から軽巡洋艦「大淀」にかわった。軍楽隊の勤務も巨大だった「大和」や「武蔵」のようにはいかず、演奏機会はめっきり減った。その後地上勤務となり、同年10月のレイテ沖海戦で「武蔵」が撃沈されたことを知った。

沈没地点、演奏で慰霊

「いろんな思い出があって、『あいつはどうしただろう』と今でも時々、当時のことをふと思い出しますね」

平成27年3月、米深海調査チームによって水深千メートルに眠る「武蔵」が発見された。翌4月、沈没地点で営まれた洋上慰霊祭にトランペットを携えて参列。軍楽員時代や戦後、靖国神社の参拝時に欠かさず吹いた「国の鎮め」を演奏した。

「この下に沈んでいるのかと懐かしさもありました。日本が繁栄して私が長生きさせてもらったのも亡くなった人たちのおかげです」

戦後はトランペットを手に米軍キャンプを回ったほか、「エノケン」の愛称で人気だった榎本健一、ブギの女王・笠置シヅ子とも舞台に立った。

その後は音楽とは関係ない仕事に就いたが、長女夫婦と暮らす埼玉県の自宅で往時を振り返るとき、自然と手や口がリズムを刻む。

「軍楽隊は特別な存在だった。音楽によって鼓舞することで、われわれも戦っていたんです」(敬称略)=終わり

池田祥子が担当しました。

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