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ハイヤーで向かった中学受験 話の肖像画 報道カメラマン・宮嶋茂樹<6>

産経ニュース / 2024年7月6日 10時0分

小学校6年生の秋、運動会でトランペットを吹く(中央が本人)。受験勉強に追われながら学校行事も真面目にこなしていた

«小学校高学年になると、受験の準備に追われた。生まれ育った兵庫県明石市では当時、私立中学を目指す小学生は少数派。夢中になっていたソフトボールなどをやめ、塾通いの日々が始まる。ひとり息子に期待する両親の思いは大きかった»

中学受験を決めたのは、母に勧められたのがきっかけだと思います。母は生前、「私立中学受験を決めるときは、何度も意思を確認した」と話していましたが、やっと小学校高学年になったころです。インターネットもない時代ですから、大した情報もありません。自分でいろいろ調べて、積極的に「中学受験をしたい」と言ってはいないはずです。

まわりの友達の間でも、私立中に挑戦する雰囲気はありませんでした。通っていた小学校は1学年5クラスの大規模校で、同学年の児童は約200人いましたが、私立中を受験したのは3人だけだったと思います。

«小学生時代の成績は「オール5」に近かった。ただ、ガツガツ勉強するタイプではなかった»

小学校の成績は悪くなかったです。学年トップというほどではありませんが、通知表はほとんど「5」でした。でも、決してガリ勉タイプではありません。とりあえず、学力を伸ばすには進学校に行く方がいいということになって、塾通いを始めました。小学校5年生くらいからですね。週2日か3日だったと思います。

塾といっても、今のように有名な予備校などがやっている大きなところではなく、明石市内の小学校の先生がこっそりやってる私塾で、場所も先生の自宅です。先生が問題を作って「傾向と対策」的なことをやっていました。一緒に通っていた受験生は10人くらいでしたね。

«挑戦したのは進学校として知られる白陵中学。中高一貫校で毎年、東大や京大、阪大などの難関校に50人ほどが合格し、卒業生には著名人も多い。受験したのは50年前だが、試験当日は驚きの交通手段で会場へ向かった»

同じ塾に通っていた子たちが目指す私立中はいろいろで、最難関の灘の希望者もいました。当時のランキングは灘、六甲学院、甲陽学院、淳心学院みたいな順だった記憶があります。私が受験したのは白陵中。自分が狙えるエリアにあった学校の中で、難易度は5番目くらいだったんじゃないかな?

試験当日は、チャーターしたハイヤーで会場に向かったのを覚えています。私と母、それに友達とそのお母さんの4人で乗りました。実家がある西明石駅から、受験先の最寄り駅までは7駅、距離にして20キロ以上あって結構、遠いんです。料金は、その子の家とシェアしたのかなあ。1日借り切ったんですから安くはなかったはずです。それだけにハイヤーに乗ったとき、子供心に「これで落ちたらどうしよう」という、プレッシャーを感じました。

認めたくはないですけど、当時としては、いい家の過保護で育った子供のように見えちゃいますよね。でも、どうして電車じゃなくてハイヤーを使ったのかなあ。合格したら電車通学なんですから。

«努力のかいあって結果は見事合格。ただ、手放しで喜べない理由があった»

正直言って、うれしさは半分でした。スパルタで有名な学校だったんです。その厳しさは県内外にとどろいていました。だから、合格しても喜びと不安が入り交じってましたね。

不安は的中しました。待っていたのは、今では信じられない究極のスパルタ、容赦ない体罰です。それはそれは厳しかったですよ。(聞き手 芹沢伸生)

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