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プロ1年目開幕スタメン、新人王も 素行不良のため、永平寺で人間修行を命じられた選手 話の肖像画 元プロ野球選手・張本勲(84)<12>

産経ニュース / 2024年12月13日 7時32分

人間修行のため、永平寺に向かう山本八郎氏(右)を見送る張本勲さん(左)=昭和34年6月、大阪駅

《昭和34年4月10日、東京・駒沢球場で行われた阪急(現オリックス)との開幕戦で「6番・左翼手」で先発デビュー。プロ入り初打席は阪急のエース米田哲也さんに3球三振。これには〝裏話〟がある》

初回、いきなり打順が回ってきました。前の夜、岩本義行監督から「開幕戦をスタメンで使う。ただしうぬぼれるな。新人にチャンスを与えるためだ」と言われてました。米田さんが先発でした。プロ初打席は2死一、三塁。そこで私は〝プロ野球の先輩は絶対に信用しない〟という教訓を学びました。名前は出せませんが、その先輩はいいバッターです。

「いいか張本、米田はカーブでカウントを取りにくるからカーブを狙え。真っすぐは捨ててカーブだぞ。絶対に打てるから…」って。先輩の教えを頭に入れ、打席に向かったんです。前にも話しましたが、パ・リーグもセ・リーグも区別がつかなかった新人だったんです。

《当時は対戦相手を分析するスコアラーもいない時代》

1球目、ビューっとすごいボールがきた。空振り。次はカーブ?って思っていたらまたビュー。空振り。3球目は後から振ったんだ、キャッチャーミットにボールが入ってから(笑)。すべて真っすぐの3球三振。びっくりでした。実は米田さんは100球投げたらカーブは2、3球しか投げないというピッチャーらしい。剛速球ばかりじゃないかって。

《米田さんは通算350勝。前年(33年)は23勝13敗、268奪三振。プロ4年目の21歳でリーグを代表する投手》

すべて振った、本人には言わないけど、もうアドバイスなんかもらうもんかって。そして二回に守備についてレフトフライを万歳(失策)した。風が吹いていてね。ベンチを見たら手招きしていて、戻れという合図があって代わりました。

2軍行きかなと思ったら、あくる日も「6番・レフト」でスタメンでした。選手もいなかった。監督も広島出身(三次市)の岩本さん、その温情もあってチャンスをくれたんじゃないかなと思いました。初回かな、秋本祐作投手から左中間二塁打でした。2戦目で通算3085安打した記念すべき初安打、プロ初打点もついた。三回(2死後)には石井茂雄投手からホームランも打ちました(通算504本塁打の1本目)。

2月の(静岡)伊東キャンプで松木謙治郎さんとの猛練習で学んだ「右手で強く引き込むと球が伸びる」という感触がつかめた気がしました。

《6月には4番に抜擢(ばってき)…》

4番には浪商の3歳上の先輩である山本八郎さんがずっと座っていた。気性が荒く、前の年には判定をめぐってアンパイアを蹴って退場になった。34年も5月の近鉄戦で相手の捕手を殴って、暴れて出場停止になった。それで代わりに私が4番を打ったこともありました。

山本さんには後日談があります。無期限出場停止処分(実際は3カ月で解除)だったので、人間修行のために福井の永平寺に行かされたんです。当時東映の大川博オーナーの考えだったらしい。永平寺の修行は厳しいことで知られてますが、どんな内容だったかはわかりませんが、〝暴れて永平寺〟って(笑)。私も駅まで見送りに行きましたよ。当時、パ・リーグは西鉄は中西太さん、豊田泰光さんら実力があって血気盛んな選手が多かった。まだ戦後の名残が残っていた時代ですからね。

とにかく1年目は、ひたすら野球のことだけ考えていた。夏場までは3割近く打ってましたが、プロは厳しい。相手も研究してきますからね。でも新人王(2割7分5厘、13本塁打、57打点)はうれしかったです。

《ちなみにセ・リーグ新人王は桑田武さん(大洋=現DeNA)。王貞治さんは1割6分1厘、7本塁打、25打点だった》(聞き手 清水満)

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