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独立運動に導いたのはCIA? 話の肖像画 モラロジー道徳教育財団顧問・金美齢<14>

産経ニュース / 2024年8月14日 10時0分

昭和34(1959)年ごろ

《昭和35(1960)年春、郵送されてきた機関誌「台湾青年」の創刊号を手にした。国民党の一党独裁が続き、言論統制が厳しいなか、危険を顧みずに格調高い日本語で体制批判や台湾独立を主張するこの機関誌を感動のまま読了。その日の夜、会食の約束をしていたのは米国人男性だった》

マーク・マンコールさんといって、私が来日する前に働いていた台北国際学舎に滞在していた留学生。彼はタイプライターが苦手で、私は得意だったんで、研究論文を出すときに頼まれて打ってあげた。そしたらお礼として何かごちそうしてくれると言う。私は食いしん坊だから、食事のお誘いは大歓迎なのよ。

私が日本へ留学が決まっていると言うと、マンコールさんも私の来日後、台湾から日本に留学することになっていると言うじゃない。そこで「じゃあ、東京で再会して食事をしましょう」となった。彼は義理堅くて来日後に連絡をくれ、食事の約束をした。そしてその日が、たまたま郵送されてきた「台湾青年」の創刊号を私が読んだ日だったというわけ。

確か午後6時に飯田橋駅前で待ち合わせして、彼が予約しているという六本木のレストランにタクシーで向かった。今でも覚えているけど、車内で何げない会話を交わしてすぐ、彼が聞いてきたのよ。

「日本で刊行された『台湾青年』っていう機関誌を知っているかい?」

もうびっくりよ。初めて手にして美容室で一気に読み、感動したばかりだったから。「台湾青年」はまだバッグの中にあったので、すぐ取り出して彼に見せ、「今日、読んだばかりよ」と答えた。

「内容をどう思った?」って聞くんで、「ものすごくエキサイティング。こんなに日本語がうまくて、これだけの学識と勇気、そして文章力もある台湾の留学生たちが日本にいるなんて、すばらしいと思った」と、率直に感想を述べたわけ。

《マンコール氏は思いもよらない提案をしてきた》

私の反応をみていたマンコールさんが、「じゃあ、この『台湾青年』の関係者の人たちに会ってみる気はある?」と聞いてきた。「台湾青年」を読んで感動したその日に、関係者を紹介してくれるという。この急展開に驚きながらも即答した。「ぜひ会ってみたい」。この反応をみて、マンコールさんは私の思いが本物だと感じたみたい。「じゃあ、今度紹介するよ」と約束してくれたのよ。

私は突拍子もない人間なんですよ。大胆不敵で細かいことを心配せず、会いたい会いたいって、好奇心のあまり言ってしまう。気持ちの中では台湾独立はすべきだと思っていたけど、危険な独立運動に飛び込む覚悟で言ったわけじゃないのよ。そのときは単なる好奇心だった。

《マンコール氏とは何者なのだろうか》

結局、何日かちょっと間をおいて、マンコールさんが呼んでくれた「台湾青年」発行人の王育徳さんと黄昭堂(後に台湾独立建国連盟主席)と初めて会った。場所は彼の自宅。こんなに物事がスイスイと進むのかと感心したけど、今思うと、彼は米中央情報局(CIA)の関係者だったのでは、と。これは私の勝手な想像だけど。

留学生ってだいたい貧乏じゃない。でもマンコールさんのアパートの部屋は、4人で食事をするにも十分の広さだった。一人暮らしなのにね。台湾独立派の人とも知り合いだし。さらに六本木で連れていってもらったお店はロシア料理で、そこのマダムとロシア語で流暢(りゅうちょう)な会話をし始めるわけ。この人、何者って。

留学生でそんなことに手間暇かけ、優雅な生活をしていたわけだからね。金銭的な余裕とか、時間的な余裕とか。正式なCIAの局員ではなかったかもしれないけど、多分、台湾担当か、台湾・日本担当の情報収集の協力者だったのではないかな。何の根拠もないけど。(聞き手 大野正利)

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