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藤原道長の長男・頼通の邸宅跡から大型礎石出土 後鳥羽上皇がひっくり返して再利用か

産経ニュース / 2025年1月7日 20時42分

今回出土した2個の礎石はいずれも重量200㌔以上だった=令和6年6月、京都市中京区

平安時代に権勢を振るった藤原道長の長男で、世界遺産・平等院(京都府宇治市)を創建した摂政・関白、藤原頼通の邸宅「高陽院(かやのいん)」跡(京都市中京区)から、大型礎石が2個出土していたことが分かった。頼通時代に邸宅とは別の未知の大型建物が存在したことを物語る証拠といえそうだ。

大型礎石はいずれもひっくり返った状態で見つかり、今回の調査では、鎌倉時代にこの場所を御所とした後鳥羽上皇が礎石を逆転させた可能性が浮上。専門家は「時代の転換点を知らせる史料だ」と評価している。

高陽院は9世紀、桓武天皇の皇子の賀陽(かや)親王が邸宅を建てたのが始まりだ。治安元(1021)年、頼通が敷地を4倍に広げて邸宅を造営し、天皇行幸(ぎょうこう)の下で競馬を催した様子は絵巻にも描かれる。しかし鎌倉時代の元久2(1205)年に御所とした後鳥羽上皇が、敷地の西半分を埋めて縮小した。

今回は集合住宅建設に伴い、民間団体「平安京調査会」(京都市)が令和6年5~6月、大炊御門(おおいのみかど)大路(現・竹屋町通)の北側沿いに建てられた頼通時代の高陽院の南西付近約165平方メートルを調査。池の水際近くから礎石2個と園池跡が出土した。

礎石はいずれも最長70センチ以上、重量200キロ以上と大型。2個とも柱を据えた平らな部分を下にした状態で見つかった。同様の礎石は、平成17年度に行われた調査でも2個見つかっている。

同調査会は「頼通時代に、釣殿(つりどの)のような園池を望む張り出し施設があった可能性が高い」と指摘する。

さらに鎌倉時代、後鳥羽上皇が敷地を頼通時代の半分に縮小する際、不必要な土地を埋め戻す作業で礎石を使っていたことも判明した。敷地の南を通る大炊御門大路に土が入り込まないよう、道沿いに堤を築く際の核に礎石をひっくり返した状態で転用していたとみられる。

高陽院は承久3(1221)年の承久の乱で後鳥羽上皇が敗北した後、後高倉上皇が入ったが、その2年後に放火による火災で焼失。その後再建されることはなかった。

今回の調査について山田邦和・同志社女子大特任教授(考古学)は「藤原頼通の隆盛を物語る大型の礎石は、承久の乱後に焼失するまでの貴族の興亡をほうふつとさせる。貴族が築いた時代の転換点を知らせる史料といえるだろう」と話している。(園田和洋)

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