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ヒトラーから山下奉文に独ソ戦への参戦要請 東条英機は一顧だにせず 

産経ニュース / 2024年8月16日 18時51分

日本陸軍の山下奉文(ともゆき)中将率いる欧州視察団が、対米英開戦前夜の昭和16年にまとめた報告書からは、国家総力戦体制の構築や航空兵力が加わった近代戦の戦術をドイツから吸収、発展させようとした合理的側面が浮かび上がる。しかし戦時中の軍部や陸軍内の派閥対立が変革を阻み、多方面に弊害をもたらした。非常事態における組織運営をはじめ、現代に通じる教訓は少なくない。

「ドイツ軍に協力を希望」

山下視察団が示した国防機構一元化などの改革案が実現しなかった背景には、陸軍の実力者だった山下と、東条英機陸相との反目があったともいわれる。陸軍には「自分に楯突く者を遠ざける」との東条評があった。

視察団の一員だった高山信武(しのぶ)陸軍少佐が著した『参謀本部作戦課 作戦論争の実相と反省』(昭和53年、芙蓉書房)には山下がドイツ総統のヒトラーから独ソ戦への日本参戦を要請されながら、東条らに一顧だにされなかったとの記載がある。

16年6月16日、山下はヒトラーとの面会時の内容を、陸軍武官を通じて東条に電文で送った。

《ドイツ軍は数日後ソ連に対して開戦する事に決定した。ヒットラー総統は、日本軍が満洲方面からソ連軍を攻撃して、ドイツ軍の作戦に協力されるよう希望する》

翌17日、陸軍省の武藤章軍務局長が返電する。

《大臣(東条)は本職に対し「かくの如き国家機密事項をヒットラー総統が外交ルートと別個に山下将軍に漏らすとは考えられない。山下将軍は速かに帰国して、委細報告せられ度き旨伝達せよ」と指示せられた》

東条らの態度に「唖然(あぜん)」

高山によると、山下は激怒した。数日後、視察団はソ連・シベリア鉄道経由で帰国の途についたが、途中の22日にドイツ軍が不可侵条約を結んでいたソ連に突如侵攻し、独ソ戦が始まった。

山下は28日、陸軍省で東条ら陸軍幹部を前に約2時間にわたって現地情勢などを報告。質問はなく、東条が「今後の方策については自分が十分に考え、処置する」と述べ、解散したという。

高山は記す。《唖然とした-このような重大時局に直面して、最新の欧洲情勢を詳知し、しかもヒットラーの代弁者ともいうべき山下中将の帰朝を迎え、陸軍の最高責任者たちが顔を揃えながら、何故にもっと深刻に問題を掘り下げて討議しないのであろうか》

防衛省防衛研究所の松原治吉郎(じきちろう)主任研究官は指摘する。「経過を見るとヒトラーはある程度本気だったのだろう。作戦参加の可否は別にしても、人間関係の影響で組織内で意思疎通ができなかった。こうしたことが国の命運を懸けた際の日本軍の課題の一つだった」

玉虫色決定で責任不明確

先の大戦において、大陸と太平洋で戦線を拡大した日本軍は有効な打開策を見いだせないまま無益な作戦を繰り返し、敗戦した。軍人・軍属と一般市民を合わせ約310万人という多大な犠牲を生んだにもかかわらず、玉虫色の意思決定により戦争遂行の責任は不明確なままだ。

開戦前、陸軍の仮想敵国はソ連だったが、海軍は米国を主要な敵とみなしていた。昭和16年12月8日、マレー作戦と真珠湾攻撃で対米英戦が始まったが、その後も陸海軍の玉虫色の決定は変わらなかった。

開戦からわずか半年後の17年6月、ミッドウェー海戦で大敗。4隻もの空母を失ったが、その事実は隠蔽された。

17年8月からのガダルカナル島(ソロモン諸島)の戦いでは、陸海軍による作戦の齟齬(そご)や対立が際立ち、敗戦の転機となった。米軍に奪われた飛行場を陸海軍共同で奪還することが決まったが、敵戦力を見誤った上、作戦について十分すり合わせないまま総攻撃を繰り返し軒並み失敗。次々と犠牲者を出した。

それでも、撤退は「作戦の破綻」を意味するとして結論は先送りされ、実際に撤退したのは翌18年2月。戦死した日本軍将兵の半数が餓死といわれる同島は「餓島」とも呼ばれ、歩けない多くの兵士が置き去りにされたが、大本営は、他地域への「転進」との言葉を用いて実情を隠蔽した。(池田祥子、肩書は当時)

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