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李登輝総統誕生で民主化へ 話の肖像画 モラロジー道徳教育財団顧問・金美齢<26>

産経ニュース / 2024年8月27日 10時0分

夫の周英明氏と和服姿で

《1971(昭和46)年10月、早稲田大学大学院博士課程を修了した。この年、中華民国は国連を脱退し、中華人民共和国が常任理事国入り。翌年、日本と中華民国は断交した。国際情勢が大きく動き始める》

中国が国連の常任理事国になったのは当然ですよ。中華民国なんてどうみてもフェイクなんだから。大陸はもうとっくに中国で、台湾という片隅の小さな島に中華民国っていう大きなものが乗っけてあってね。国民党政府は決然と、自分たちの意思で国連から出てきたみたいな言い方をしていたでしょ。これは負け惜しみでしかない。

この時期、岸信介元首相が何回も蔣介石総統を訪ねていた。これは私の勝手な想像だけど、国連に中国が入ってくる前に台湾として国連に残る道を探った方がいい、と説得していたんだと思う。中国が入ってきたらもう絶対だめだから。米国がどう考えるかは分からないけど、共産主義国家より、建前でも自由民主と言っている西側の国民党政府を重んじたと思う。国連のメンバーとして認められるかどうかが勝負だったんだけど、国民党政府は動かなかった。

こうなったからには日本と断交となるのは時間の問題だと思っていた。中国が、中華民国と断交しなければ国交を回復しないと言えば、どっちを選ぶかって、それは中国を選ぶのが現実ですよ。でもやっぱりね、台湾と日本っていうのは特別な歴史があるわけよ。50年間、同じ国だったっていう。だからそんなにあっさりとてんびんにかけて、簡単に中国を取っちゃうの、政治家からも社会からもメディアからも、もう少し声が上がってもいいんじゃない、というのが感想だった。

《1975年4月に蔣介石総統が死去。78年には長男の蔣経国氏が総統になり、李登輝氏は台北市長、副総統と国民党政府の要職を担っていく。そして88年、蔣経国氏の死去により李登輝総統が誕生した》

蔣経国さんが李登輝さんを副総統にしたことが歴史の転換点になったよね。国民党の元老たちも李登輝さんは優秀でおとなしいから、本省人(終戦前から台湾に住んでいる人)でもお飾りだからいいんじゃないか、と油断したわけ。蔣経国さんはたぶん米国にも言われていたと思う。本省人も使わないとダメだってね。

で、誰も蔣経国さんがあんなに早く亡くなるとは思っていないじゃない。それで中華民国憲法によって、副総統の李登輝さんが総統になった。

今でも答えが出ないことがある。李登輝さんって、そのポストそのポストで学んで成長したのか、それとももともと古だぬきだったのか。まじめだし仕事もよくするし、上からの覚えがめでたくて下からも慕われ、それで国民党政府のなかで一段ずつ上がっていくわけだけど、実はこの人は最初から民主化のために何をすればいいのか、分かっていてやっていた古だぬきなのか、って。でも李登輝という人材を得たことは、台湾にとって本当に幸運なことだった。

《日本で台湾独立運動をしていた仲間がブラックリストから外され、中華民国のパスポートを渡されるようになった。台湾で民主化が進んでいくのを肌で感じていた》

ああいうときは不思議でね、「そろそろ君にパスポートが出るよ」って風の便りがくるのよ。それでね、あんまり早くその風の便りがくると、なんかメンツが立たないような気になるわけ。台湾独立運動であんた、あんまり働いてないってみられていたような気がして。

知り合いの外交官を通じて、ブラックリストの実態を教えてもらった。そしたら私は許世楷(後の台北駐日経済文化代表処代表)と同じで「B」だっていうじゃない。黄昭堂(台湾独立建国連盟主席)は「A」だっていう。思わず言っちゃったよ、「失礼ね」って。(聞き手 大野正利)

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