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帰国子女だった母、芙佐子 祖父は松岡洋右外相の「パージ」で辞職、谷崎潤一郎との交友も 話の肖像画 元駐米日本大使・藤崎一郎<13>

産経ニュース / 2024年9月14日 10時0分

父の藤崎萬里(右)と母、芙佐子=1970年ごろ、オランダで

《母上は外交官の藤井啓之助さんと伊藤博文公の孫、清子さんの次女ですね》

そうです。藤井啓之助は外務省ではロンドン、ワシントンなどに勤務した英米派で、松岡洋右外相の「パージ」で辞職します。私が上皇陛下の天皇の即位の礼の担当になり、昔の書類を調べていたら、祖父の啓之助が外務省人事課長で昭和天皇の即位の礼の担当として書いた備忘録があり、不思議な縁を感じたことがあります。

終戦後、英米派の外交官が復活したとき、不幸にも病に侵され、逗子の小坪で長期療養しました。そのとき、府立一中、一高での親友で、すでに文豪の令名高かった谷崎潤一郎が、自身も心臓が悪かったにもかかわらず「どうしても行かねばならない」と言って小坪の坂を休み休み上って見舞ってくれたそうです。遊び人でワルの谷崎と対照的な真面目で温厚な祖父は、かえってウマがあったようです。

祖母の清子は曽祖父に伴われてドイツで暮らした際、「ドイツ語が堪能な東洋の少女がいる」と珍しがられ、ドイツのヴィルヘルム2世皇帝陛下のところに連れて行かれたそうです。祖父はおとなしい性格ですが、祖母は対照的に活発で、戦後、食糧が配給で闇取引の取り締まりが厳しかったときは、祖母自ら夜中にトラックに乗って家族のために食糧調達に奔走したと、母が述べていました。祖母にとっては控えめな夫は物足りず、自分の祖父の伊藤が最後まで仰ぎ見る存在だったようです。

《母上の戦争体験は?》

祖父の外交官としての最終ポストであったチェコスロバキア公使(現在の大使)のとき、10代だった母、芙佐子は同行します。ヒトラーがプラハに入城したとき、妹と一緒に見に行ったそうです。ヒトラー歓迎の大歓声に、「強い者には巻かれておこうという欧州小国の国民の長い間の知恵なんだな」と思ったそうです。

母の最愛の兄はニューギニアで戦死し、祖父の麻布の家は空襲で焼け、祖父は仕事を失います。ですから母は生涯、戦争や多くの若者を戦場に送り出しながら責任をとらず老後を悠々と暮らす元将軍や参謀たちに強い感情を持っていました。

母は東京育ちの都会ガールでしたから、父の郷里、鹿児島の男尊女卑の風習には終生違和感を持っていました。ワシントン、ロンドン、ベルリン、プラハで昭和初期を過ごし、ヨーロッパ大好き人間でした。外国人と話すのも好きで、私が外国出張して英国王室の本など持ち帰るのを楽しみにしていました。

もっとも子供のころ、ドイツで友達の家で「東京にも地下鉄がある」(銀座線開通は1927年)と母が言うと、大人たちが目配せをしあって「この子は背伸びしてウソを言っているが、否定して恥をかかせないでおこう」という感じだったので憤慨したと話していました。ですから、外国かぶれではなく、外国になめられてはいけないという負けん気も強かった。

父と母は育ちも性格も違いましたが、2人とも体裁ぶったり自慢したりするのを嫌うことは共通でした。

《母親の教育は?》

母は外国育ちでしたが、最近流行の米国流のほめて伸ばすといったような教育方針は持っていませんでした。もっともだらしなく忘れものが多い私にはほめるところがみつからなかっただけかもしれませんが。私が外交官になったことは素直に喜んでいました。どの任地にも父と一緒に遊びに来ました。

晩年は折り紙を折って和紙に貼り付けたグリーティングカード作りを趣味にしていました。私は大量につくってもらい、5枚ひとたばにして上着のポケットに入れておき、大統領や国務長官など要人と会うとき、スモールギフトとして渡していました。費用のかかるものでなく、80を超した老母の手作りのカードを断る人はおらず、いい手土産になりました。(聞き手 内藤泰朗)

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