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報道写真に憧れた高校時代 話の肖像画 報道カメラマン・宮嶋茂樹<8>

産経ニュース / 2024年7月8日 10時0分

鉄道の撮影ポイントで友人たちと(左が本人)。私服での外出は本来、禁止されていた

《厳しいスパルタ教育の進学校で学んだ中学・高校時代。〝唯一の息抜き〟が写真だった》

小学生からずっと写真が好きで、中学3年で写真部に入りました。今、見たら汚くて小さいでしょうけど、暗室もありました。そこでフィルムの現像や写真のプリントもしていました。楽しかったですね。暗室作業をしていると、なんだか落ち着きました。母のおなかの中にいるような感じでしょうか。最終的にカラープリントまでやりましたから、頑張った方でしょうね。暗室作業が好きなのは、プロカメラマンになっても変わりませんでした。

前にもお話ししましたが、カメラは最初、小学生のときに父からもらったアイレス35ⅢCです。でも、中学3年のとき、父に泣きついてレンズ交換ができる一眼レフカメラを買ってもらいました。ミノルタのSRT101です。最初のレンズは50ミリの標準レンズだったかな? このカメラは今でも現役で普通に使えます。

高校1年のときには、望遠ズームレンズも買ってもらいました。メーカーはタムロンで、焦点距離は70~200ミリだったと思います。さらに高校2年でお年玉などをためて28ミリの広角レンズを買いました。一眼レフを手にしたことで、写真の幅が広がりました。

このころから、絞りの数値とかを気にするようにもなりました。(ピントが合う範囲の)被写界深度が浅くなるとか、深くなるとか。写真の表現について考えたんですね。写真技術に関係する本にも夢中になりました。内容は初歩的なことばかりでしたが、擦り切れるくらい何度も読み返したのを覚えています。

《写真への情熱は増す一方。あらゆる被写体にレンズを向け続けた》

写真を好きになったきっかけは鉄道の撮影でしたが、写真部に入ってからはいろいろなものを撮るようになりました。学校行事とか風景、修学旅行…。カメラメーカーなどが開くモデル撮影会にも行きました。神戸・三宮にあった百貨店「そごう神戸」の屋上とか、地元の県立明石公園などが会場でした。そこに、学生服を着たままカメラを持っていってましたね。

昭和51年秋には、その年の夏のモントリオールオリンピック体操女子で、10点満点を出して金メダルを取った、ルーマニアのナディア・コマネチが来日。同学年のスーパースターを撮りたくて、大阪の体育館まで出かけたこともあります。遠く離れたポイントでしたが、結構いいカットが撮れましたね。

《写真に関するさまざまな情報に触れて知識を深める中、特に強く興味を引かれたのが報道写真だった》

高校に入ってからは、報道写真家の本も読むようになりました。ロバート・キャパの「ちょっとピンぼけ」とか、日大芸術学部を卒業後、カンボジア内戦などを撮った一ノ瀬泰造さんの「地雷を踏んだらサヨウナラ」などですね。

キャパは前の大戦末期の1944年6月、連合国軍のノルマンディー上陸作戦を撮るなど有名な報道写真家なのに、「ちょっとピンぼけ」は内容がすごく楽観的なんです。出てくる話はギャンブルと酒、女…。戦争の悲惨さなんて、みじんもなかった。そういう無頼派的な部分が驚きでした。実際に戦場で死んじゃうわけですから。「俺たちに明日はない」という感じですよね。

一ノ瀬さんもカンボジアで亡くなったとき、まだ26歳でしたから。フリーになってわずか2年間ですが、強烈に生きたことが伝わってきました。いろいろなことが衝撃でした。

報道写真に対する漠然とした憧れは、キャパなどの本を読むうちに「こういう仕事に就きたい」という、強い希望に変わっていきました。(聞き手 芹沢伸生)

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