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逃亡生活で「台湾青年」を守り抜く 話の肖像画 モラロジー道徳教育財団顧問・金美齢<21>

産経ニュース / 2024年8月22日 10時0分

昭和42(1967)年ごろ、金沢市の兼六園にて

《昭和39(1964)年7月、陳純真氏のスパイ事件で、国民党一党独裁に反対する独立派の機関誌「台湾青年」の主要メンバー7人が傷害などの容疑で逮捕、起訴された。嫌疑は夫の周英明氏にもおよび、夫婦で逃亡生活に入ったが、これにはやむをえない事情があった》

「台湾青年」の主要メンバー、黄昭堂(後の台湾独立建国連盟主席)や許世楷(後の台北駐日経済文化代表処代表)らが勾留されているとき、彼らの面会に行ってくれたのが東京大学教養学部の衞藤瀋吉先生。その衞藤先生が教え子の黄昭堂の伝言を私たち夫婦に伝えにきてくれたのよ。そのときのことは今でも鮮明に覚えている。

連絡をもらって、私と周英明は待ち合わせ場所の赤坂迎賓館前広場で待っていた。衞藤先生と私たち夫婦は初対面。車で現れた衞藤先生が伝えてくれた黄昭堂の言葉は「『台湾青年』を存続させてくれ。周英明と金美齢に任せた」だった。

衞藤先生はそのとき助教授だったと思うけど、将来有望な研究者が何の得にもならない台湾独立派のため、危険を顧みずにこんなことまでしてくれるのかって胸が熱くなったね。国民党が仕組んだこのスパイ事件で「台湾青年」が休刊になれば、相手の思うつぼでしょ。この機関誌は独立運動のシンボルだったから。この伝言で、周英明と私は「台湾青年」の刊行が途絶えるようなことは絶対にしてはならないと覚悟を決めた。

《逃亡劇を支えてくれた頼もしい日本人がいた》

初日に泊まったのが赤坂プリンスホテルだけど、連泊できるほど金銭的な余裕はない。でも「台湾青年」の編集作業は続けなければならない。そこで頼ったのが、日本人の編集メンバーだった鳥居民さん。「台湾青年」には鄭飛龍などのペンネームで執筆していた名文家で、「毛沢東 五つの戦争」という大作も書いている。

この鳥居さんが住んでいた横浜を拠点に、私たち夫婦は鳥居さんが紹介してくれるお友達のお宅を転々とする日々となった。もちろん逃亡しているとは言わないよ、相手に迷惑をかけるからね。鳥居さんがうまく説明してくれたみたいで、台湾の知り合いが遊びに来たくらいの感じで自然に泊めてくれた。ホームステイみたいな感じで、申し訳ないけど結構、楽しかった。物書きだけでなく、そういう手配もできる人だった。

鳥居さんは「台湾青年」にはなくてはならない存在だった。黄昭堂も許世楷も周英明も私もブラックリストに載っていて、台湾に行くことができない。鳥居さんは台湾の大学に留学していて、帰ってくるときに段ボールでいくつもの大量の資料を持ってきた。この資料で台湾で起こっていることが把握できた。その後もつてを駆使して、現地の刊行物を取り寄せたりしてくれた。だから「台湾青年」ってある意味、鳥居さんに支えられていたのよ。

《こうして発刊された「台湾青年」44号には、表紙裏に「本会幹部逮捕さる 国府(国民党政府)大使館の謀略」と題した緊急寄稿を掲載。「今度の謀略事件により、われわれの団結はますます強くなり、国府の権威がますます失墜することを、大使館の事件製造者たちは思い知ることであろう」と記している》

黄昭堂たちがいないなかでも、「台湾青年」はちゃんと出版されますよっていうことを示すことができた。この意義は大きいよ。大使館はびっくりしたと思う。主要メンバーが1カ月近く勾留され、当然、休刊すると思っていただろうからね。でも誰が編集したのか、なにごともなかったかのように刊行され、しかも事件についても触れられている。反体制派の「台湾青年」を支えている人脈は底知れない広がりになっていると感じたと思うよ。(聞き手 大野正利)

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