1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. カルチャー

二・二八事件、女学校が部隊の宿舎に 話の肖像画 モラロジー道徳教育財団顧問・金美齢<7>

産経ニュース / 2024年8月7日 10時0分

中国国民党中央委員会=1981年ごろ

《国民党の圧政と終戦以降に移り住んだ「外省人」とのあつれきで、元から台湾に住んでいた「本省人」の忍耐は臨界点に達していた。そして1947年2月27日夕方、台北の繁華街・大稲埕(だいとうてい)で本省人の女性が拘束され、これが大弾圧「二・二八事件」の引き金となる。事件について語ってもらった》

大稲埕というのは台北の下町で、今も観光地区で知られる迪化街の一角。雑貨屋さんが並んでいて私もよく買い物に行く。最近では日本へのプレゼントでランチョンマットを買った。真ん中には市場があって、そこではカラスミを買ったりする。昔からにぎやかな商店街で、有名な薬屋さんが何軒もある。かつて台湾のお金持ちは薬屋さんで、事件のころから大稲埕は活気にあふれていた。

その大稲埕で外国たばこを売っていた女性が取締官6人に拘束された。当時の台湾では、香港あたりから密輸された外国たばこを街角で販売する光景がいたるところで見られた。国民党政府は専売局で扱う台湾たばこの売り上げに影響するので、本省人による外国たばこの町売りに神経をとがらせていたの。

いつもなら見張りがいて、取り締まりの情報が入ると警告してみんな一斉に路地裏などに隠れちゃうんだけど、この日は女性が捕まった。この女性、夫を亡くして外国たばこの町売りで生計を立てていたんで、「子供がいるんです」「生活に困っているので見逃して」と必死に訴えた。そうしたら取締官が銃の台座で頭を殴りつけたのよ。

《この暴行を見た本省人たちがついに動いた》

最初は遠巻きに「許してやれよ!」とヤジを飛ばすくらいだったんだけど、女性を銃で殴ったもんだから「やっちまえ!」とみんなで殴りかかった。それで身の危険を感じた取締官が発砲、けが人が出た。それでも本省人たちの怒りは収まらず、事件翌日の28日には専売局の前に集まり、「発砲したヤツを出せ!」と押し寄せた。専売局は話し合う姿勢すらみせず、警備兵が機関銃で一斉掃射。死者が多数出た。こんなことを平気でやるのが、当時の国民党政府の役人だった。

それまでの圧政もあり、この事件は瞬く間に台湾全土に広まった。各地で抗議活動が発生し、地方政府を取り囲むだけでなく、理由なく政治犯とされて拘束された本省人を救出しようと監獄を襲撃する動きも出た。

台湾を統括する国民党の陳儀行政長官は事態を収めようと、市井の名望家やリーダーを招集して「二・二八事件処理委員会」を各地で開催。話し合う姿勢をみせたんだけど、これはみせかけ。狡猾(こうかつ)だよね。裏では南京の国民党政府に鎮圧部隊の派遣を要請していたのだから。話し合いはその鎮圧部隊が来るまでの時間稼ぎだった。

《3月8日、南京からの鎮圧部隊が基隆、高雄両港から上陸。台湾全土で身の毛もよだつ惨劇が繰り広げられた。犠牲者は少なくとも約2万8千人…》

大陸で国共内戦中だった鎮圧部隊は容赦なかった。前にも話したけど、夫の周英明は中学へ通学途中に高雄駅前広場で公開処刑されてさらされた本省人3人を目撃している。トラックで運ばれて有無を言わせず、頭を撃たれたという。そのうちの1人は後ろ手に縛られた縄に「反乱分子 顔再策」と書かれた木札が差さっていた。

周英明は数年後、台湾大学受験のために参考書を買いに古書店に行ったんだけど、たまたま手にしたチャート式の参考書に「顔再策」と記されていた。自分の中学校の先輩だったんだよね。この経験もあって、彼のなかで民主化と台湾独立への気持ちが固まっていったみたい。

私が通っていた台北第一高等女学校は事件の間は休校。そして学校は鎮圧部隊の宿舎になった。収容するのに都合がいいと。教育への思いも、秩序もない。これが大陸から来た国民党のやり方なんだと思った。(聞き手 大野正利)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください