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考古学発祥の地、大田原市湯津上 水戸黄門が発掘した古墳 栃木県が330年ぶりに調査  味・旅・遊

産経ニュース / 2024年12月16日 11時0分

「日本考古学発祥の地」とされる栃木県北部の大田原市湯津上(ゆづかみ)地区。日本最初の学術的な古墳調査が行われたからだという。調査を指示したのは時代劇でも有名な水戸黄門こと、水戸藩2代藩主の徳川光圀(みつくに)。この地でなぜ、古墳調査が行われたのか。古代ロマンにあふれた湯津上の地を訪ねた。

大田原市南東、那珂川沿いに広がる湯津上地区。光圀の命で調査が行われた古墳は2基で、上侍(かみさむらい)塚古墳(墳長114メートル)と下侍(したさむらい)塚古墳(同84メートル)。ともに前方後方墳(四角形と台形を組み合わせた古墳)で国の指定史跡となっている。

「那須国」に点在

周囲を田んぼに囲まれた下侍塚古墳の周辺には、小高く土が盛られたような小規模な古墳が点在している。侍塚古墳群といい前方後円墳や円墳など計8基。古墳群を回遊しながらこの地が「那須国」といわれていた古代(古墳時代)、周辺には多くの人々が暮らし、にぎわい、文化を育んできたに違いないと想像が膨らんだ。

下侍塚古墳から歩いて10分ほどの光圀ゆかりの神社「笠石神社」を訪ねると、19代目宮司の伊藤克夫さん(75)が「那須国」の歴史や光圀と古墳との関わりなどについて、丁寧に説明してくれた。

「古代、今の栃木県で最も栄えていたのが、『那須国』でした」と佐藤さん。「土地が肥沃(ひよく)で水も豊か。日本で初めて砂金も採れた」と聞いて驚いた。砂金は奈良東大寺の大仏の鍍金(めっき)に使われたという。

また、光圀が命じた古墳の発掘調査は旅の僧が湯津上で古碑(国宝の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ))を見つけたことに始まる。その話を耳にした水戸藩領だった那須郡小口村(現栃木県那珂川町)の庄屋が現地を訪れ、碑文を読み「那須記」という書物にまとめ、領内を巡行中の光圀に献上した。

佐藤さんによると、古碑は大和政権で任命された地方官にあたる元「那須国造」の「那須直韋提(なすのあたいいで)」という人物を顕彰したものだった。光圀は「韋堤」の墓を見つけるよう命じた。

助さんに命じて

調査が行われたのは元禄5(1692)年。時代劇の「助さん」のモデルとされる家臣の佐々介三郎宗淳(むねきよ)が発掘調査にあたった。

最初は碑の下を掘ったが何も出なかったため、地元で国造の墓と伝承があった上侍塚と下侍塚の2基の古墳を発掘。古墳からは鏡や管玉(くだたま)、鉄鏃(てつぞく)などが出土したものの、被葬者の名を記した墓誌などは見つからなかった。このため出土した遺物は絵師に描かせるなど調査記録に残したうえで松で作った箱に納め、再び埋め戻された。

その後、僧が「那須国造碑」を見つけ、最初の発掘が行われた場所に光圀が創建したのが笠石神社。日本で唯一碑をご神体にしている。佐藤さんは「那須国は豊かだったでしょう。有力な権力者がいて、進んだ技術とたくさんの労働力がなければ、あんなに大きなお墓はつくれない」と力説、「湯津上は中央の朝廷と深いつながりをもつ重要な地域だったと思います」と話した。

光圀が発掘した上侍塚、下侍塚の2つの古墳では県が再び発掘調査を進めている。上侍塚の調査は光圀以来、約330年ぶり。新たな解明が期待される古代歴史の地を、一度訪れてみてはいかがだろうか。

(伊沢利幸)

笠石神社 栃木県大田原市湯津上430。東北自動車道の矢板ICから約40分。神社から上侍塚古墳、下侍塚古墳まで徒歩10~15分。本殿には日本三古碑の一つとして数えられる国宝「那須国造碑」がご神体として祭られている。予約すれば拝観料が必要だが、公開している。【問】0287・98・3758。

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