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大学3年で週刊誌デビュー 右翼の大物に激怒されるも懐に飛び込み初めての写真集も 話の肖像画 報道カメラマン・宮嶋茂樹<15>

産経ニュース / 2024年7月15日 10時0分

足しげく通い信頼を得て撮影した、寝室でくつろぐ赤尾敏氏(本人提供)

《大学1年生のとき、東京・数寄屋橋で見かけ、どうしても撮りたくなったのが、街宣車の上で毎日、演説をしていた右翼活動家の赤尾敏氏。意を決してアプローチした》

声をかけるまで3カ月ほど迷いました。当時は「日本大学芸術学部写真学科 宮嶋茂樹」という名刺を作っていましたが、裏面には英語表記も入れてました。右翼の人に英語はまずいと思い、日本語だけの名刺を新たに作りました。街宣車の周囲に警察官が大勢いることもあって、怖かったです。

ある日、勇気を振り絞って街宣車の近くにいた大日本愛国党の方に「学生なんですけど、赤尾敏先生の写真を撮らせてください」と切り出すと、「本人に直接、言ってくれ」とのこと。その後、赤尾さんに「総裁、こちらの学生なんですけど話があるそうで」とつないでくれ、名刺を渡すと喫茶店に連れて行かれました。

席に着いた赤尾さんは「このままでは日本は潰れますよ」と、いきなり私1人に演説を始め、1時間ぐらいたったころ「ところで君は何だ」と言われました。「大学生で赤尾先生の写真を撮らせてもらいたくて…」と緊張しながら言うと、「そんなの勝手に撮ればいいだろ」とあっさり言われました。それが最初でしたね。

《いざ撮り始めると、右翼の大物にも物おじせず食い込んでいった。ときには激怒されたことも…》

知り合うと怖い人ではなかったですね。名刺の英語を気にするような人でもありません。少しずつ撮り始め、慣れたら「食事風景を撮りたい」などと頼むようになり、最後は入浴まで撮りました。大学1年生のときに撮り始め、2年生からは本格的に追うようになり、党本部に泊まったこともありました。

ある日、赤尾さんの自宅でトイレを借りたとき、和式便器の前に「臥薪嘗胆」と書いてあるのを見つけました。「これは面白い」とシャッターを切っていたら、後ろから見られていて「何撮ってんだ」「こんなもん撮って、どうするんだ」と怒られたことも。寝室には党のポスターが全面に張ってあって驚きました。

赤尾さんを追い続けると、いろいろな場面に遭遇しました。デモや集会、機動隊との衝突までありました。社会人になってからも、日教組大会が開かれた北海道や沖縄での街宣活動を取材し、週刊誌に掲載されたこともありました。最後に撮ったのは赤尾さんが亡くなったときで、平成2年です。撮り続けたカットの集大成が、初めて出した写真集「人間 赤尾敏」。30歳のときでした。

《初めて開催した写真展。海外で取材した力作が大手出版社の目にとまった》

大学2年生のとき、当時のソ連に行くようになりました。アルバイトで貯金ができたので。でも、母から借りて返さなかった分もあるかなあ…。1回目が約2週間、2回目は1カ月以上行きました。ハバロフスクからシベリア鉄道に乗り、1週間かけてモスクワへ。そこからレニングラード(当時)やバルト三国にも行きました。ほとんどが鉄道の旅で、かなり安上がりだったんです。楽しかったですね。

ソ連で撮った作品で、大学3年生のときに友人と合同写真展を銀座でやりました。そこで発表した私の写真が、週刊新潮に掲載されました。モノクログラビアを8ページほどもらえたんです。写真展会場がフィルムメーカーのギャラリーで、写真展の告知はがきをいろいろなところに出してもらえました。それがきっかけで、週刊新潮が私の写真に目を付けてくれたんです。

テーマは「モスクワの売春婦」。「ソ連に売春婦はいない」という当時の常識を覆す写真が新鮮だったんでしょうね。(聞き手 芹沢伸生)

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