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忘れないで「米国のカー」「ヒロシマのジュノー」 話の肖像画 元駐米日本大使・藤崎一郎<10>

産経ニュース / 2024年9月11日 10時0分

日系米国人市民連盟トップのノーマン・ミネタ元運輸長官(左)と

《2008年から4年半の駐米大使在任中、慰安婦少女像問題などもあったと思うが、自身が第二次大戦の過去に向き合った例はあったか》

日系米国人は戦争中に収容されたり迫害を受けたりした。このためもあり、2世の多くは日本と距離を置くことで米国社会に受け入れられようとした。3世以降はルーツ探しで日本文化に関心を示しはじめた。私は日系米国人との関係を重視し、招かれる限り、多くの会合に出席した。「米国社会で頑張ってきた日系米国人をふるさとの日本人は誇りに思っている」と挨拶で述べると喜んでくれた。

日系人の収容に反対した人たちも各地にいた。コロラド州知事で、将来の副大統領候補とも目されていたラルフ・カー氏は中でも傑出した人だ。

「日系米国人に危害を加えるなら、その前に私をやれ」

カー氏の言葉である。日本好きだったわけではない。合衆国憲法上、米国民を出身国で差別してはいけないという信念からだった。他州で排斥された日系人を受け入れ、収容所に入れるのにも反対した。州民の反発を呼び、カー氏は落選するが、それでも考えを曲げなかった。

カー氏は、米国の杉原だと思った。リトアニアのカウナスで日本領事館の杉原千畝領事代理は戦時中、本省の意に反し、6千人ものユダヤ人に日本通過ビザを発給し、リトアニアからの脱出を助けた。米国に逃れたユダヤ系の人たちが「スギハラの命のビザ」に感謝し続けていることに米国在勤中、感銘を受けた。カー氏も杉原氏も、人命、人権のため大勢に抗して自己の信念を貫いた。

だが、カー氏は地元以外ではあまり知られていない。そこで、日系米国人市民連盟のトップを務めていたノーマン・ミネタ元運輸長官を訪ねた。カー氏への感謝を全米の日系人が永く記憶に刻むため、人道的な活動で社会貢献した人に贈るラルフ・カー記念賞を設けることを提案した。私の離任後、賞が設けられた。

《大戦中にフィリピンのバターン半島で投降した米軍捕虜を、日本軍が炎天下、長距離を徒歩で行軍させ、多数が死亡した。元捕虜や家族らによる「バターン死の行進」の会合に出席したのか》

「バターン死の行進」の生存者や家族の会合に日本の代表として初めて出席し、謝罪を表明した。手違いで会合の直前に手元に届いた招待状について、東京はどう対応するかは大使に任せるということだった。大使館内では慎重論もあったが、私は行くと判断した。法務省から出向の大原義宏書記官が同行した。行く機上で発言原稿を書いた。

会場ではすでに顔見知りの主催者のレスター・テニー博士が出迎えた。数百人入った会場は張り詰めた雰囲気だった。私のスピーチの後は、半分以上の人が立ち上がって拍手し、握手を求めてくれた。元兵士の高齢化に鑑み、この50回目の会合が最終会合であり、なんとか間に合ったと思った。その後、元兵士や家族の日本への招待が実現し、何年も続いた。

《戦争の記憶はスイスでも》

ジュネーブの国際機関代表部大使のときも、出会いがあった。ブノワ・ジュノー氏である。広島への原爆投下の数週間後、GHQ(連合国軍総司令部)に救援を要請し、十数トンもの入手困難な医薬品を広島に運び込んだ赤十字国際委員会のマルセル・ジュノー医師の子息だ。子息から父親の手記をもらった。ジュノー医師のアニメ作品は日本で制作されてはいる。しかしジュノー医師はもっと記憶されていいと原爆の日のたびに思う。

常に過去の話ばかりするのは前向きではない。未来志向が大事だ。しかし記憶すべきことは記憶し、感謝もきちんと後世に伝えていかなければならないと思う。(聞き手 内藤泰朗)

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