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馬総統誕生で再び「日本人」に 話の肖像画 モラロジー道徳教育財団顧問・金美齢<28>

産経ニュース / 2024年8月29日 10時0分

中華民国国策顧問として講演=平成13年2月

《2000(平成12)年3月、中華民国の総統選で陳水扁氏が当選、初の民進党政権が誕生した。新政権では台湾独立建国連盟主席の黄昭堂氏とともに国策顧問に就任した》

国策顧問就任は産経新聞の特ダネで知った。総統選からしばらくしたころ、朝刊を読んだ夫の周英明が「産経新聞が誤報しているよ」って言うのよ。私たち夫婦は知らなかった。でもこれはスクープだって分かった。で、周英明に「これは誤報じゃないよ」って伝えたの。彼は真面目で優等生だから、メディアの事情を知らないわけ。その後、黄昭堂から電話があって誤報でないことが確認できた。

事前の噂で、私は台北駐日経済文化代表処代表、という話が出ていると聞いていた。駐日大使にあたるポストなんで、さすがにそれはないだろうと思っていたのよ。日本の外務省がアグレマン(同意)を出さないだろうって。台湾独立を許さない中国を気にしているからね。代表は羅福全。前に話したけど、私が早稲田大学時代に設立した留学生の団体「台湾稲門(とうもん)会」の初代総幹事(会長)にって思っていた人。米国に留学後、国連で働いていたし、適任だよね。それもあって私は国策顧問に落ち着いたんじゃない?

《国策顧問に就任した翌年、難題が降りかかる。国民党一党独裁を批判した小林よしのり氏の著作「台湾論」を擁護したことで台湾メディアの標的になったのだ。弾丸入りの封書まで送り付けられた》

あのときは立法委員(国会議員)選挙が控えていて、歴史的な政権交代を許した国民党の候補者たちが巻き返しにやっきになっていた。「台湾論」を批判すれば選挙のアピールになると思ったんでしょう。でも小林さんが台湾への入境禁止になったんで、さすがにこれは民主主義の台湾で許されていいわけがない。それで台湾に駆けつけた。

空港に着いたとたん、メディアに囲まれた。みんな私が30年以上も台湾に帰れず、中国語はできないだろうと思っていたみたい。だから矢継ぎ早の質問に私が次々と中国語で答えると、一気に雰囲気が変わった。中国語ができず、意見も言えない国策顧問として取り上げようとしていたんでしょ。その思惑は外れ、さらにテレビ番組で「台湾独立」とはっきり言ったのは私が初めてだったみたいで、その後はご意見番として新聞や雑誌、テレビ番組に呼ばれるようになった。

私の言説を苦々しく思う人はいる。弾丸入りの封書が送られてきた。これでまたメディアに囲まれたんだけど、「ありがたくいただきますよ」って答えたのよ。ビビッていたら女がすたるでしょ。そうしたら台湾独立建国連盟のメンバーにたしなめられてね。「ああいうときは『言論の自由の封殺は許さない』と殊勝に話した方がいい」と。

《2008年3月の総統選で、国民党の馬英九候補が当選した》

馬英九候補が当選したら対中接近をもくろむことは目に見えていたので、私は絶対に政権を渡してはならないと思っていた。中国は大きな市場だから経済的に魅力があるのは分かるけど、民主化を歩み始めた台湾を一党独裁を続ける中国共産党に干渉させてはならないと。

あの総統選で馬英九さんはうまく活動していた。イケメンだし、女性票を取り込んでいったのよ。今でも覚えてるけど、私も参加したある集会に馬英九さんだけが黒い蝶(ちょう)ネクタイで登壇した。台湾の人って見てくれにあんまり構わない。結婚式にもポロシャツで出席しちゃうくらいなの。その集会もフォーマルなものではなかったのに馬英九さんは蝶ネクタイでさっそうと現れた。これは侮れないなと思ったら、やっぱり浮動票が流れて民進党候補は負けてしまった。

日本に帰国するとき、負けた私がどんな顔しているかって、空港でメディアに囲まれた。そのときに言ったの。「台湾人であることをやめます」って。11歳のときに終戦を迎えて半世紀以上がたち、私は再び日本人になることになった。(聞き手 大野正利)

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