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外交官へ、国事に携わるのが本懐 話の肖像画 元駐米日本大使・藤崎一郎<14>

産経ニュース / 2024年9月15日 10時0分

外務省首席事務官時代、自宅にて =1976年ごろ

《外交官の道を選んだ》

外交官になろうと思ったのは大学入学後だ。近現代史を読むのが好きで一度きりの人生、末端ででも国事、それも国際的な仕事に関わりたいと思った。エスカレーターで進学したので、外交官試験受験で力試しをしてみたかったこともある。両親は勧めも反対もしなかった。

かつての外交官試験は憲法や国際法、経済原論、財政学、行政法、外交史、外国語など広範囲の試験だった。そのころまで慶応大から外交官試験に合格した人は数人しかいなかった。当時の慶応大の授業は受験には合っておらず、図書館にこもって独学せざるを得なかった。同級生がサークルだ、コンパだと言っている中、一人で勉強するのはつらいものだった。

ところがちょうど運よくその年の冬、法学部の少壮の助教授、講師たちが司法試験や外交官試験の準備をする司法研究室という勉強会を学内で立ち上げた。だからこの勉強会仲間とは親しくなり、長い付き合いになった。夏には一緒に長野県の学生村にも行った。冷房が普及していなかった当時、ひなびた村の民家が空いた部屋を貸し出し、食事だけは公民館などで供していた。

3年生の夏に受験し、運よく合格。その後は慶応大からもたくさん外交官試験、司法試験の合格者が出るようになった。だから退官後、上智大の教授になったとき、上智大から公務員総合職を目指すグループをつくり、今も協力している。

《3年生で合格し入省すると大学卒業資格がないが、問題はなかったのか》

中退者は同期で3人いた。本省で1年間勤務後、23歳で米国留学し、初めに行ったブラウン大では新入生寮に入れられた。寮長は19歳、相部屋となったのは17歳の少年。夜にホームシックで泣く。上級生寮に入れてほしいと大学の副学長に談判したが、「学位のない転入生だから当然だ」ととりつくしまがない。ただちにいくつかの大学院に申請を出したら、スタンフォード大が聴講生なら受け入れると言ってきた。大喜びで政治学科に籍を置き、フランス人学生2人とシェアハウスし、家ではフランス語漬けにした。

このときの同年代の仲間とは今でも付き合いがある。私は退官後、いくつもの大学教授をしたが、学位は持っていない。学歴詐称とならないように、「○○○で学ぶ」と気をつけて書いている。

《せっかく外務省に入っても学閥があったのではないかという人もいる。昨今の公務員離れについてどう考えるか》

実際には世間のイメージとは違い、そんなことはなかった。国際情勢はめまぐるしく動く。その場の状況で適切に判断し、対策を講じていく必要がある。とっさの反射神経や状況判断が大事で、大学がどこかなどといっていられない仕事だからだと思う。

外務省員は物理的にもいろいろな国を回り、仕事内容は広範で安全保障や貿易交渉、情勢分析、地球環境、文化広報など多岐にわたる。動きもはやい。同じ国際的仕事でも、鉄鋼とか食糧とか一つの分野をずっとやるような総合商社より私には性に合っていたと思う。

いま公務員離れが言われる。残業が多い、金銭的に恵まれない、自由度が小さい、などは別に新しい話ではない。他に魅力的な職業が増えてきたのも事実だろう。しかし、公益のために尽くすというやりがいはあるはずだ。

公務員は公僕であり、特権意識を持ってはいけない。同時に、公務員が誇りを持てるようにすることは大事である。たとえば、政府委員制度を復活し、かつてのように公務員が国会答弁の多くを引き受ければ、責任者としてやりがいがあるはずだ。政治家は大きな判断だけすればよくなる。答弁作成の残業時間も減る。公務員をぞんざいに扱う議員がいたり、公務員のミスをメディアが過度にあげつらったりすることも問題だと思う。(聞き手 内藤泰朗)

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