1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. カルチャー

日米協会 強みは歴史と広がり 話の肖像画 元駐米日本大使・藤崎一郎<27>

産経ニュース / 2024年9月28日 10時0分

メダルはすべて自分のデザイン。右は100周年記念のもの

《日米協会の第9代会長になったが、何をするところか》

日露戦争後、日米関係は急速に悪化した。日韓併合、カリフォルニア州の排日運動などが背景だ。日米関係の好転を図るため、当時の日本のリーダーが集まり東京に日米協会を1917年に創立した。金子堅太郎初代会長は日露戦争の講和についてハーバード大学同窓のセオドア・ルーズベルト大統領に働きかけたことで知られていた。日米民間交流を目的とした。戦前、日米協会においてジョセフ・グルー駐日米国大使が米国の真意を演説したり、樺山愛輔第3代会長と意見交換したりして、日米間の緊張が高まるのを緩和しようと試みた。結局、日米戦争に突入した。

しかし終戦3年後の48年、協会の第1回総会が開かれ、51年にはサンフランシスコ講和条約締結に向かう吉田茂首相らの歓送会を主催した。そして吉田、岸信介、福田赳夫の首相経験者が会長についた後、大河原良雄元駐米大使が会長を17年間にわたり務めた。日米協会は戦後十数年は日米民間交流の中心だった。今は他の団体も多くでき、特別な立場ではない。ただ他の団体にはない特色が2つある。

1つは長い先人の努力で築き上げられた評価、信用である。

もう1つは日本に28、米国に38ある姉妹の日米協会のネットワークである。

これを実感したのは2013年に大先輩の大河原氏から会長職を引き継いだ私が、17年に100周年記念を迎えたときである。記念式典には天皇、皇后両陛下のご臨席に加え、安倍晋三首相夫妻、岸田文雄外相夫妻、経団連の豊田章一郎名誉会長夫妻、榊原定征同会長ら要人の参加を得た。また日米の多くの協会の代表が駆け付けてくれ盛大に行うことができた。

この際、法人会員、個人会員から寄付が得られたので新しい4つのプログラムを開始した。高校生英語クイズ大会アメリカボウル。これはワシントンの日米協会がやっている高校生日本語クイズ大会ジャパンボウルの逆版である。日本研究の大学院生招待のビジットアンドスタディジャパン。長年草の根で日米関係に貢献した日本人、米国人に贈る金子堅太郎賞。40歳以下の日本人・米国人が毎月さまざまなテーマを英語で議論する次世代ラウンドテーブル。いずれもその後、活発に続いている。

《会長就任後、何か改革したことはあるか》

事務局をリフォームし、古い資料は国会図書館に寄贈し、40人程度が集まれるスペースを作った。米国人、若い人の会員を増やすため、入会のハードルを下げた。また学生会員、インターン制度をつくった。インターンは大学1、2年生の応募者から上級生が選ぶ。現在40人ほどおり、いろいろな会合の企画、手伝いなどをしている。

月例会では講演会形式はやめた。タイムリーなトピックについて対談形式で、私がキモだけを質問してゲストに手短かに答えてもらう。パワーポイントは使わない。その上で半分の時間は出席者との質疑応答を行う。普通10人くらいから質問がある。出席者参加型の形式でお礼は私がデザインしたメダルだ。

会費収入しかないので、会員企業の好意に依存し、月例会は米国弁護士事務所ホワイトアンドケースのオフィス、次世代ラウンドテーブルの方は森ビルにアークヒルズなどを利用させてもらっている。また金子賞の副賞は全日空ホールディングスに提供を受けている。外務省、在京米国大使館も支援してくれている。民間交流は形状記憶合金のようなものだ。国家間の戦争や摩擦を止める力はない。いったん嵐が過ぎると国同士の関係がすみやかに旧に復するのを側面から支える力となる。日米両国民がお互いに好意を持っている現状に、ささやかなりとも貢献していると思う。日米の協会が集まる機会が2年に1度あり、今年はオレゴン州に集まった際、つくづくそう思った。

米国に関心のある方、参加しませんか。(聞き手 内藤泰朗)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください