硬直するコンプライアンス、本来は「自律」のための道具だった 成蹊大教授、伊藤昌亮氏 世界線の歩き方
産経ニュース / 2025年1月31日 8時0分
選択次第であり得たかもしれない、この現実とは異なるもう一つの現実。それは今、「世界線」と呼ばれるようになった。産経新聞ではこの言葉を手がかりとして、時代を象徴する5つのキーワード(インターネット、コンプライアンス、豊かさ、結婚、戦争)を考察する連載を展開してきた。より善き未来へと通じる「世界線の歩き方」とは、どんなものだろうか。最前線で思索する識者とともに、今一度考えてみたい。
事前規制から事後監視への「構造改革」
《社会に閉塞(へいそく)感を感じてしまう。なぜ、このような時代になったのか》
英首相のサッチャーや米大統領のレーガンの政策に象徴される英米のネオリベラリズム(新自由主義)は、それまでの国が経済活動や市民活動を手厚く保護する福祉国家を縮減し、政府の経済活動への介入を極力減らして市場原理に委ねようという動きだった。
戦後日本には、英米のように確固とした福祉国家というものがあったわけではなく、しきたりが守られる「ムラ社会的」なものがあり、独自の経済活動が行われていた。
1990年代以降、その社会を解体して市場に移行しようとしたのが、「行政改革」を唱えた橋本龍太郎政権であり、それを受け継いで「構造改革」を断行した小泉純一郎政権だった。原点にある精神は、2000年12月に閣議決定された「行政改革大綱」だ。そのなかには、「事前規制」から「事後監視」へと構造変化を促すという趣旨の文言が確認できる。
《ムラ社会的なものというのは、具体的には「自分の仕事が終わっていても上司より先には退社しない」といったような職場で幅を利かせていた慣習のようなことか》
そう、当時はあらかじめさまざまなルールが決められ、社会が秩序づけられていた。行革大綱のいう「事前規制」とは、そういうことだ。コード(振る舞い、型、規範)を守ってさえいれば、パワハラやセクハラも大目に見られる「なれ合いと癒着の構造」が生じやすい環境だったといえる。
競争が起きない上に、規制するコストが結構かさんでしまう。そこで規制を外し、自分らしく生きて、自由に競争できるようにしようとした。それが日本のネオリベラリズムの動きだった。
しかし、自由競争にまかせると、悪事を働こうとする輩が出てくるかもしれない。監視のシステムが必要となるが、事前にチェックしてしまうとムラ社会的だったころと同じになってしまう。そこで、何か起きたときに対処できるように、皆で監視し合うことにしようとになった。これが現代社会が置かれた「事後監視」という状況だ。
そこで導入されたのがコンプライアンス(法令順守)という概念だ。もう法律や条例で事前には決めないよ、と。その代わりに自分たちで行動基準をつくってそれに沿ってやっていく。違反したら自分たちで制裁しましょう、という仕組みだ。
だから、組織の内部通報制度や、裁判員裁判という市民裁判制度などの司法制度改革もこの時期に行われた。「他律」から「自律」へという、人間観の変革があった。
取り締まりが自己目的化
《その制裁が、交流サイト(SNS)では「炎上」という現象となっているのだろう。この息苦しさの正体は何なのか》
コンプライアンスは、人々が不正をはたらかないように自らを律しながら競争するための道具だった。ところが、自己目的化してしまい、乱用され、取り締まること自体が目的になってしまった。誰もが自由で自分らしくいるという本来の目的がかすんでしまった。
行政改革が十分な経済成長と結びつかなかったことも一因だろう。その結果、逆に自律と成長を押さえ込むようになってしまい、想定していた世界線からずれてしまった。コンプライアンスは大切な概念だ。もう一度、本来の目的は何だったのかを考えるべきだ。
◇
いとう・まさあき 昭和36年、栃木県出身。東京大大学院学際情報学府博士課程修了。専攻は社会学。著書に『炎上社会を考える』(中央公論新社)、『ネット右派の歴史社会学』(青弓社)、『デモのメディア論』(筑摩書房)など。
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