1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. カルチャー

和歌山城再発見 紀伊徳川家の城郭へ頼宣入城、南ノ丸と砂ノ丸を増設 和歌山城再発見⑭

産経ニュース / 2024年8月2日 7時0分

砂ノ丸(現・砂の丸広場)の様子

浅野期までの和歌山城は、虎伏山の西峰に天守曲輪、東峰に二ノ丸御殿(徳川期の本丸御殿)を頂にして、南北の山腹に階段状に曲輪が配置されていました。

南中腹には、東西に延びる細長い松ノ丸があり、その東南麓の岡口には、豊臣期に大手門が開かれ、浅野期には三ノ丸と称された桝形の曲輪があります。

一方、北側には、天守北真下の水ノ手曲輪、さらに通称銀明水と名付けられた井戸の下方に水ノ手下曲輪(台所門跡内側)と黒門跡から西に延びる腰曲輪(鶴ノ渓石垣上)が階段状に配置されて、平地の屋敷(徳川期の二ノ丸)につながります。

このように山頂から階段(梯)状に曲輪が配置された縄張り(設計)は「梯郭(ていかく)式」に分類されます。

元和5(1619)年、徳川頼宣の入城により、城郭改築費として将軍秀忠から銀二千貫(現在の約30数億円)が与えられ、同7年から城郭の拡張が始まりました。

これまでの縄張りの南麓と西麓に、南ノ丸と砂ノ丸が増設されたのはこの時で、これにより山麓部の曲輪がつながり、虎伏山の麓を周回できる輪郭式が梯郭式に加わりました。

和歌山城動物園となっている南ノ丸跡を西に歩くと城門跡の折れ石垣に至ります。この南ノ丸門跡の先が現在の城内駐車場で、当所から西方の通称砂の丸広場までの広域が「砂ノ丸」になります。

かつて和歌山城の南西方は、岡山砂丘や吹上砂丘と呼ばれていたところで、今も砂山や真砂(まさご)など砂に由来する地名が残されています。したがって「砂ノ丸」の名称も砂丘の地を造成したことに由来するものと考えられます。

増設された二曲輪は、高石垣で囲まれていますが、石垣の前面に堀を設けているのは南ノ丸で、砂ノ丸には堀は掘られていません。砂地で容易に掘れなかったのかもしれませんが、それに代わる石垣は、横矢掛け(単に「折れ」)と呼ばれるノコギリの歯のように屈曲に積まれています。

この工法は、石垣を登る敵兵に対して、張り出した石垣上から、矢や鉄砲などで横攻撃ができるもので、中世・近世を問わず多くの城に見られます。

だだ、和歌山城の場合は、最短部で約30メートル、最長部で約65メートルとかなり目の粗いノコギリ状ですが、石垣を登れば横から矢や鉄砲が飛んでくると思う心理的効果は十分にあったと思われます。

しかし、最重要の目的は、砂丘地に直線の長い石垣を積むと前面に崩落しやすいので、所々を屈曲させて、直線部を短くすることで崩れにくい強度な石垣を積むことであったのかもしれません。

『南紀徳川史』に、石垣を積むことで「藤堂和泉守(高虎)が見廻りに来たとき、(安藤)帯刀と相談した」と書かれています。

(文・写真 日本城郭史学会委員 水島大二)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください