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彭氏脱出作戦を支えた日本人 話の肖像画 モラロジー道徳教育財団顧問・金美齢<24>

産経ニュース / 2024年8月25日 10時0分

1980年ごろ

《台湾独立運動の機関誌「台湾青年」の刊行に尽力した日本人が2人いた。ひとりはすでに紹介した歴史作家で評論家の鳥居民氏。もうひとりは宗像隆幸氏で、個性的な人物だった》

「台湾青年」の編集事務所は雑居ビルの2階にあって、宗像さんは同じビルの3階に住んでいた。「台湾青年」の編集作業だけでなく、事務の仕事を一手に引き受けてやっていた。だからいろんなことをよく知っているし、「台湾青年」への貢献が一番大きかった人ですよ。コツコツと積み上げていくタイプでなく、豪快で普通のサラリーマンは勤まらない人。鄭飛龍(鳥居氏のペンネーム)は立派な物書きだったけど、宗像さんは台湾独立運動で特命みたいな任務も行っていた。

宗像さんは学生時代、たまたま許世楷(後に台北駐日経済文化代表処代表)と同じ学生寮に住んでいた関係で、「台湾青年」にスカウトされた。許世楷は口がうまいから、だまされちゃったんだろうね。最初はお手伝いみたいな役割だったのが、ズルズルはまって生涯、台湾独立運動に関わることになった。性にあっていたんだろうね。

《この宗像氏が1970(昭和45)年1月、世界を驚嘆させることに》

宗像さんは台湾大学の国際法の権威、彭明敏教授の海外脱出を裏で支えた功労者。彭明敏さんは国民党の一党独裁体制を批判した「台湾人民自救運動宣言」を作成し、反乱容疑で逮捕されて実刑判決を受けたんだけど、国際的な批判が湧き上がって収監はされず、自宅で軟禁状態となっていた。

彭明敏さんと宗像さんは、直接の知り合いではなかったみたいだけど、通信社の記者や香港在住の米国人宣教師、そして東京大学の衞藤瀋吉先生と台湾独立建国連盟のリーダー、黄昭堂が間に入って、彭明敏さんの海外脱出を画策することになった。その作戦がまあ、奇想天外でね。

協力者の日本人のパスポートを変造して写真を貼り替え、そのパスポートで台湾を脱出するというもの。このパスポートの変造を行ったのが宗像さん。事務所のあるビルの3階の部屋で、宗像さんは貼り替えた写真の上に押す凹凸の割り印を作るため、9カ月間も試行錯誤を繰り返していたという。普段はお酒を飲むのが好きでね。太っ腹で楽しい人なんだけど、あんなに細かい仕事もできるとは、後になって聞いて本当にびっくり仰天ですよ。私にはそういう忍耐力はないからね。

彭明敏さんは香港、バンコクなどを経由して、亡命先のスウェーデンに到着した。宗像さんのところには、「サクセス」っていう電報が届いたという。著名な学者だったから、国際的に大きなニュースになってね。彭明敏さんはその後、米国などで亡命生活を送りながら台湾独立運動を行い、前にも話したけど初の直接選挙となった1996年の総統選に立候補したけど李登輝さんに敗れ、次点となった。

《宗像氏の生活を支えたのは台湾の篤志家だった》

奇美実業の創始者である台南の実業家、許文龍さんが最後まで宗像さんの面倒をみていた。毎月ちゃんと送金してくれて。許文龍さんは「台湾青年」にも寄付をし続けてくれてね。「台湾青年」が42年間、500号まで続いたのは、許文龍さんみたいな理解者のおかげだよ。購読料なんて大したことないし、紀伊国屋に置いても1カ月に数冊しか売れないわけだから。

許文龍さんは台南に美術館を建てたんだけど、以前は誰でも来館できるよう、無料開館されていた。運営はお土産の売り上げで賄っていたんだって。志の高い方だった。

(聞き手 大野正利)

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