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伏せていた初代総理、伊藤博文との関係 話の肖像画 元駐米日本大使・藤崎一郎<4>

産経ニュース / 2024年9月4日 10時0分

米国留学中のころの本人(左)と初代内閣総理大臣の伊藤博文

《来年は、明治政府最大の功労者、伊藤博文(1841~1909年)が初代内閣総理大臣に就任して140年。初代韓国統監を辞任後、すぐ韓国の独立運動家に暗殺されたが、大日本帝国憲法の起草や国会開設など多くの業績を残し、近代立憲主義社会の基礎を築いた。その伊藤の玄孫(やしゃご)にあたる》

伊藤との関係は口外しないようにしてきた。なぜかというと、彼が評価されていない韓国や北朝鮮からは問題があると、「伊藤の子孫だから…」と言われる。これはまずい。それで、言わないことにしていた。

そうしたら、いま総務大臣をやっている、いとこの松本剛明が、選挙に出たときに、伊藤の子孫だということを選挙ポスターに書いたんですよ。それで知られるようになった。

でも、自慢はできません。伊藤の出自は足軽です。元からの貴族でもなんでもないし。異性関係は奔放だったし。それ以前に、伊藤はあまりにも遠い存在で、自分とのつながりを意識したこともなかった。米国の大学に留学中、ヒゲを伸ばしたとき、どこかで見たような、と思ったら、ちょうど千円札になっていた伊藤のヒゲだったことくらいですね。

《そんな高祖父について、文章にまとめたことも》

伊藤のことを文芸春秋100周年号に書いてくれと頼まれたので、母方の祖母、清子から聞いたことや思うところをまとめてみた。その中からかいつまんで紹介しましょう。

伊藤は、孫の清子が可愛(かわい)かったのだろう。明治天皇に拝謁するとき、連れていったが、「申請の手続きが面倒だから」と、馬車の座席の足元に当時10歳ほどの清子をうずくまらせて隠して御門を通ったことがあったと、清子が自慢げに話していた。明治天皇が伊藤を高く評価し、信頼していた証しだろう。

伊藤は老後、大磯(神奈川県)で過ごすことが多かった。小学校の建て替えに寄付したり、全校生徒に10銭ずつ入った郵便貯金通帳を配ったり、町の人や漁師を招き、陛下御下賜の樽酒(たるざけ)などをふるまったりしたそうだ。

韓国併合の要を説きに小村寿太郎(1855~1911年)が訪れた際は、二晩続きで酒を飲み、つかみ合いになりそうな激論で、給仕していた清子は怖くなったという。伊藤暗殺の報に、妻の梅子が「畳の上で死ねる人ではないと思っていた」と動じない姿に感心したと、清子は話していた。

伊藤の真骨頂は国を存亡の危機にさらさないことにあった。決して平和主義ではない。攘夷(じょうい)運動の挫折以来、国力が整わないのに背伸びをして列強とことを構えれば、国益を損なうことを骨身にしみて感じていたのだろう。外国との無用な摩擦や対立を招かぬよう、国内のナショナリズムや軍の主張を抑えた。

訪日したロシア帝国の皇太子暗殺未遂となった大津事件で、ロシアを刺激しないよう犯人の警察官、津田三蔵の極刑を主張。三国干渉も国力の差に鑑みて受け入れ側にまわった。不平等条約改正についても列強に融和的な案を出した。日露協商を目指したが、日英同盟に政府が転じると、それに同調。日露戦争後の交渉を早くまとめることに腐心し、韓国併合に最後まで反対した。満州を統治下に置こうとする陸軍出先機関のあり方にも批判的だった。

《歴史の指導者として》

歴史に「もし」はない。しかし、もし伊藤が昭和の時代にいたら、満州国建国、日中戦争、太平洋戦争などは違った展開になったのではないか。

このような伊藤に対する評価は、身びいきと言われるかもしれない。だが、指導者に必要なのは、将来を見通す眼力と経緯にとらわれないバランス感覚、そして大勢に抗する勇気である。世界が激動の時代に突入する中、これからの日本にも、こんな指導者が必要ではないか。(聞き手 内藤泰朗)

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