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母の実家に君臨「纏足のゴッドマザー」 話の肖像画 モラロジー道徳教育財団顧問・金美齢<4>

産経ニュース / 2024年8月4日 10時0分

1940年ごろ、小学校入学時に両親と妹と

《1934(昭和9)年、台北で生まれた。父親は中国大陸や日本を行き来する商社マン。お米を扱っていた父親は長女に「米(ビ)」と同音の「美(ビ)」を入れて「美齢」と名付けた》

父は清朝時代に台湾の首都だった台南の出身。前回も話したけど、司馬遼太郎さんは台湾では珍しい「金」という姓から、私の祖先が清朝の「愛新覚羅」では、と連想された。満洲語でアイシンは「金」で、作家として想像されたのだと思うけど、さすがだった。

台湾人には福建とか広東から来た「陳」や「林」という、中国本土の南方系の名字が多い。台湾の金さんは北方の姓で私が知る限り、みんな台南にルーツのある遠戚ばかり。そこで私は勝手に想像した。清朝時代、北京から「文化果つる地」とされていた台湾に派遣された、木っ端役人か何だか知らないうちの祖先は、3年で交代して帰るはずが、台湾の女性にほれて残ってしまったのだ、と。

台南の父方の実家に行ったときに驚いたことを覚えている。門を入るとまず神棚だか仏壇だかの建物があり、次に井戸のある中庭。続いて第1夫人以外の家族が住む建物がひしめき、また中庭。そして一番奥の家屋に第1夫人の家族が住むという、上級階層の造りだったので。

父は第4夫人の長男で、祖父は早くに亡くなり、第4夫人の祖母は番頭と駆け落ちしてしまった。それで父は実家には居づらくなり、妹2人を連れて実家を出て自立したという。

《母方の実家で育った》

父は実直な人だったけど体が弱く、私が小学生高学年になると結核に罹(かか)って療養生活に入ってしまった。それで母は私と妹を連れて実家に住むことになった。母の実家は「茶行」といって、お茶を栽培から焙煎(ばいせん)して製品化し、輸出までする大きな商家。お茶は台湾の主な輸出物で、台北には主要河川の淡水河に沿って茶行が並んでいて、各社はお茶の運搬や出荷がしやすいように水門を持っていた。

当時の台湾の茶行で最も大きかったのが英国のジャーディン・マセソン商会。ここは淡水河に面していた。うちは運河1本入ったところだったから、セカンドクラスかな。でも私が後年、評論家として台湾に帰ったとき、茶行組合が歓迎会を開いてくれるほど知られた茶行で、私たち家族が移り住んでも十分食べていける、裕福な家だった。

母方の祖父は敬虔(けいけん)な仏教徒でぜいたくとは無縁の菜食主義者。私たちが移り住んでいたころは稼業は身内に任せて別荘に引きこもっていた。別荘といっても当時の台湾神社、現在の圓山大飯店のあたりにあった。台北の中心地だから、お金持ちだよね。仏教徒だったので、父方と違って夫人は1人だけ。

その代わりに息子3人の家族と、さらに「食客」の世話もしていた。中国では孟嘗君とか信陵君とかが抱えていたのが「食客三千人」とかいうじゃない。お金を持っている人の、いわばノブレス・オブリージュ(高い社会的地位の人物の社会貢献の義務)なのよ。祖父が世話していたのが中国の登用試験「科挙」で合格したキャリア官僚1人で、官職につけずにいたのを世話していた。何もすることがなく阿片(あへん)ばかり吸っているロクでもない人なんだけど、奥さんは何人もいた。

一代で財をなして隠居状態だった祖父に代わり、実家を支配していたのが祖母。このゴッドマザーが厳しくてね。同居していた息子3人の嫁さんに指示して、私たち家族を含めた一族の毎日の食事を作らせたりしていた。纏足(てんそく)でね、よちよち歩きながら、すごく威張っている。

ゴッドマザーは毎月、孫たちにお小遣いを与えるんだけど、私と妹は嫁入りした娘の子じゃない。跡取りの子ではないのでお小遣いはなし。気が強い私は、ゴッドマザーには近寄らないようにしていた。いいことにありつこうと思って、みんなゴマすっていたけどね。今もそうだけど、私はツッパリだから。うまくやっていれば翡翠(ひすい)か骨董(こっとう)の一つももらえたのにねえ。(聞き手 大野正利)

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