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被爆者として、ノーベル平和賞への思い 覆いかぶさってくれた母、背中にガラスの破片や血 話の肖像画 元プロ野球選手・張本勲<1> 

産経ニュース / 2024年12月1日 10時0分

自宅にて

《今年、日本のプロ野球は90周年を迎えた。球史に残る記録がある。400勝投手の金田正一さん(巨人など)、868本塁打の王貞治さん(巨人)とともに3085安打の張本勲さんである。その張本さんが、今年一番感銘を受けたシーンは野球ではなかった。10月11日、ノーベル平和賞に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が決まった瞬間だった》

ホッとしました。感謝してますよ。本当に良かったと思ってます。でも遅い。もっと早くいただきたかった。亡くなった先人たちにも聞かせてやりたかった。人間の世界でね、物を持って、全く関係ない人間を殺すということがあってはいけない。獣の世界にもない。まして人間の世界では、絶対あってはいけないんですよ。

《昭和20年8月6日、広島に原爆が投下され、被爆した》

私は5歳でした。広島市の段原新町(現南区)という所に比治山という標高70メートルくらいの山があった。その麓に、江戸時代の長屋みたいなのが20軒くらいあって、そこに住んでいた。午前8時15分、母(順分(スンブン)さん)と2番目の姉(愛子さん)と3人で家にいた。

ちょうど遊びに行こうとしていたので、玄関先にいたんでしょうね。突然、ピカッと光ったと思ったらドーン。まさに〝ピカッドン〟ですよ。そのとき、母が姉と私の上に覆いかぶさってくれたようなんです。白い服を着ていた母の背中にガラスの破片や血がにじんでいたのは、はっきりと覚えています。

原爆は比治山の反対側に落ちたんですが、爆風とか毒の入った熱風はさえぎられた。家は爆心地から直線距離で2キロちょっとでしたが、山の麓のおかげで命拾いしたんです。友達と一緒に遊びに行くはずだったのは(爆心地から)もっと離れた所でした。比治山の陰にかからなかった所だったので全滅ですよ。

一番上の姉(点子さん)は比治山の頂上付近で勤労奉仕していた。まともに受けている。何千度ですよ。小学校6年生で、5組あった。全員で250人くらいいた。11、12歳ですよ。将来ある子供だよ。それが全員犠牲になったんです。いかに無残なことか。経験した人しかわからないですよ。

《時折、目頭を熱くする。被爆経験者にしか語れない言葉の重さがあった》

核の問題は難しいです。特に日本は…。核を持っているアメリカと同盟を結んでいる。私はね、『核』という名前を出したことはない。『争い』という言葉に置き換えている。争いは人間の世界であってはいけない。人間には、話し合うという知恵がある。話し合いができないから、〝ソレ〟が必要だという人もいるけど、そうじゃない。武器を持って相手を倒すというのは、言い訳ですよ。お互いに引くべきところは引く、強気に行くべきときは行く。常に長い時間をかけて、話し合いをしないとだめです。

広島に原爆が落ちた。死ぬまで残る、死んでからも残る。アメリカでは、広島の復興に70年はかかると試算したと聞きました。それを10年足らずで復興にこぎつけた。何とか飯が食えるまでにね。人間の力というのはたいしたものです。そういう力が人間にはある。争わなくてもできないことはないんです。

自分の目で、そういう悲惨さを見ている、体験したからね。だから世界のあらゆる人に知ってもらいたい。被団協がノーベル平和賞に決まったことは、とても意義深いことなんです。(聞き手 清水満)

張本勲

はりもと・いさお 昭和15年6月19日、広島生まれ。34年に大阪・浪華商(現大体大浪商)から東映(現日本ハム)に入団して新人王。37年のリーグ優勝に貢献し、MVPに輝いた。51年、巨人に移籍。ロッテに移った55年、史上初の3000本安打を達成、56年に引退。23年間の通算成績は3割1分9厘、504本塁打、3085安打。首位打者7度はイチローと並び1位タイ。現在はスポーツニッポン新聞評論家。球界の御意見番で知られる。

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