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昭和61年生まれの私、日本人女性初のプロゲーマー、百地裕子さん「始まりはマリオ」 プレイバック「昭和100年」

産経ニュース / 2024年9月8日 8時50分

ゲームセンター=平成21年

入園前にコントローラー握った

昭和61年に生まれた私ですが、初めて遊んだゲームは、任天堂が58年に発売した家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」のアクションゲーム「スーパーマリオブラザーズ」(60年発売)でした。幼稚園に入る前に、あの四角いコントローラーを握ったんです。

当時ファミコンは大ブームで、父が職場の後輩に譲ってもらったそうです。幼い私にマリオは難しかったけれど、自分の操作で動くのが楽しくて。それからずっとゲームが好き。父の後輩のおかげで今の私があるようなものです。

でもあの頃はどの家もそうだと思いますが、やりすぎると母に叱られました。

「ゲームは1日1時間」。昭和のファミコン全盛期に子供からカリスマ的人気を誇ったゲーマー「高橋名人」の決めぜりふです。母はこれを呪文のように唱え、聞かないとゲーム機を隠されました。急にコンセントを抜かれて「ああ!セーブしてなかったのに!」なんて〝あるある〟も…。

小・中学校、高校は勉強や部活に励み、ピアノや習字などの習い事もこなしました。ゲームはその上でやっていました。時間を守りさえすれば、母が怒ることはありませんでした。

「チョコブランカ」の由来

そして、大学で転機が訪れます。友人に誘われてゲームセンターに行き、カプコンの格闘ゲーム「ストリートファイターⅣ」に出会ったんです。

格闘ゲームはなじみがなかったんですが、技を出しやすい「ブランカ」というキャラクターを使ったら勝つことができて。「もっと勝ちたい」とのめり込みました。ちなみに、当時のプレーヤー名は飼っていたウサギの「チョコ」。これが今の「チョコブランカ」という名前の由来です。

ストⅣに熱中するうち、対戦相手とも仲良くなっていきました。知らない人とコミュニケーションが発生する面白さもあり、ゲーセンに通い詰めました。

大学卒業後はカーディーラーに就職しましたが、ゲーセンは卒業できません。むしろ土日が仕事でゲームの大会に行けないことに耐えられず、会社の方を辞めてしまいました。

昭和のゲーセン文化が私を育てた

アルバイトをしながらゲームに打ち込み、やがて強豪プロゲーマーの「マゴ」さんに勝つという番狂わせを演じます。これが米国のプロチームの目に留まり、後に夫となる「ももち」と2人で契約を結びました。

日本人女性初のプロゲーマーとして海外の多くの選手と交流が深められたのは貴重な経験でした。ただお手本のようなものがなく、何をやるのが正解か分からず悩むこともありました。

今は夫と立ち上げた「忍ism」という会社のプロチームに所属しながら、夫や若手のサポート、後進の育成に取り組んでいます。

昭和に生まれたゲーセン文化が私を育ててくれた。ゲーム機は昭和のファミコンが世界中に広がり、令和のソニーグループの「プレイステーション5」に続いている。純粋に昭和ってすごい時代だなと感じます。

国際オリンピック委員会(IOC)がコンピューターゲームなどの腕を競うeスポーツの国際大会の新設を決めました。それこそ昭和には〝悪いもの〟だったゲームが市民権を得てきました。これからは子供が安心して目指せる世界にしていきたいと思っています。(聞き手 中村智隆)

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